石橋正孝「<驚異の旅>または出版をめぐる冒険 ジュール・ヴェルヌとピエール=ジュール・エッツェル」左右社
「ジュール・ヴェルヌに会いに行くですって? でも……ジュール・ヴェルヌなんか存在しませんよ! <驚異の旅>は、作家たちの会社が作っていて、彼らの共同の筆名だってこと、ご存知ないんですか?」
「ジュール・ヴェルヌはテクストとイメージが一体となった塊です。そして、彼は、演出家ならぬ本出家とでもいうべき人物、エッツェルと不可分なのです」
――フランスの現代作家ジュリアン・グラック
【どんな本?】
「海底二万里」「十五少年漂流記」「八十日間世界一周」などで今なお少年たちに親しまれ、H・G・ウェルズと並びSFの祖といわれるジュール・ヴェルヌ。そのヴェルヌが著したシリーズ<驚異の旅>は、編集者ピエール=ジュール・エッツェルとの緊密なコンピネーションによるものだった。
ヴェルヌの名は現代でも多くの人に知られているが、自らもP=J・スタールの筆名で作家の顔も持っていた編集者エッツェルは、シリーズ成立に大きな役割を果たしながらも、研究者以外には余り知られていない。
1999年に刊行されたヴェルヌ研究の最新資料「ジュール・ヴェルヌとピエール=ジュール・エッツェルの未刊行往復書簡集」を始め、棒組ゲラなど膨大な資料を掘り起こしつつ、当事の印刷・製本技術,出版事情,社会情勢や国民感情などの背景を含め、ヴェルヌとエッツェルの関係と、それが作品に与えた影響を探る、ヴェルヌ研究の専門書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
2013年3月30日第1刷発行。単行本ハートカバー縦一段組みで本文約408頁。9ポイント47字×20行×408頁=約383,520字、400字詰め原稿用紙で約959枚。長編小説なら2冊分ぐらいの分量。
ズバリ、読みこなすのはかなり厳しい。一般向けの本ではなく、フランス文学、それもジュール・ヴェルヌ研究に携わる文学研究者向けの専門書だ。「エクリチュール」や「弁証」など文学研究の用語が遠慮なく出てくるので、相応に文学研究の素養がないと厳しい。当然、ヴェルヌ作品も読んでいないとついていけない。出世作「気球に乗って五週間」はもちろん、「チャンセラー号の筏」「グラント船長の子供たち」「月世界へ行く」「ミシェル・ストロゴフ(ツァーリの密使または皇帝の密使)」などが重要な要素となる。
当事の貨幣サンチームやフランも生で出てくるし、我々がノーチラス号で馴染んでいる潜水艦も「ナウティルス」表記だ。「皇帝の密使」も「ミシェル・ストロゴフ」の名で出てくる。文学研究の素養があり、かつヴェルヌを深く愛する人向けの専門書だ。その分、内要も充実していて展開される論も濃い。
【構成は?】
序
第一部
第1章 ピエール=ジュール・エッツェルとロマン主義時代の出版界――デビューから『教育と娯楽誌』の創刊まで
1 編集とはなにか――「文学的存在性」または近代文学の両義性
2 挿絵はいかにして編集者を編集者たらしめたか
3 エッツェルのデビュー
4 <人間喜劇>の編集者エッツェル
5 政治の季節
6 『教育と娯楽誌』の創刊(1864年)
第2章 ヴェルヌとエッツェルの共同作業のメカニズム
1 ヴェルヌとエッツェルの共同作業における「分冊」の役割の変化――ある編集システムの成立
2 「システム」の成立
2-1 <驚異の旅>の刊行開始まで
2-2 「システム」の成立(その一)――挿絵は誰のものか
2-3 「システム」の成立(その二)――困難な離陸
2-4 「システム」の成立(その三)――テクストとイメージの統一性を求めて
第3章 <驚異の旅>の舞台裏
1 執筆方法と介入方法の変化(一)――普仏戦争以前
2 執筆方法と介入方法の変化(二)――普仏戦争以後
3 往復書簡――共同作業のための距離
インタールード <驚異の旅>という運動
第二部
第4章 物語と過剰
1 カニバリズム――『チャンセラー号』における現在形の描写と書くことの現場
2 カニバリズムと恋愛――『グラント船長の子供たち』
3 恋愛と政治――『ミシェル・ストロゴフ』
4 恋愛と読者――『燃える多島島』または『組み合わせ小説』とはなにか
5 未来文明への不安『黒いインド』
6 否定されたオリジナリティとしての未来都市――『ベガンの5億フラン』
第5章 進歩に対する不安と日常の除外
1 科学の不安――『チャンセラー号』
2 知の世俗化
2-1 知の世俗化(一)――アクチュアリティと禁断の知(『ハテラス船長の航海と冒険』)
2-2 知の世俗化(二)――『地球の中心への旅』
3 日常の除外
3-1 日常の除外(一)――時空的近接の危険性、あるいは全頁と意見を一致させること(『マチアス・サンドルフ』)
3-2 日常の除外(二)――『ミシェル・ストゴロフ』とロシアの政治的圧力
3-3 日常の除外(三)――誰でもない人の国籍
第6章 全体化と局所性――<驚異の旅>における超越性と偶然
1 19世紀西欧文学におけるイデオロギー装置としての気球
2 失効する局所性と摂理の方法的世俗化――『グラント船長の子供たち』
3 小説の主人公としての編集者――『マチアス・サンドロフ』とそれ自体局所的な地域の局所的要素
エピローグ/あとがき
年譜/書誌/本書に登場する出版者・出版社/人名索引
モロに論文なので、前の章を受けて次の章が展開する。素直に頭から読もう。
【感想は?】
最初に誤っておく。私にはこの本を書評する資格がない。少なくとも、二つの資格が欠けている。
まず、文学研究の素養が私には圧倒的に足りない。この本位は「弁償」や「エクリチュール」などの言葉が頻繁に出てくるが、私は意味が分からず検索して調べた。つまり、その程度のオツムなのだ、私は。
もう一つは、ヴェルヌへの愛だ。今まで偉そうに「ウェルズとヴェルヌなら、どっちかというとヴェルヌ派」なんぞとホザいていたが、読んでいるのは「海底二万里」「八十日間世界一周」「二年間の休暇(十五少年漂流記)」「ミシェル・ストロゴフ(皇帝の密使)」のみ。しかも、全部、子供向けの抄訳版。この労作を読んだら、とてもじゃないが恥ずかしくて「ヴェルヌが好きです」なんて言えない。
そう、本書は、ヴェルヌへの深く熱い愛に溢れている。文面は冷静そのものだが、そこに至る膨大な資料を漁る丁寧な調査は、深い愛情と執念があればこそ。名作・失敗作を問わず出版物に当たるのは当然、書簡集から自筆原稿、赤字入りの棒組みゲラや校正刷りまで調べ、誰がどんな赤字を入れたかを見て、ヴェルヌとエッツェルの関係を明らかにしてゆく。
先に書いたように、私のオツムで捉えきれる著作ではない。特に、ヴェルヌとエッツェルの関係を思索する部分は、ほとんどお手上げだった。が、それでも、事実として提示される事柄だけでも、生半可なヴェルヌ・ファンには、意外な話が沢山あった。
まず、編集者エッツェルの存在そのものを、私は全く知らなかった。この本では、ヴェルヌとエッツェルが、同じぐらいの比重で書かれている。構成は第一部と第二部から成っていて、第一部はエッツェルが主役、第二部はヴェルヌが主役という感じだ。
なぜ、そんなにエッツェルの比重が多いのか。それは、<驚異の旅>シリーズ成立にあたり、エッツェルが大きな役割を果たしたからだ。両者の関係を、本書では「システム」と呼んでいる。
ヴェルムとエッツェルは、何回か契約を結んでいる。年に二巻~三巻を執筆・出版すること、規定の報酬、そして独占契約。これが、まるで週間少年ジャンプの漫画家囲い込み戦略なのだから驚く。出版の順番も漫画に似て、まず雑誌「教育と娯楽誌」に掲載、その後に分冊が出て、単行本となる。この順番も、漫画に似ている。
ばかりじゃない。当事のヴェルヌのウリは、挿絵だった。これも「八頁からなる各分冊の最初と最後の頁に配置されていた」と、頁数やレイアウトまで規格化している。これまた、16頁や24頁など頁数を指定して連載する漫画雑誌そのもの。現代的な編集方法を、エッツェルとヴェルヌが確立させているのだ。
新人作家ヴェルヌを編集者エッツェルが厳しく鍛えるあたりも、現代の新人漫画家と、それを熱心に育てる編集者を連想させる。描写をしたがるヴェルヌ、物語を進めたがるエッツェルの対立も興味深い。あなた、ヴェルヌ作品の魅力は、描写と物語、どっちだと思います? 私は海底二万里でノーチラスが氷に閉じ込められる場面が印象に残ってて、描写(というか風景)が魅力だと思うんだけど。
かと思えば、ヴェルヌが「私は恋愛感情を表現するのがとても苦手なのです」と弱音を吐いてるのが、可愛かったり。わはは。いや、いいんだって。無理してロマンスを書かなくても。不思議で壮大な風景こそ、ヴェルヌ作品を特徴付ける優れたポイントなんだから。
ヴェルヌに焦点が当たる第二部で面白かったのは、やはり海底二万里の孤高のヒーロー・ネモ船長の正体に迫る「3-3 日常の除外(三)――誰でもない人の国籍」。あの作品中では最後まで謎の人とされ、それがまたネモ船長の魅力となっていたのが、そんな事情があったとは。
今なお冒険小説の古典として読み継がれ、SFの祖として名を残しているジュール・ヴェルヌ。対して、自らもP=J・スタールの名で作家でもありながら、<驚異の旅>シリーズでは黒子の編集者に徹し、だが作品の内容には徹底的に介入して商業的成功に導いたピエール=ジュール・エッツェル。
当時としてはかなり極端な作家と編集者の関係だが、現代の出版界では珍しくない関係だ。かなり専門的で歯ごたえのある本だが、出版が現代的に商業化する過程を描いた本としても面白いし、もちろんヴェルヌの熱心なファンなら是非読んでおきたい。
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