児玉聡「功利主義入門 はじめての倫理学」ちくま新書967
(ジェレミー・)ベンタムは「共感・反感の原理」について書いている。これは、正しいと思う行為とは、自分が気に入った行為のことであり、不正な行為とは、自分の気に入らない行為のことである、という考え方だ。ベンタムによると、彼以前のほとんどの哲学者がこういう考えをしており、彼らは自分の考えをもっともらしく見せるために、「自然の法」とか「永遠不変の真理」とかいう言葉を持ち出したそうだ。
【どんな本?】
倫理学とは、なんだろう? それは道徳と何が違うんだろう? そんなものが何の役に立つんだろう? などの疑問を持つ、倫理学を全く知らない人向けに書かれた、現代倫理学のわかりやすく親しみやすい案内書。
「最大多数の最大幸福」をお題目に掲げる功利主義を具体例として取り上げ、その言葉の意味や、そこからどんな理論が展開するか、どんな問題が提起されどんな批判があるか、どんな人がどんな論を述べどう変わってきたかを語りつつ、過去・現代の政策や実施例を具体的として示し、「倫理学とは何か」「それが何の役に立つのか」「どう学べばいいか」を、一般読者に解説する。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
2012年7月10日第一刷発行。新書版ソフトカバー縦一段組みで約215頁。9ポイント40字×15行×215頁=約129,000字、400字詰め原稿用紙で約323枚。小説なら長めの中編~短めの長編ぐらいの分量。
学者の書いた本だが、文章はとても素直で読みやすい。内容もズブの素人向けに書かれていて、哲学や倫理学を全く知らなくても充分に読みこなせる。ソクラテスっやプラトンと聞いて「なんか昔のギリシャの有名な人だよね」ぐらいに思う人向けなので、漢字さえ読めれば小学生高学年でも内容は理解できると思う。
【構成は?】
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基本的に前の章の内容を受けて次の章が展開する形なので、素直に頭から読もう。ひねくれた人は、最後の「ブックガイド」を流し読みしよう。この本の雰囲気が一発で掴める。
【感想は?】
この本の最大の特徴は、圧倒的な親しみやすさ。その特徴が最も強く出ているのが、最後の「ブックガイド」。
著者の本音は「皆さん、倫理学を学んで下さい」なんだろうが、その目的を果たすために、徹底して親切な読書案内を心がけている。多くのブックガイドは、取り上げた本の全てを絶賛しちゃって、結局どの本から読んでいいかわからないシロモノだが、この本のブックガイドは、その辺を充分に承知してて…
- アリストテレス『ニコマコス倫理学』:初心者には高度すぎて危険
- カント:初心者には難しいのでお勧めできない
- 加藤尚武『現代倫理学入門』:倫理学の入門書としては今日でも最初に読むべき本
と、わかりやすい上に、ソクラテスを「明らかに鬱陶しい老人だ」と評するなど、ユーモラスで親しみやすい。つまりは倫理学に興味を持った人が、効率よく楽しみながら学べるように案内する、そういう目的で書かれた本なのだ。
では、倫理学とは何か。カバー裏には、こうある。
倫理学とは、「倫理について批判的に考える」学問である。
ケチをつけろ、と言っているんじゃない。あらゆる倫理(または道徳)を単に覚えるだけでなく、その根底にあるルールを考えましょう、そういうことだ。とまれ、倫理学にも功利主義・義務論・徳倫理など様々な流派がある。
空手を学ぶには、どうすればいいか。空手には様々な流派があるが、とりあえずどこぞの道場に入門して一つの流派を身につけるのが手っ取り早い。それと同じ理屈で、「初心者でも比較的に理解しやすい」功利主義を例に取り、その基本的な考え方と、功利主義への批判を挙げてゆく、そういう趣旨の本だ。
その功利主義とは何か。有名なお題目は「最大多数の最大幸福」だが、これだけじゃ何のことやらよくわからない。そこで有名な暴走トロッコ問題(→Wikipedia)だ。
暴走するトロッコの先に5人がいる。あなたは橋の上にいて、隣にデカい男がいる。放置すれば5人は死ぬ。巨人を突き落とせばトロッコは止まり5人が助かる。あなたは巨人を突き落とすべきか?
ここで「より多くの命が助かるんだから巨人を突き落とすべき」と答えるのが、功利主義。つまりは情を捨て計算で解を出す、そういう立場だ。「そりゃ極端だ」と思うだろうが、既に深刻な状況で命の選別が行なわれている。トリアージ(→Wikipedia)だ。秋葉原連続殺人事件でも、これが行なわれた。多くの負傷者がいて医者が足りない時、患者を以下の四種に分ける。
- 赤:重傷で緊急
- 黄:緊急ではないが早い手当てが必要
- 緑:軽傷
- 黒:既に死亡または絶望
で、上の順番に治療してゆく。そうする事で、最も多くの患者を救えるからだ。非情ではあるけど、できる限り多くの人を救うには、情を捨てたほうがいい。これは功利主義が巧くいってる例だ。が、現実の人間は理屈どおりにゃ動かない。例えばオレゴン大学心理学教授のポール・スロヴィックが面白い実験をしてる。まず、学生を三つのグループに分け、アフリカで飢餓に苦しむ子どもに、いくら寄付するかを尋ねる。それぞれ…
- ロキアという名の7歳の子供の詳しい説明を写真を見せる。
- 飢餓で苦しむ子供たちの統計的事実を伝える。
- 上の両方を伝える。
結果、募金額は大きい順に 1→3→2 となりましたとさ。愚直な功利主義じゃ巧くいかない時もある。ヒトは数字より物語で動くのだ。これにはヒトの脳の仕組みも関係していて…
などと、倫理ってのは、哲学の辛気臭い話かと思ったら、現実の医療や経済政策の話も出て来て、ヒトの脳の構造にまで話は発展してゆく。功利主義ってのは、比較的に理性を重視する立場なので、徳育とかを胡散臭く思っている人でも、とっつきやすい。私のように倫理学を全く知らない人にお勧めの、格好の案内書だ。
あ、もちろん、ジョン・ウィンダムの「トリフィドの日」を勧めるなど、著者が苔の生えたSF者だから贔屓してるわけじゃありません、ええ、違いますとも。でもきっと、グレッグ・イーガンの「しあわせの理由」も好きなんだろうなあ、この人。
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