ジェイムズ・D・スタイン「不可能、不確定、不完全」ハヤカワ文庫NF 熊谷玲美,田沢恭子,松井信彦訳
巡回セールスマン問題の多項式アルゴリズムの発見に挑戦すれば、富と名声を得られるかもしれないのに、不可能とわかっている「角の三等分」の問題にいまだに取り組んでいる人がいるのはなぜなのか、理解に苦しむ。
【どんな本?】
ヴェルナー・ハイゼンベルグの不確定性原理「物体の位置と速度を同時に知ることはできない」
クルト・ゲーデルの不完全性定理「無矛盾な公理系には、真偽を決定できない命題が存在する」
ケネス・アローの不可能性定理「投票者の好みに基づき満足に表せる票の集計方式はない」
いずれも20世紀の数学が導き出した、数学の限界を示す定理だ。それぞれ、一体何を言っているのか。なぜ、そうだとわかるのか。それにより、どんな影響があるのか。どんな経過で、それがわかったのか。有名な三つの定理・原理を中心に、そこに至るまでの数学者・科学者たちの苦闘や人間模様を織り交ぜ、P≠NP問題や計算機プログラムの停止問題など現代数学のトピックや、超ひも理論など最新物理学の用語を説明する、一般向けの数学・科学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は HOW MATH EXPLAINS THE WORLD - A Guide to the Power of Numbers, from Car Repair to Modern Physics, by James D. Stein, 2008。日本語の正式な書名は "<数理を楽しむ>シリーズ 「できない」を証明する数学の力 不可能、不確定、不完全”。2011年1月に早川書房から単行本で刊行、2012年年11月15日に文庫本で発行。
文庫本縦一段組みで本文約399頁+訳者あとがき5頁。9ポイント41行×18行×399頁=約294,462字、400字詰め原稿用紙で約737枚。長編小説なら長め。
学者が書いた翻訳物の解説書だが、意外と訳文はこなれている。数学の本なので、多少の数式は出てくるが、中学卒業程度の知識があれば充分。最も難しいのは二次方程式の解の公式だが、別に解の公式を理解している必要はない。「解の公式を使えば二次方程式が解ける」程度に分かっていれば読みこなせる。
【構成は?】
前置き/緒言
序論 修理に出した車はなぜ約束の日にあがってこないのか?
第1部 宇宙の記述
第1章 万物の尺度
第2章 現実との整合性
第3章 すべてのもの、大なるも、小なるも
第2部 不完全な道具箱
第4章 不可能な作図
第5章 数学のホープ・ダイヤモンド
第6章 その二つ、決して見えず
第7章 論理にさえ限界がある
第8章 空間と時間――これで全部?
第3部 ゴルディロックスのジレンマ
第9章 マーフィーの法則
第10章 秩序なき宇宙
第11章 宇宙の原材料
第4部 到達できないユートピア
第12章 基準の亀裂
第13章 密談の部屋
第14章 鏡のなかにおぼろげに
訳者あとがき/原註
全般的に前の章の内容を受けて次の賞が展開する形なので、素直に頭から読んだほうがいい。ただし、数学の本といっても教科書じゃないので、完全に理解する必要はない。もし数式を見て頭が痛くなったら、そこは読み飛ばそう。地の文だけを読んでも楽しめるし、だいたいの雰囲気は掴める。
【感想は?】
一般向けの数学の解説書としては、かなり数式が多い部類の本だろう。だが、恐れることはない。ハッキリ言って、面倒くさかったら数式は無視して構わない。むしろ、地の文でこそ、著者の芸が発揮されている本だから。
やはり、この手の本を読む以上、何かがわかった気分になりたい。少し自分が賢くなったと思うと、気分がいい。そういう点では、数学でいう「群」が、私はなんとなくわかった気になった。いやきっと数学者の前で説明したら零点を食らうだろうけど。ま、アレでしょ、LISPでもCでも出来ることはたいして変わらない、みたいな←きっと間違ってる
昔から「これ、なんか違うよな」と直感的に思ってたのが、数学者からお墨付きを貰ったのも嬉しい。何かと言うと、三角関数だ。あれ、二次方程式とかとは何か別物だよな、と思っていた。で、この本によると…
多項式は私たちが計算できる唯一の関数で、計算に加減乗除しか要さない。まれな例外を除き、対数や角度の正弦などの値を(たとえば電卓を使って)計算するとき、対数や正弦は多項式によって近似されており、計算されるのは近似値である。
そんな感じで、他にも無限のアレフ0とか、全く意味不明だったのが、なんかわかった気になった。P≠NP問題も同じで、つまりは計算量が爆発的に増えていく類の問題ですね。有名なのが巡回セールスマン問題だけど、チェスや将棋もコレじゃないかなあ。しかし Yahoo!路線情報とかの路線探索って、どうやってるんだろ。
ってな身近な事柄が出てくると、やはり読んでいて興味が湧く。P≠NP問題も「修理に出した車はなぜ約束の日にあがってこないのか?」を引き合いに出し、自動車の修理の工程配分からP≠NP問題に繋げてゆく手腕は見事。
車の修理でピンとこなければ、料理でもよいです。晩飯の準備をする際、慣れた人は、ガスコンロの口の数と鍋やフライパンなど調理器具、そして煮たり切ったりの調理の手間を考え、無意識に頭の中でスケジューリングしてるはず。時間がかかる煮物は早めに手をつけ、コトコト煮てる間に焼き物や生ものを捌くとか。手際のいい人にとっては「慣れと修行」なんだろうけど、計算機で適切な手順を見つけるのって、実は大変なんですよ、はい。家事って、実はかなり頭を使う仕事なんです。
やはり身近な応用例では、グラフの色分け問題(→Wikipedia)を挙げてる。純粋な数学の問題だと思ってたら、「移動電話や携帯電話などのユーザーに電波を割り当てる際にも応用されている」。言われてみれば確かに似た問題だ。Wikipedia を見たら、コンパイラのレジスタ割り当てもそうだとか。ああ、つまり、条件付で共有可能なリソースをどう配分するか、って問題なのか。
みたいな真面目な話もあれば、ユーモアも忘れないのがアメリカ人らしいところ。皮肉な物言いで有名なジョナサン・スウィフトの「ある者が天才かどうかは凡人が邪魔立てするかどうかでわかる」とか。皮肉が効いてると思うのは、こんなのもある。
何人かの数学者に「群」という専門用語の定義を質問すれば、全員がほとんど同じ定義を答えるだろう。しかし、心理学者に「愛」の定義を質問すると、おそらく、その回答者が支持する心理学の学派によって、いくつか違った答えが出てくるはずだ。
数学の本ではあるが、中では量子力学や熱力学も扱っている。視野の広い人らしく、門外漢に対し説明するのに慣れているのか、ハイゼンベルグの不確定性原理の説明などは、そこらの物理学の本よりわかりやすかったりする。特に視野の広さが功を奏しているのは、最終章で「不可能」を分類しているところ。不可能を分類しつつ、その克服のパターンも示していて、転んでもただじゃ起きない学者さんのしたたかさを感じさせる。
数学関係の一般向け解説書としては、比較的に初心者向けになるだろう。ユーモラスでとっつきやすいながらも、現代的なトピックはちゃんと押さえた、肩肘はらずに読める楽しい数学の本だ。
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