ジャレド・ダイアモンド「昨日までの世界 上・下」日本経済新聞出版社 倉骨彰訳
彼ら(伝統的社会の人びと)のあいだで重要だったのは、物々交換が彼らの個人的関係の強化に役立つことだった。その重要さに比べれば、物々交換で入手できた物品に彼らがみいだす値打ちは、それこそ、無視できる程度の値打ちに過ぎなかったのである。
【どんな本?】
ベストセラー「銃・病原菌・鉄」の著者による話題作。彼自身がフィールドワーク頻繁に訪れたニューギニアを中心に、ニューギニア高地人・南アフリカのクン族・アマゾン奥地のピダハン族など伝統的な生活を営む人びとと、現代アメリカや西欧の生活を比べ、かつての人類がどんな生活をしていたか・どんな事が変わってきたのか・違いは何を生み出し何を失ったのか・本当に昔は良かったのかなどを、多くの事例に基づいて改めて考える、一般向けの啓蒙書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The World Until Yesterday : What Can We Lean from Traditional Societies?, by Jared Diamond, 2012。日本語版は2013年2月25日1版1刷。ハードカバー縦一段組みで上下巻、本文約403頁+約351頁=約754頁。9.5ポイント45字×19行×(403頁+351頁)=約587,366字、400字詰め原稿用紙で約1469枚。長編小説なら3冊分ぐらい。
翻訳物としては、日本語は比較的にこなれている。原書のヤード・ポンド法を()内でメートル法で補っているのも、嬉しい気配りだ。ただ、訳者のクセか、語尾が少しまわりくどい。よくあるのが「…のである」「…なのである」で終わる文。例えばこの記事の最初の引用に2番目の文。
その重要さに比べれば、物々交換で入手できた物品に彼らがみいだす値打ちは、それこそ、無視できる程度の値打ちに過ぎなかったのである。
これでもいいんじゃないかと思う。まあ、ここまでやっちゃうと、翻訳というより超訳だけど。
それに比べると、物々交換による経済的な利益は、ほとんど「おまけ」に過ぎない。
内容を理解するのに、特に専門的な知識は要らない。敢えて言えば、地理や行政などの社会科の素養だろうか。といっても小難しいことではなく、義務教育で「市役所のやくわり」などの副読本を読んだ程度で充分。翻訳調の文章を乗り越えられるなら、中学生でもなんとか読めるだろう。むしろ重要なのは、「おつかい」や「おそうじ」,幼い兄弟の子守など、家事・育児をした・手伝った経験があると、読んでいて切実さが増すだろう。
【構成は?】
上巻
日本語版への序文
プロローグ 空港にて
第1部 空間を分割し、舞台を設定する
第1章 友人、敵、見知らぬ他人、そして商人
第2部 平和と戦争
第2章 子どもの死に対する賠償
第3章 小さな戦争についての短い話
第4章 大きな戦争についての長い話
第3部 子どもと高齢者
第5章 子育て
第6章 高齢者への対応――敬うか、遺棄するか、殺すか?
下巻
第4部 危険とそれに対する反応
第7章 有益な妄想
第8章 ライオンその他の危険
第5部 宗教、言語、健康
第9章 デンキウナギが教える宗教の発展
第10章 多くの言語を話す
第11章 塩、砂糖、脂肪、怠惰
エピローグ 別の空港にて
謝辞/訳者あとがき/参考文献/索引
テーマごとに部と賞が分かれていて、各章はかなり独立した内容となっており、気になった章だけを拾い読みしても、そこそこ楽しめる。ただ、下巻で参照する口絵が上巻にあったり、参考文献が下巻だけなのは、少し不便かも。でも一巻にまとめたらハードカバーで800頁近くになり、それはそれでシンドイしなあ。
【感想は?】
この本の結論は簡単。「昔の生活にはいい所もあるし、わるい所もある」。
ただ、いい所・悪い所が、我々の思い込みと違っているのが、この本の面白い所。パッと思い浮かぶいい所は、水道や冷暖房などの科学・技術・インフラかな、と思ったら、意外なことに、社会的な部分がかなり多い。
これはプロローグの「空港にて」で、「え?」と考えさせられる。我々は道を歩く時や店で買い物をする際、互いに知らぬ人ばかりの状況でも、特に危険を感じることはない。初めて訪れる土地に行った時も、日本国内なら、スリや置き引きに注意はしても、いきなり地元の人に襲われるなんて心配はしない。だが…
1931年当時(のニューギニア)なら、そのような状況は想像もできなかっただろう。見知らぬ他人に出会う機会は稀であり、ひとたび会えばそれは危険を意味し、いつ暴力沙汰に発展してもおかしくなかった。
つまり、現代の都市に住む我々は、人類史上、かなり珍しい生活をしている事になる。知らない人同士が平和に共存できるのは、かなり恵まれた社会なのだ。西欧がアフリカやアジアを植民地化した事は、「過酷な搾取」などと悪行のように言われるが、実はかなりの利益も与えていたりする。
なぜ植民地化が悪く言われるのか。原因は沢山あるが、その一つは「白人が来なければ彼らは平和に暮していた」という幻想だ。そう、幻想なのだ。少なくとも現在知られている伝統的社会では、頻繁に戦争が起きている、または起きていた。
…調査対象の伝統的社会のなかで、戦争関連の年間死亡率がもっとも高かったのは、ニューギニアのダニ族、南スーダンのディンカ族、そして、北アメリカの先住民の二部族で、彼らの(戦争関連の年間平均死亡率の)数値は1%を超えていた。
これは多いほうの数字だが、平均で見ても「現代国家社会の平均値は、伝統社会のそれのなんと1/10ほどである」。やたら戦争の報道が多いけど、実は現代って、すごく平和な時代だってこと。というか、むしろ伝統的な社会は、我々が思うよりはるかに殺伐としてデンジャラスなのだ。しかも、戦闘員と民間人の区別もあいまいで…
伝統的社会での戦争は敵方の集団の人間すべてが攻撃の対象とされる。つまり、男性、女性、壮年者、年寄り、子ども、そして赤ん坊までもが攻撃されるのである。
捕虜は殺すし、民族浄化だってある。白人が来てボスになったために、敵を恐れず眠れるし、背中を気にせずメシが食える。そりゃ優れた武器が手に入ったため一時的に争いが激しくなる例もあるけど、全体としては平和になってる。って事は、今のアフリカの混乱は、それまで治安を守ってた宗主国のタガが外れたので、元に戻ったってだけなのかも。
逆に、伝統的社会の智恵を感じさせるのが、下巻冒頭の「有益な妄想」。ここでは、枯れた巨木のたもとで眠る事を極度に恐れるニューギニア人の話が出てくる。枯れた木は倒れやすく、押しつぶされて死ぬ危険がある…せいぜい0.1%程度の確率だが。これ、現代社会でも、いわゆるプロが、滑稽なぐらい確認に手間隙をかけるのによく似ている。例えば駅員の指差喚呼(→Wikipedia)。なんかワザとらしいが、重大な意味があるのだ。
著者が野営するのは、平均して年に数回ぐらいだろう。だがニューギニア人は年に100回以上野営する。千回枯れた巨木の下で野営した場合、10年後に彼が生きている確率は?今ちょっと表計算で試算したら、0.1%の事故率で36.77%、20年だと13.52%だった。つまり、頻繁にやる事は、ほんのわずかな危険でも、長い期間には大きな危険になってしまう。
同様に、駅員も、毎日数十本もの列車を見送るし、日本全国には沢山の駅がある。わずかな危険も、長年の間・多くの駅で冒せば、事故の原因になりかねない。だから、滑稽なぐらい徹底して安全確認をする。
ベテランが異様に注意深いのも、プロのしぐさがワザとらしいのも、そういう事だ。小さな危険でも、積もれば大きな危険になる。だから大袈裟に危険を避ける。これを著者は「建設的なパラノイア」と呼んでいる。安全管理や品質管理の世界じゃ、なんて呼ぶんだろう? まあいい。そういう智恵を、ニューギニア人は身につけている。
下巻では、他にネットの議論好きな皆様が大喜びする宗教ネタも出てくる。この本の「進化の副作用」という説は、なかなか面白い。全般的に唯物論的な価値観の著者だが、ちゃんと祈ることの効用も書いてある。
なんて小難しい話もあるが、我々から見たら伝統的社会とは、「変わった生活」の社会だ。すぐ傍の小川の水が汲めなかったり、無茶苦茶な育児法だったり、やたらおしゃべりだったり、柔軟な家族制度だったり、諍いの解決法だったり。納得できることもあるし、笑っちゃうエピソードも多い。「ヘンな話」を求め野次馬根性で読んでも、なかなか楽しめる本だ。
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