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2013年11月 3日 (日)

キャスリン・シュルツ「まちがっている エラーの心理学、誤りのパラドックス」青土社 松浦俊輔訳

「誤りを認め、損失を減らし、道を変えるのは、政府では最も嫌われる選択肢である」
  ――バーバラ・タックマン(→Wikipedia)

「誰もが自分の記憶については不満を言うが、自分の判断いついて不満を言う人はいない」
  ――フランソワ・ド・ロシュフーコー(→Wikipedia)

【どんな本?】

 人は、いろいろと間違う。もちろん、私もだ。その「まちがい」には、どんな種類があるんだろう。どんな時に、まちがえるんだろう。そもそも、まちがうとは、どんなことなんだろう。なぜ、まちがえるんだろう。そして、まちがいに気づいた時、人の心は、どんな風に働くんだろう。頑として自分のまちがいを認めない人がいる。なぜ、そうなんだろう。

 「まちがい」そのもの、まちがえ方、まちがいに気づいた時、またはまちがいを指摘された時の対応…まちがいに関わる様々なエピソードを集め、それを分析・考察して、まちがいを通してヒトの姿に迫る、ちょっと変わった哲学的な本。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Being Wrong : Adventures in the Margin of Error, by Kathryn Schulz, 2010。日本語版は2012年1月10日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約439頁+訳者あとがき4頁。9.5ポイント47字×19行×439頁=約392,027字、400字詰め原稿用紙で約980枚。長編小説なら2冊分ぐらいの分量。

 正直言って、手こずった。翻訳文は、決して悪くない。特に前提知識が必要な内容でもない。にもかかわらず、手こずった理由は、二つ。ひとつは、テーマが半分哲学に関わる問題であり、前提知識は要らないが、ややこしいモノゴトを扱っている点。もう一つは、身につまされて身もだえする話が多いこと。詳細は追って。

【構成は?】

第1部 誤りとは
 第1章 間違い学
 第2章 間違いの二つのモデル
第2部 誤りの起源
 第3章 感覚
 第4章 自分の心、その一――知っている、知らない、でっち上げる
 第5章 自分の心、その二――信念
 第6章 自分の心、その三――証拠
 第7章 私たちの社会
 第8章 確実さの誘惑
第3部 誤りの経験
 第9章 間違っているということ
 第10章 どう間違っているか
 第11章 否認と受容
 第12章 傷心
 第13章 変容
第4部 誤りの受け入れ
 第14章 誤りのパラドックス
 第15章 歴史全体からの楽観的メタ帰納
  謝辞/訳者あとがき/註/索引

【感想は?】

 そう、少々手こずった。先にあげたように、理由は二つ。まずは、扱っている問題がややこしい、ということ。例えば、冒頭で、まちがっている時の状態を、こうまとめている。

人が間違っていることはありうる。あるいはそれを本人が知ることはできる。が、同時に両方はできないのだ。

 現在進行形でまちがっている時、人はまちがいに気がついていない。まちがいに気づいた時は、もう間違っていない。「だから何?」と言われればそれまでだが、この本は、そういった事柄を追求した本なのだ。

 むしろ「まちがい」の研究こそ実益につながる分野もある。品質管理・安全管理などだ。大抵の製造業では歩留まりが利益に重要な影響を及ぼす。建設業界や航空・鉄道などの運輸業界では、事故が多くの人命に関わる。プログラマはしつこいバグに苦しむ。この本でも末尾近くで少しだけ、「いかにまちがいを減らすか」という実用的な話も出てくる。

 が、大半は、あまり実用的な内容ではない。むしろ、思想的・哲学的な話が中心となる。なるべく親しみやすくしようと著者は努力しているが、根本的にややこしい問題を扱っているので、読むにはかなり頭を使う。

 で、頭を使って読み始めると、これまた苦しい思いをする。

 基本的な構成として、文献やインタビューなどで具体例を提示し、追って分析を加える形だ。これが、実に意地が悪い。「こんなまちがいをやらかした人がいます」と例を出す。読者はこう思う。「ドジだな」「意地っ張りだね」「根性がヒネてる」。ところが、分析の所で、「でも、あなただってそうなんですよ、思い当たるフシ、あるでしょ」。私はいきなりヤラれた。

自分の趣味が神の定めた真実であるかのようにふるまう大のおとなの例はすぐに見つかり、笑ってしまうものだ。マック・ファンは、ウィンドウズ・ユーザーを集団妄想の犠牲者みたいに扱う。

 ぐぬぬ。ああそうさ、私はアップル信者だ、悪いか!だって、だって、マックって…カッコいいじゃん←結局ソレかい。今は Windws7 を使ってるけど、マックを使ってた頃は、マック系の雑誌を読みネットじゃマック系のニュースを集めマック・ファンと語り。たまに爆弾でるけど*、そりゃ愛嬌です。

*爆弾:昔のWindowsのブルースクリーンみたいなモンで、リセットするのが最善策

 つまり、私の耳にはマックのいい話しか入ってこなかった。典型的な確信バイアス(→Wikipedia)状態。幸いにしてマック・ファンは心が広い人が多いので、私を裏切り者扱いはしない…しないよね、○○さん。

 まあマックか Windows か、なんてのは気楽な問題だけど、信心が絡むと難しい。ここでは1844年10月22日のウィリアム・ミラーの終末予想と、それが外れた後の取り繕いを例にとっている。ミラーらは「審判の日」を予言し、多くの信徒を集めた。信徒は家も財産も捨て、その日を待った。当然、何も起こらない。否応なしにまちがいを認めにゃならん羽目に陥った人びとは…

 ここで、「人がまちがいを受け入れる様々なパターン」を、実例を挙げて分類してゆく。その傾向としては、ドナルド・ノーマン曰く「誤りの修正(過程)は、考えられる最低の水準に発し、徐々に高い水準に移るらしい」。著者は言う。「私たちは誠実に誤りの大きさを測ろうとするよりも、狂信的に誤りを軽視しようとするものだ」。

 と言うとヒトゴトのようだが、その前に著者は読者にこう釘をさす。「間違って他人の車にキーを差し込んだ経験はないかい?」そんな時、人はどうするか。まず、もう一度試す。もっとシッカリ入れようとする。色々試して、「どうやら俺は車を間違えたらしい」と自分のまちがいを認めるのは、大抵最後だ。人間ってのは、「自分の間違いは些細なこと」にしたがるんです。

 ああ、耳が痛い。私もプログラミングを学び始めた頃は、かなり無茶苦茶な言い訳をした。曰く「直したはずなのに、エディタが悪い」「コンパイラがおかしい」「OSにバグがある」。ええ、みんな、私のミスでした。
 あまし関係ないけど、プログラミングってのは、「自分がいかに間違いやすいか」を実感させてくれる効果があるんだよね。

 他にも、勝手に話を作ってそれを信じ込んじゃうヒトの一般的な傾向とその原因、集団の信念が脅かされた時のありがちな対応、なぜ人は作り話に騙されるのか、意見が変わった際のよくある欺瞞、巧妙な反対意見の出し方など、「あるある」だったり「なるほど」だったり「それじゃしょうががないね」だったり、興味深いエピソードと考察が満載。

 冒頭はとっつきづらいけど、後に行くほど慣れて読みやすくなるし、少しだけ自分のドジを許せるようになるだろう。内要は重いけど、読み終えると少しだけ気持ちが軽くなる本だ。

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