天野鎮雄「孫子・呉子」明治書院 新釈漢文大系36 孫子編
知彼知己者 百戦不殆 不知彼而知己 一勝一負 不知彼不知己 毎戦必殆
彼を知り己を知れば、百戦して殆からず。
彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。
彼を知らず己を知らざれば、戦うふ毎に必ず殆し。彼我両国の優劣を知って戦うなら、百たび戦っても危ないことはない。
敵の軍備について何も知らず、ただおのれの軍備を知っているのみで戦うなら、買ったり負けたりする。
彼我両国の軍備について何も知らずに戦うなら、戦うたびに必ず危うい、と。
――孫子 謀攻篇
【どんな本?】
孫子は兵法書として最も有名で、多くのビジネス書のネタともなっている。紀元前500年頃、中国の春秋時代に伍子胥と共に呉の闔閭に仕えた孫武(→Wikipedia)の作とされるが、後世の者が追加したと見られる部分も多い。単に軍事に留まらず、経済や政治も含めた政略・戦略レベルの内容を多く含むのが特徴。
呉子も兵法書で、やはり中国の春秋・戦国時代、紀元前400年ごろの呉起(→Wikipedia)の作とされる。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
Wikipedia によると、孫子の成立は「後漢・魏の曹操(武帝)が分類しまとめ上げたもの」とある。明治書院版は1972年11月30日初版発行、私が読んだのは1993年6月20日発行の20版。ハードカバー縦一段組みで約499頁、うち孫子376頁+呉子123頁。9ポイント55字×21行×499頁=約576,345字、400字詰め原稿用紙で約1441枚。長編小説なら三冊分ぐらい。
現代語訳である「通釈」の部分だけを拾い読みすれば、意外とすんなり読める。ただ、この本は孫子の思想を解説するというより、文献として研究する姿勢で書かれている。そのため、語釈や余談で「この文は前後のつながりがおかしいので、後世の者の追加だろう」「ここはテーマから考えて○○篇にあったのではないか」など、原文を忠実に再現しようとする著者の研究者らしい誠実な記述も見逃せない。
【構成は?】
例言
孫子
孫子解説: 孫武/『孫子』書/『孫子』の思想/『孫子』の注釈書
計篇
作戦篇
謀攻篇
形篇
勢篇
虚實篇
軍爭篇
九變篇
行軍篇
地形篇
九地篇
火攻篇
用間篇
呉子
呉子解説: 呉起/『呉子』書/『呉子』の注釈書
圖國第一
料敵第二
治兵第三
論將第四
應變第五
勵士第六
跋/孫氏呉子索引
各編は数行ごとに原文をわけ、それぞれに和訳や通釈をつけている。
- 題意:各部の冒頭にあり、要約や位置づけなどを示す。
- 本文:漢文。
- 和訓:読み下し文。
- 通釈:現代日本語に訳した文章。
- 語釈:本文中のまぎらわしい語・難しい語や、関連知識が必要な語の解説。
- 余説:解釈に複数の学説がある場合、通釈で採用しなかった説を述べる。
【感想は?】
紀元前の本だ。にも関わらず、内容も記述方も、かなり整理されているのに驚く。
クラウゼッツ(→Wikipedia)とよく比べられる孫子。よく言われることだが、基本的に孫子は戦争を「金かかるしロクなもんじゃない」としている。「特に長引くと大変だから、ヘタでもいいから速くケリつけな、持久戦は損ばっかだ」と。
面白いのが「器材は国から持っていけ、食料は現地調達」としてる点。確か湾岸戦争以降の米軍も同じ方針になった。米軍は「その方が安上がりだから」。けど孫子は「食料が減れば物価が上がる、自国の物価高騰は困る、だから敵の糧食を奪え」。経済も織り込んで軍事を考えてるわけ。
明示してないけど、情報戦の重視も孫子の特徴。最後の「用間篇」はスパイの話で、「間者は厚遇しろ」とある。謀攻篇も外交重視で…
- 最上:敵のはかりごとを未然に防ぐ
- 良い:外交で敵を孤立させる
- 普通:対等の条件で戦う
- ダメ:城攻め
最近の東太平洋地域の中国包囲網は、まあ合格といった所か。こういう段取り重視の姿勢は形篇にもあって、「戦上手はあまし功績がない、だって勝ち易いところで勝つから」。これは企業でも良くあって、段取り整えてスムーズに業務こなすと「楽しやがって」とあまし評価されず、ドタバタ騒ぐと「頑張ってる」と言われるんだよなブツブツ←私怨入ってます
戦闘の形態について、西洋はメソポタミアのファランクス(→Wikipedia)やローマのレギオンなど隊列を重視しているのに対し、孫子は「最上の形は形をなくすことである」と変化を重視してるのが面白い。何がこういう違いを生んだんだろ。
さて、記述方。いきなり最初の計篇から、「軍備で重要な5つの点」みたいな書き方で、箇条書きではないけれど、ソレに近い表現法だ。モロに「ブログでアクセスを稼げる記事タイトルの付け方」じゃないか。ちなみに5個とは…
- 道:国民が君主を支持してれば、国民は君主のために死を恐れない
- 天:天候・気候・時の変化
- 地:彼我の距離、地形、土地の広さ、有利不利の環境
- 将:軍を率いる将の能力
- 法:国の法・制度・運用
ここで「兵の強さ」を無視してる点に注意。天野鎮雄氏によれば、兵卒を単純に数で考え、その強さを無視するのが孫子の特徴の一つだとか。当時は常備軍って発想がなかったのか、あっても敢えて無視したのか。まあいい。こういう記述は後半の行軍篇や地形篇など、具体的な戦術の話になると俄然冴えてきて、ニワカ軍ヲタがワクワクする内容も増えてくる。例えば地形篇は、こんな風に始まる。「地形には6種類あってね…」
- 通形:両軍が自由に往来できる。日当たりのいい高所に陣取り食料の補給路を確保しろ。
- 挂形:両軍の間に行動を妨げる密林や密草がある。敵が油断してるならいいが、備えてるなら撤退できないので仕掛けるのはマズい。
- 支形:両軍の間に川・湖・沼沢がある。誘いに乗るな、さっさとズラかれ。または敵の半数が渡り終えた時に攻撃しろ。
- 隘形;両軍の間が狭い道。先に占拠できたら要所に部隊を配備して敵を待て。先手を取られたら攻撃するな。
- 険形:両軍の間に険しい山がある。先に日当たりの良い高所を占拠できたら敵を待て。先手を取られたらズラかれ。
- 遠形:両軍共に有利な地形にいて遠く隔たっている。戦力が同じなら先手が不利。
どれも言われてみれば「当たり前じゃん」と思う事なんだが、それをキチンと整理して文章にするのが学問たる所以だろう。戦術としての火攻めに一篇を割いてるのも、当事の戦争の模様が伝わってくる。ここでも、「怒りで軍を動かすな、利で動かせ」と、功利主義で軍事を捉えるあたりが、今でも孫子が重視される所以だろう。曰く。
亡國不可以復存 死者不可以復生
滅びた国は戻らず、死んだ人は生き返らない。
まあ、これだけ整理されてるって事は、それだけ昔から戦争ばっかりやって充分な経験を積んでたって事でもあるんだが。他にもチョロチョロ抜き出すと、ビジネス書のネタに使えそうな部分が沢山あるのも嬉しい。他の中国の古典と違い、全体がコンパクトにまとまっている上に、後半は実際的で具体的な戦術レベルの話が多く、また地形篇などは現代でも充分に通用するので、ニワカ軍ヲタの私には楽しい本だった。
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