井沢元彦「新装版 猿丸幻視行」講談社文庫
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき
【どんな本?】
歴史小説・ミステリなどで活躍中の人気作家・井沢元彦のデビュー作であり、第26回江戸川乱歩賞受賞作。三十六歌仙の一人でありながら、その正体は謎とされる歌人・猿丸太夫(→Wikipedia)。彼が残したといわれる和歌および謎の文書を発端に、若き民俗学者・折口信夫が、広範な知識と明敏な頭脳を頼りに、猿丸太夫の謎の影に隠れた日本史の裏面を暴く。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
単行本は1980年9月、講談社より刊行。1983年8月講談社文庫に収録。新装版は同文庫から2007年12月14日第1刷発行、私が読んだのは2008年7月23日の第2刷。文庫本縦一段組みで本文約428頁+参考文献一覧1頁+千街晶之の解説9頁。8.5ポイント41字×17行×428頁=約298,316字、400字詰め原稿用紙で約746枚。長編小説としてはやや長め。
デビュー作とはいえ、売れっ子作家だけあって、地の文は比較的こなれていて読みやすい。肝心のテーマは和歌が重要な役目を果たす。でも大丈夫。謎にまつわる重要な所は、素人向けに初歩的な所から親切に説明してくれる。私は古典や日本史がからきし駄目なんだが、充分に楽しめた。当然、国文学や百人一首などで和歌に馴染んでいる人や、奈良時代に詳しい人なら、更に楽しめるだろう。
【どんな話?】
1979年。民俗学を専攻する大学院生・香坂明は、博士論文を仕上げている。題は「猿丸太夫伝説に関する一考察」。そんな彼に、いきなり製薬会社の広報主任で遠藤道男と名乗る男が話しかけてきた。薬学に疎い民俗学専攻の香坂に、製薬会社が何の用があるのか。そのきっかけは、香坂が発表した論文「碩学 折口信夫の足跡」にあった。
いぶかりながらも研究所へと同行した香坂は、想像を絶した研究に巻き込まれ…
【感想は?】
冒頭の仕掛けが、かなり無茶。この無茶具合をスルーできるか否かが、評価の分かれ目だろう。1979年の人物が、薬を使って過去に意識を飛ばし、歴史上の人物、つまり明治末期の折口信夫(→Wikipedia)に憑依する。そういう仕掛けだ。SFどころか、むしろオカルトだろう。なんでそんな無茶をする?
などと思いつつ、とりあえず無視して読み進めると、これが尻上がりに面白くなり、無茶の意味も最後に明らかになる。
物語は、タイトルにあるように、猿丸太夫の正体を巡る謎解きが中心だ。謎のカギとなる文書は開始早々に提示され、以後は若き民俗学者・折口信夫が文書の解読に挑む、そういう形で話が進む。ついでに、謎のおまけに「お宝」までついてくるわけで、一種の宝探しでもある。
こういう構造は著者も承知していて、謎解きにかかると、キチンと名作へのオマージュが出てくるあたり、ファンサービスも忘れていない。
とまれ、やっぱり読んでて楽しいのは、謎解きの中心となる、折口信夫のパート。今も歴史系の作品で活躍している著者らしく、あの時代に生きた人々の生活や雰囲気が伝わってきて、「きっと著者も楽しみながら書いたんだろうなあ」などと思ってしまう。
現代パートでは文献上の人物でしかない折口信夫が、明治42(1909)年の國学院・国文科の学生として動き始めるあたりから、俄然筆者の筆は生き生きしてくる。維新は既になり、中央集権の政府も地盤が固まった。日露戦争も戦勝に終わり、欧風の文化を取り入れるコツを覚え始め、順調に強国への道を歩み始めた時代。
それと同時に、今までは孤立し閉じこもっていた「日本」が、欧州とはまったく異なる歴史を持つ独自の文化としての認識も、また持ち始めたころ。西欧文化の視点を取り入れながら、この時代なりの視点で、豊かに残る国文学の資料を、新たに見直す流れが生まれ始めた頃。
こういった、過去と現在が激しくせめぎあう時代背景を、見事に体現しているのが、折口信夫のパートナー役を勤める柿本英作と、その一族。旧家のボンボンらしく図々しく遊び好き、実家には値打ち物の骨董が豊富にあるが、本人は英文学なんぞに手を出している。祖父と折り合いが悪く、爺様を評して曰く…
「なにしろ、爺さんは平田派の国学に凝っていてね。旧幕時代の悪い所を全部兼ね備えたような人物なんだ」
と、過ぎ去った過去を引きずる爺様と、今風の遊び人の対比が鮮やか。そして肝心の折口信夫といえば…
万葉集を何度も何度も読み返し、普通の学生が四年かかっても修めきれない古典の大海を泳ぎきってきた。
などと、若いながらも、この国が積み上げていた文化の研究に情熱を傾ける人物。柿本の爺様と同じく伝統を受け継ぐ意思を持ちながら、その方法論は開国以来の思考法が、自然と身についた姿勢だったりする。これが、本書の主眼である謎解きにも、彼の思考法が重要な影響をもたらすのが面白い。
やはり文明開化がもたらす影響を感じさせるのが、東京帝国大学の図書館で折口と師が会話する場面。
藩幕体制では文献も各地に分散しており、「ドコのダレがナニを持っているか」すら口コミで把握していたのが、中央集権国家となったため、情報も中央に集まりやすくなって、眠っていた文献が日の目を見始める。ハードウェアも改革中で、明治政府は洋式の製紙技術や活版印刷技術を積極的に取り入れた。その結果、情報流通にも革命が起きている。ちょっと Wikipedia から引用しよう。
王子製紙:明治に入ってから間もない1873年(明治6年)2月、「抄紙会社」が設立された。この会社が初代王子製紙の前身である。輸入に頼っていた洋紙の国産化を企図して、この頃官僚から実業家に転身した渋沢栄一が中心となって設立した。
印刷:明治時代に入り、1870年には本木昌造が長崎に新町活版所を創立、これが日本における民間初の洋式活版の企業化である。
ってな時世の流れを象徴するニュースが、あのお方の口から語られるって仕掛けが、なかなか憎い。と同時に、出版物の限界も語っちゃうあたりが、なかなかヒネている。
受け継ぐもの、変わってしまうもの、そして積極的に変えようとするもの。残るもの、消えてゆくもの。明治から昭和への激動の時代を足がかりに、遥かいにしえの万葉集までも捉えようとする、娯楽路線の謎解き物語。
【関連記事】
| 固定リンク
« ハロルド・ハーツォグ「ぼくらはそれでも肉を食う 人間と動物の奇妙な関係」柏書房 山形浩生・守岡桜・森本正史訳 | トップページ | クリスティアン・ウォルマー「世界鉄道史 血と鉄と金の世界変革」河出書房新社 安原和見・須川綾子訳 »
「書評:フィクション」カテゴリの記事
- ドナルド・E・ウェストレイク「さらば、シェヘラザード」国書刊行会 矢口誠訳(2020.10.29)
- 上田岳弘「ニムロッド」講談社(2020.08.16)
- イタロ・カルヴィーノ「最後に鴉がやってくる」国書刊行会 関口英子訳(2019.12.06)
- ウィリアム・ギャディス「JR」国書刊行会 木原善彦訳(2019.10.14)
- 高木彬光「成吉思汗の秘密」ハルキ文庫(2019.06.19)
コメント