いわゆる文学を僻んでいた
今は「SFってなんか理系っぽくて頭よさげ」みたいな風潮があって、なんか風向きが違ってきたなあ、と感じてる。
たぶん今の若い人たちは、幼い頃からドラえもんなどでSFっぽい仕掛けやガジェットに馴染んでいるから、特別な物とは思っていないんだろう。でも昔は「SFなんてガキの読み物」的な蔑視が、確かにあった。そのいくらかは、ブンガクな人が持つ、理科への苦手意識が反映してたんじゃないか、と勘ぐっている。
「だったらこっちもブンガクなんかいらねえよ」ってな感じで、若いころの私はあまり主流文学を読まなかった。いや今でもSFばっかしだけど。特に思い込みを強化したのが、ウイリアム・ゴールディングの「蝿の王」。ノーベル文学賞を受賞した作家の代表作だから、さぞかし面白いんだろう、と思って読んでみたら。
少年たちが無人島に流れ着き、次第に野蛮になってゆく、みたいお話だったと思う。ジュール・ヴェルヌが好きな私としては、十五少年漂流記をチャカしてるみたいで気に入らない。テーマの一つは「子供の蛮性」なんだろうけど、工業地帯の労働階級で育った私にとっては、「何をいまさら」ってな感じがしたし。
それ以上に気に入らないのは、科学的にデタラメな事。仲間の一人が使ってる眼鏡のレンズで火をおこす場面。あれ、不可能なのだ。
恐らく執筆当事のゴールディングは、老眼鏡をかけていたんだろう。確かに老眼鏡なら、火を起こせる。老眼鏡は凸レンズだから、太陽の光を集める。焦点に枯葉などの燃えやすいモノを置けば、巧くやれば火がつくかもしれない。
だが、子供や若者が眼鏡をかける場合、その原因は大抵が近視だ。そして、近視用の眼鏡のレンズは、凹レンズである。凹レンズは、光を集めない。逆に、拡散させる。火なんか起きるはずがない。このぐらい、小学生だって知っている。
SF者としての被差別意識も手伝い、「主流文学の連中ってのは、んな小学生レベルの理科すら判っとらんのか」と、更に依怙地になってしまった。
ところが、だ。ちょっと前、Wiikipedia でノーベル文学賞の項を眺めていたら、なんとパール・バックも受賞してるじゃないか。私はあの人の「大地」が大好きなのだ。たぶん初めて読んだのは小学生の頃で、子供向けの抄訳版だと思う。大人になってから新潮文庫で読み直したら、やっぱり面白かった。
清朝末期、激動の中国が舞台。貧農から乞食にまで落ちぶれ、再び這い上がって富豪となる王龍と、その孫までの一族を描く物語。出だし、茶すら惜しむ貧しい農家の暮らしを描く場面から一気に物語に引き込まれ、山あり谷ありの、大河ドラマの面白さに溢れている。
近くて遠い国・中国という異郷の風俗もいい。やっぱり出だし、王龍は寝台から起きるんだよね。布団じゃなく。まあ、当然だけど。茶も、茶碗に直接、茶葉を入れるんだ。急須で注ぐんじゃなく。そういう細かい異郷の描写も、大地の魅力の一つ。そして地主から使用人の嫁を貰う。人権なにそれ美味しいの、な中国の感覚にクラクラくる。そしてヒロイン登場だ…などと、今書いてて気がついた。この面白さって、ジャック・ヴァンスの面白さと同じじゃないかw
今でも、王龍が陳を弔う場面はよく覚えている。陳を、労苦を共にした相棒と感じる王龍と、使用人としか思えない子供たち。極貧から這い上がってきた王龍、豊かに育った子供たち。この断絶を、弔いの形式を借りて、見事に象徴していた。
ってんで、「パール・バックを評価するなら、ノーベル文学賞も捨てたもんじゃないな」などと偉そうな事を考えつつ、今に至ってる。
この前、マリオ・バルガス=リョサの「世界終末戦争」を読んでみたら、これがまた壮絶な戦争小説で、すんげえ面白い。優れた装備を備え兵力も勝り、指揮系統も統一されているブラジル国家軍に対し、貧しい地域に生まれたカルト集団が、山賊を中心にゲリラ戦で対抗し…いや、かなり歪んだ紹介ですが。大長編を一冊の単行本にまとめたんで、物理的にやたら重たいのが最大の欠点。通勤中に読むのは、ちとキツいだろうなあ。
それでもやっぱり、一番注目してる賞は星雲賞で、次にローカス賞とヒューゴー賞、ついでにネビュラ賞だったりするんだけど。アポロ賞も気になるんだけど、フランスのSFって、翻訳が出ないんだよなあ。フィリップ・キュルヴァルの「愛しき人類」は、イマジネーションが凄かった。
などと、結局はSFの話になってしまうのであった。
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