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2013年8月 4日 (日)

E・ポール・ゼーア「バットマンになる! スーパーヒーローの運動生理学」青土社 松浦俊輔訳

骨の再構築では、破骨細胞と骨芽細胞が一体となって働く。骨に負荷がかかると、マイクロダメージ――小さなひび割れ――が生じ、それを埋めて強化する必要が生じる。吸収(つまり骨などの組織を溶かすこと)では、破骨細胞がやってきて、マイクロダメージを受けた領域にあるごく薄い骨のかけらを壊す。その直後、骨芽細胞が、破骨細胞の溶解作用の後に残った小さなくぼみを埋める。
  バットマンの骨を作る――脆いと困るが大きければいいのか

【どんな本?】

 バットマンは特別だ。スーパーマンは宇宙人で、ヘルボーイは魔界からやってきた。超人ハルクはガンマ線を浴び、スパイダーマンは蜘蛛に咬また。スーパーヒーローは特殊な能力を持っているが、バットマンは違う。彼は生身の人間であり、厳しい鍛錬によって能力を身につけた。人間はクリプトン星人にはなれないが、バットマンにはなれる…少なくとも、理屈の上では。

 神経科学・運動生理学・生物物理学を修めリハビリの神経による制御の専門家で、空手や琉球古武術の黒帯を保持し、またバットマンの熱烈なファンである著者が、バットマンになるのに適切なトレーニング・相応しい食事・学ぶべき武術などのテーマで、トレーニングの際に人間の体には何が起きているのか・なぜ武術は有効なのか・いつまで現役でいられるかなどを、細胞の構造や神経組織のしくみ・ホルモンの効果など神経科学・運動生理学・生物物理学を用いて解説し、また武術の原理を科学的に説き明かす、一般向け科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Becoming Batman, The Possibility of a Superhero, E. Paul Zehr, 2008。日本語版は2010年9月29日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約331頁+訳者あとがき3頁。9.5ポイント45字×17行×331頁=約253,215字、400字詰め原稿用紙で約633枚。長編小説ならやや長め。

 一見おちゃらけた書名だが、中身は真面目な科学解説書で、文章も思ったよりは硬い。とまれ、あくまでも想定読者は一般人で、理科の知識は中学生レベルで充分に読みこなせる。書名にもなっているバットマンについても、「人間が訓練して正義の味方になった」程度を知っていれば充分。アチコチでコミック版のバットマンを引き合いに出すが、ちゃんと説明しているので、わからなくでも特に問題はない。もちろん、バットマンのファンなら更に楽しめるだろう。

【構成は?】

  序文/まえがき
第1部 バットマンの素材 バットマンはどこから始まってどうなったのか
 1 バットマン「以前」――ブルースはどれほどすごかったのか
 2 会ってほしい人がいるの――ブルースの一卵性双生児ボブとヒト・ゲノム
 3 生活のストレス――ホーリー・ホルモンだ、バットマン
第2部 バットマン基礎トレーニング バットマンの技の土台となる体づくり
 4 筋力と瞬発力をつける――高く、速く飛ぶコウモリほど虫を捕るのか
 5 バットマンの骨を作る――脆いと困るが大きければいいのか
 6 バットマンの代謝――ダークナイトの食生活ではどんなディナーが出るか
第3部 バットマンのトレーニング バットマンがマーシャル・アーツを習得するまで
 7 ブルース・ウェインからブルース・リーへ――バットケープで武術を身につける
 8 みんなカンフーをやっていた――バットマンがしていたのは?
 9 バットマンの戦闘――殺さずにKOできるか
第4部 夜はダークナイトとともに
 10 バットマンはぶん殴り、ぶん殴られる――折られないで折れるものは何か
 11 バットボディを強化する――棒や石でバットマンの骨を折れるか
 12 たそがれのゴッサム――ナイト・シフトで働くということ
第5部 バットマン玉手箱 バットマン道にありそうな落とし穴
 13 負傷と回復――バットマンが崩れるまでどれだけ叩かれるか
 14 バット族の戦い――バットガールはバットマンに勝てるか
 15 加齢戦士――バットマンはバットじいさんになれるか
 16 バットマンの治世――バットマンになって、バットマンでいつづけられるか
  付録 バットマンのトレーニングの道のり/訳者あとがき/参考文献/索引

【感想は?】

 最初にハッキリさせておこう。この本は、一時期はやった「設定を考証する」類の本では、ない。本書中で大量にバットマンのコミックを引用しているが、無茶な設定は素直に「これは無茶だよね」と白旗をあげる。が、そこでは終わらない。「こういう形なら、アリかもしれない」と、より現実性の高い代案を出すのだ。

 つまり、本書の目的は、バットマンを考証する事じゃないのだ。バットマンをダシにして、読者を運動生理学に誘おうとしているのである。

 だからといって、バットマンのファンは怒らないでほしい。著者の経歴を知れば、怒る気を無くす、どころか畏敬の念を抱くだろう。13歳のときに武術を習い始め、後に運動生理学の修士を取り、神経科学の博士号を取る。本書中の大量のバットマンのコミックの引用を見れば、著者が熱烈なバットマンのファンである由は明らかだ。

 つまり、著者は、バットマンになろうとしたのだ。それも、本気で。

 ただ、現実にはゴッサム・シティはない。でも、病気や怪我や事故で苦しむ無辜の人はいる。だから、苦しむ人を支援すべく、リハビリの専門家になった。なんとも見上げたオタク魂ではないか。

 そんな著者が、どんな形でバットマンを語るか、というと。例えば、トレーニングの効果を、こう説明する。

…バットマンがウェイトリフティングのエクササイズをして骨格筋に過剰な負荷をかけると、その筋肉は、収縮タンパク質の生産を増大させる分子レベルの出来事(同化作用)を、次々と経験することになる。この作用は筋肉の大きさも増す。すると、適応後のストレスが広がる筋肉タンパク質の表面積が大きくなり、圧力の概念と同様、筋肉に対するストレスが小さくなる。

 このトレーニング、どれぐらい続ければ効果が出るのか、というと…

 …筋力トレーニングを始めると、開始から六週間の間に生じる筋力の増大は、大部分、神経系が運動単位を動かすことについて適応したことによる。筋組織――筋肉細胞――が実際に変化して強くなるのはその後になってからだ。

 今からやっても海には間に合わない。残念。ちなみに筋肉痛の原因は筋肉が損傷するためであり、「一日か二日後に不快のピークに達し、三日後には消失する」。乳酸がたまるため、というのは、「流布した誤解」だとか。やっと謎が解けた。

 トレーニングは肉体を変えるだけでなく、反応速度を上げ技も身につく。これについても、著者は学者としての科学的なアプローチと、武術家としての広範な知識の双方を用いて説明してくれる。そういった点では、格闘技を科学する本でもある。ここで面白いのが、手刀と受身が、実は同じ原理に基づいていること。

 これを、著者は実にわかりやすい例で例える。「ランニングシューズに踏まれるのと、ハイヒールに踏まれるのと、どっちが嫌か?」かかる力が同じなら、かかる面積が狭いほうがダメージは大きい。だから狭い面積に力を集中する手刀は恐ろしく、広い面積に力を分散する受身は効果的なのだ。なぜ手刀で攻撃者の手が砕けないかも、キチンと科学的に説明している。正しい型には、ちゃんと意味があるのだ。そして、何度も型を繰り返す訓練にも。

 著者は多様な武術に通じてるらしく、バットマンに相応しい武術も考察している。ここでもサービス精神旺盛で、ブルース・リー,チャック・ノリス,ジャン=クロード・ヴァン・ダム,ジャッキー・チェン、スティーヴン・セガールを例に挙げ、それぞれが身につけた武術をリストアップした上で、「私は距離に注目したい」として、5つの距離で考察を進める。曰く長いほうから 1)武器の距離 2)蹴り 3)突き 4)投げ技 5)寝技。結論としてバットマンが学ぶべき技は…これは、さすがに大笑いした。

 このあたりは、中国・朝鮮・日本など極東での武術の歴史・伝播や、剣道・柔道も含めた武術の歴史的変化の一般的傾向の考察もあって、格闘技に興味がある人なら楽しく読めるだろう。また、プロ・ゴルファーの脳のスキャン画像までも動員して、武道で言われる「無心」の正体に迫る部分も、なかなかの迫力。

 自ら稽古中にマスクを被り酸素消費量を計測したり、映画「バットマン・ビギンズ」をストップ・ウォッチ片手に観て消費カロリーを計算したり、趣味と実益を兼ねた実験も楽しいところ。バットマンのファンならもちろん、スポーツや格闘技に興味があるなら、きっと楽しく読めるだろう。もちろん、自分の肉体に興味がある人にも。

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