舟田詠子「パンの文化史」朝日選書592
堅かったので、噛み砕くときすごい音がした。村人の一人はこんな思い出があるという。
「父は音楽的に噛み砕く特技を持っていたわ。毎朝すてきな音をたてて噛むものだから、子どもたちは聞き惚れたものよ」
――第4章 パンを焼く村を訪ねて より オーストリア マリア・ルカウ村のエンバクのパン
【どんな本?】
ふかふかの食パンが好きだ。ちぎったフランスパンにジャムをつけるとオシャレな気分になる。様々なオカズが楽しめるタコスも楽しい。カレーもナンをつけると本格的な雰囲気になる。粗い砂糖をまぶしたビスケットも美味しい。もちろん、チョココロネのような菓子パンも大好きだ。などと、嬉しいことに、今の日本では様々なパンが楽しめる。
「人はパンのみに生きるにあらず」「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」など歴史上の言葉にも度々登場するパン。それはいつ、どこでできたのか。どんなパンがあるのか。どんな材料を、どのように加工し、どう調理してきたのか。パン釜には、どんな種類があるのか。パンの文化史を研究する著者が、ヨーロッパ各地を巡り、そこに生きる人々の生活に根ざした様々なパンの種類や来歴、食べ方を紹介する。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
1998年1月25日第1版。ソフトカバー縦一段組みで本文約270頁。9ポイント45字×18行×270頁=約218,700字、400字詰め原稿用紙で約547頁だが、図版や写真を豊富に収録しているので、文章量は3/4程度。内要は本格的だが、文章はこなれていて親しみやすく、読みやすい。
【構成は?】
はしがき
序章 米へん世界へ渡来した異邦人
第一章 パンとは何か
第二章 パンの発酵
第三章 パン焼き
第四章 パンを焼く村を訪ねて
第五章 パン文化の伝承
第六章 貴族のパンと庶民のパン
終章 パンは何を意味してきたか
注/あとがき/図版リストとクレジット/参考文献紹介/索引
【感想は?】
多彩な内容を含む本だが、特に印象に残ったのは「第四章 パンを焼く村を訪ねて」。食べ物の調理方法が、社会構造や生活スタイルにいかに大きな影響を与えるか、つくづく思い知らされる。
我々の主食はコメだ。精米したコメを買い、といで炊けばいい。炊く前に寝かせたり、炊いてから蒸らしたりするが、電気炊飯器が進歩した今、コメを食べるのにたいした手間はかからないし、広い場所も要らない。流しがあれば充分である。
ところが。オーストリアのマリア・ルカウ村のテレジアさんは大変だ。ここはイタリア国境近く、アルプスの山の中、一年の半分は雪に覆われる。寒冷地のためコムギは無理でエンバクが中心。今は多くが電気釜になったが、昔は中世以来の薪を使うパン釜。
今は生イーストを使うので当日の朝に始めればいいが、パン種を使ってた頃は前日の夜に仕込みをする必要があった。生地をこねパン釜を温め云々で、朝7:30にはじめ焼きあがるのは12:30。半日仕事である。とまれ、二週間分まとめて作るんだけど。
焼くのもご飯よりかなり難しい。というのも、「余熱で焼く」からだ。薪でパン釜を温め、燃え尽きたら燠を描きだし、こねたパン生地を入れる。ご飯なら火の加減を途中で調整できるけど、この手順じゃ途中で加減できない。前もっての見積もりが重要なのだ。だもんで、家庭ごとに「伝統の作り方」があり、お姑さんから嫁さんへと受け継がれる。実家の手順は役に立たない。パン釜が違うので、焼き加減も違ってくるからだ。
焼く周期もいろいろで、イタリアのチロル地方は年に3回だけ。それで一年分を全部焼いてしまう。パン焼き釜も、村で共有の場合もある。ドイツ南西部のヘンゲン村では、共同パン焼き小屋を順番で使う。毎朝、パン焼き長がくじ引きで翌日の順番を決める。そう、順番が大事なのだ。最初の人は薪が沢山必要だけど、後の人は余熱が残ってるので少なくていい。共同だと薪を節約できるので、植生が貧しい地域の智恵だとか。
マーカス・ラトレル&パトリック・ロビンソン「アフガン、たった一人の生還」にも、共同でパン焼き釜を使うパシュトゥンの村が出てきたのを思い出した。
突っ走りすぎた。さて、パンとは何か。これを著者は以下のように定義している。
- 生の穀物を
- 粉にする
- 水でこねる
- 焼く
- 焼きあがると固形物になる
「発酵させる」って過程がないことに注意。そう、無発酵のパンが中心の地域もあるのだ。とすっと、お好み焼きはパンなのか?最後の「固形物」ってのが、ちと難しいなあ。でもタコスは文句なしにパンだし、クレープもそう。パスタとの違いは、焼くか茹でるか、かな?
コメとの大きな違いは「粉にする」点。コメは皮が柔らかいので簡単に精米できるけど、ムギは皮が硬いので、粉にしちゃう方が簡単なのだ。ところが粉ひきは重労働で、お陰で水車や風車が発達しましたとさ。なんと紀元前120~63年、ギリシャの「ミトリダテス貴種王がユーフフラテス河上流のアルメニア地方、カベイラに築いた王宮に水車があった」って説まである。
ここで「だったら炒っちゃえばいいじゃん」って発想も出る。チベットで有名なツァンパ、炒ったオオムギを挽いたモノだとか。そうだったのか。
ちなみに産業革命を支えた一つが蒸気機関なのは有名だが、もう一つ歯車・ピストン・クランクなど機械工学の成熟も必要で、これをもたらしたのが水車だとか。
なんにせよ「粉にする」のは大仕事で、中世の欧州じゃ粉屋が請け負った。都市部じゃパンを焼くのも専業化する。だってパン釜はデカいし、火を扱うから火事の原因になるし。ってんで、庶民は粉屋に製粉してもらい、自分で生地を作ってパン屋に焼いてもらう。粉屋が副業でパン屋をやる場合もあったが、その辺の縄張りはギルドで厳しく制限されてたり。
一般に日本じゃふっくらした白パンが中心だけど、最近は自然食ブームなどで黒パンも見直されつつある。栄養成分表も載ってて、ライムギ全粒粉パンはとても優秀。コムギの白パンと比べ、リンは220:90、鉄分3.3:0.9、ビタミンB1が180:86、ビタミンB2が150:60.貧血気味の人にはライムギパン?フルコースを食べられる貴族は白パンでも栄養バランスが取れたけど、貧しい庶民は黒パンじゃないと生きていけなかった、って指摘が面白い。江戸で脚気が流行ったのと同じ構造だね。
コメとムギの精米・精麦の難易で決まる粒食と粉食の違い、その工程の違いが作る社会構造の違い。気候の寒暖で決まるパンの原材料、植生の貧富で決まるパンの焼き方と形、定住と遊牧の違いがもたらす道具の違い。「何をどう食べるか」が、社会にどれほど影響を与えるか、または食べ物が社会や気候をどれほど反映しているか。身近に思えるパンを通し、人の生き方の多様性と歴史の流れを痛感できる、本格的ながら親しみやすく楽しい本だった。今度ライムギパンを買ってこよう。
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