キャサリン・メリデール「イワンの戦争 赤軍兵士の記録1939-45」白水社 松島芳彦訳 1
ソ連はこの戦争で頑強に抵抗したが、二千七百万人を超える未曾有の犠牲を出した。その多くは市民で、強制移住や飢餓、病気や虐待の不幸な犠牲者だった。しかし赤軍の損失、つまり戦死者も、八百万人超という恐るべき規模に達した。
【どんな本?】
ソ連では大祖国戦争と言われる第二次世界大戦。ダンケルクやノルマンディーなど欧米の記録は多く、また敗戦国であるドイツや日本も戦後は言論の自由が保障されたため、従軍した将兵や戦禍に巻き込まれた民間人が多くの手記を残しており、戦争の実態は調べやすい。しかし、共産国の様子は鉄のカーテンに閉ざされ、英雄ともてはやされた一部の将兵の活躍を除けば、ほとんど表に出てこなかった。
本書の成立には、ソ連崩壊が重大な関係がある。それにより、多くの資料が公開され、また自由なインタビューが可能となった。ロンドン大学クイーン・メアリー・カレッジで現代史の教授を勤める著者が、前線で戦った将兵や、戦場となった西部ロシア・ウクライナに住んでいた民間人へインタビューを行い、また公開された公的資料を漁り、「普通のソ連人イワン」の視点で、第二次世界大戦を再現する。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原初は Ivan's War : The Red Army 1939-45, by Catherine MerriDare, 2005。日本語版は2012年5月25日発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約436頁。9.5ポイント44字×20行×436頁=約383,680字、400字詰め原稿用紙で約960枚。長編小説なら約2冊分。
文書は翻訳物の戦争物にしては比較的に読みやすい。著者は歴史学の人で軍事関係の人ではないので、軍事というより「現代史を掘り起こす」始点で書かれており、あまり専門用語も出てこない。反面、「連隊」や「師団」などが用語解説もなく出てくるので、素人には規模の見当がつけにくい。また、距離の単位がヤードなのも、不慣れな日本人には辛いかも。
【構成は?】
序章 戦争の真実
第1章 「革命行進曲」
第2章 全世界に広がる戦火
第3章 災厄の翼が羽ばたく
第4章 暗黒の戦争
第5章 「敷石一枚を争う市街戦」
第6章 国土の荒廃
第7章 兄弟愛に祝福あれ
第8章 歓喜と悲嘆、そして苦難
第9章 死体からの略奪
第10章 剣を収めて
第11章 そして記憶にすべてを刻み
謝辞/訳者あとがき/写真一覧/主要年表/参考文献/出典/出典について/索引
基本的に時系列に記述が進む。ただし、あくまでも前線の将兵や現地に住む民間人の目線で書かれており、戦争全体の推移はわからない。背景が知りたければ、ハリソン・E・ソールズベリの「燃える東部戦線」や山崎雅弘の「宿命のバルバロッサ作戦」などで補おう。いや「バルバロッサ作戦」は読んでないけど。
【感想は?】
日本人にとっては、いろいろと複雑な気分になる本だ。
1945年8月9日、ソビエト軍が満州に雪崩れ込む。無敵と自負した関東軍は相次ぐ南方への戦力抽出で形骸化しており、ソ連軍は軍事史上に残る快進撃を成し遂げた。残された民間人は過酷な運命を辿り、今も残留孤児として痛みは続く。捕虜となった将兵はシベリアで抑留され、多くの人が犠牲になった。この時の赤軍の体質がどのように形成されたか、本書を読めば否応なしに理解できる。
まず、冒頭の引用の数字にブッ飛ぶ。「ロシアに年金問題は存在しない」と言われる原因の一端は、これかもしれない。我々が触れる情報だと、第二次世界大戦では欧米の活躍が多く描かれるが、「1939年から45年までに召集された赤軍兵士は三千万人を超えた」「人的にも物質的にも、ドイツの軍事的損害の四分の三は東部戦線で生じた」。
本書は、開戦前のソ連の国情から始まる。悪名高い集団農場政策により「1939年までに農村の世帯数は二千六百万から千九百万に減少した。農村部から消えた男女のうち約一千万人が死亡したと推定される」。おまけに軍じゃ粛清の嵐で「戦前最後の三年間で、全軍管区の90パーセントの指揮官が降格された」。冬戦争(→Wikipedia)は、そういう状況で始まった。
そして1941年6月22日、バルバロッサ作戦(→Wikipedia)の発動。電撃戦で経験を積んだ独軍は「砲撃と空襲の標的を正確に把握していた。まず赤軍の指令拠点を狙い、さらに鉄道と工場を攻撃した」。もともと赤軍兵の3/4は農民の倅、烏合の衆と化して壊滅。
撤退が敗走と化したのは、輸送体制が整っていなかったからだと前線士官のほぼ全員が指摘している。(略)必要量の五分の四を満たす輸送能力を持つ部隊は皆無であると指摘していた。
「十月になると、戦前の人口の四十五パーセントに相当するほぼ九千万人が、敵の占領地域に取り残された」。赤軍は泥縄式に兵を補充するが、次から次へと消えてゆく。残された住民の一人、繊維工場の女性労働者の回想。
「工場が閉鎖されているのを見たとき、私の心臓は凍り付いてしまいました。多くの工場長が逃げ出していたのです」
だが、ドイツ軍の蛮行が復讐心を呼び起こす。ドイツの情報将校曰く「我が軍は捕虜を意味もなく生かしてはおかなかった」。赤軍の大佐が語る。「もしドイツ軍が捕虜を大切にしていたら、その話はすぐに伝わってきただろう。口にするだけでおぞましいが、彼らは捕虜を虐待し飢えさせ殺したことで、我々を助けたのだ」。
行き場を失った将兵は森に潜みパルチザンとなり、ただでさえ脆弱なドイツ軍の輸送網をズタズタにする。その効果はM.v.クレヴェルトの「補給戦」に詳しい。セヴァストーポリ要塞で有名なクリミア陥落の模様は、日本の沖縄戦を髣髴とさせる悲劇が暴かれる。そしてスターリンの命令227号が出る。
この「封殺部隊」は、従来から背後の監視を任務としてきたNKVDの部隊「ザクラドオトリャドゥイ」を補佐して、遅れをとる兵士や逃げる兵士を容赦なく射殺する任務を帯びた。
と同時に、前線では政治将校の介入なしに士官が作戦を決められるようになる。というか、それまでは政治将校がいろいろと邪魔してたわけ。おまけに横領が横行し、目端の利く士官はモスクワの上官に賄賂として軍事物資を送る。そして兵の食事は「一日にスプーン五杯のカーチャ」。女性の徴兵も始まり、前線では「狙撃の腕なら、女性でも戦場で男性に秀でることができた」。政治教育が中心だった新兵教育も、実践的なものになっていく。
恐怖を取り除くため「アイロンがけ」と呼ぶ訓練を施した。塹壕の中に寝かせて頭上をソ連の戦車が通り過ぎるまで我慢させた。赤軍に関するドイツの諜報報告によれば、「兵士はこの訓練を受けると、人が変わったように勇敢に戦うようになった」。
そしてスターリングラード(現ヴォルゴグラード)の逆転が起きる。多大な犠牲を伴ったが、ソ連の体制はその犠牲を秘匿する。包囲下のレニングラード(現サンクトペテルブルグ)で名を馳せた女性詩人オリガ・ベルゴリツは1942年にモスクワのラジオに英雄として出演するが…
「…私はラジオで語る言葉を見いだせませんでした。こう言われたからです。“何を話してもかまいませんが、飢餓の思い出だけはいけません”」
最悪の状況で、将兵の支えとなったのは、歌。
スヴェトラーナ・アレクセイエヴィッチは戦場体験のある女性たちと話し、同様の発見をした。「前線に赴く時、何が最も記憶に残ったかと尋ねたところ、みな同じ答えだった。彼女たちは出発に際し、好きな歌を歌っていたのだ!」
ある軍曹は、歌に「左、右、伏せ、注意、撃て!」と兵が覚えるべき命令を組み込みんだ。暗記学習より効果があるので、他の部隊にも広がった。
…赤軍兵たちは、無人の野の向う側で一人のドイツ兵が奏でるアコーディオンの調べを聞いた。自分たちが野営地を出発して以来、歌ってきた旋律だった。数日後、薬きょうに入れた一枚のメモが赤軍前線の近くで見つかった。下手なロシア語で、歌詞を教えてくれと書いてあった。
そしてクルスクの戦車戦を経て、ソ連軍は反転攻勢へと向かう。ここで赤軍将兵に起きた変化が、後の満州の悲劇へと繋がってゆく。長くなったので、それは次の記事で。
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