エフライム・ハレヴィ「モサド前長官の証言 暗闇に身をおいて」光文社 河野純治訳
優れた情報(インテリジェンス)を入手する必要性は明白であり、いまさら強調する必要はあるまい……唯一つけくわえることがあるとすれば、すべてをできるかぎり秘密にしておくことである。その種の企ての成否は秘密を保てるかどうかにかかっている。どんなに周到に計画を立て、どんなに有利に事を運べそうな状況だとしても、秘密を保持できぬ者は敗北する。
――ジョージ・ワシントン
【どんな本?】
副題は「中東現代史を変えた驚愕のインテリジェンス戦争」。
諜報組織としてはCIA・KGB・MI6と並ぶ名声を誇り、その優れた手腕と共に、往々にして強引なやり口で悪名も高いイスラエルのモサド。長くモサドに勤務し、一時はEU駐在大使を務めた後、モサド長官を務めた著者による回顧録であり、主に1973年のヨム・キップール戦争(第四時中東戦争)以後のイスラエル外交の裏面史である。
イラン・イラク戦争,第一次インティファーダ,イラクのクゥエート侵攻と湾岸戦争,オスロ合意,そして9.11からイラク戦争を経て、2005年のイスラエル軍のガザ撤退までの中東の激動を、イスラエルの視点で描く異色の現代史。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は MAN IN THE SHADOWS ; Inside the Middle East Crisis with a Man Who Led the Mossad, by Efraim Halevy, 2006。日本語版は2007年11月30日初版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約419頁+佐藤優の解説13頁+訳者あとがき2頁。9.5ポイント43字×18行×419頁=約324,306字、400字詰め原稿用紙で約811枚。長編小説なら長め~2冊分ぐらい。
文章そのものは、翻訳物のノンフィクションとしては、こなれていて読みやすい。ただし、内容は多くの日本人に馴染みのない中東問題であり、インティファーダ(→Wikipedia)やオスロ合意(→Wikipedia)などパレスチナ問題関連や、リクード(→Wikipedia)などイスラエルの内政と最近の歴代首相、そしてナセルやハーフェズ・アル・アサドなど少し前のアラブ諸国の指導者を知らないと、少々キツいかも。何人かのアラブの指導者は代替わりしている上に、「アラブの春」で退場た人もいるから、ややこしい。また、PLOの指導者が「アブ・マーゼン」の名で出てくるが、今は「ファタハのマフムード・アッパス(→Wikipedia)」の名で知られている。ちょいとアラブ各国の首脳を整理しておこう。この本に登場するのは、赤い字の人。
- ヨルダン国王:フセイン一世(→Wikipedia)→アブドラ二世(→Wikipedia)
- エジプト大統領:ガマル・アブデル・ナセル(→Wikipedia)→アンワル・サダト(→Wikipedia)→ホスニ・ムバラク(→Wikipedia)→ムハンマド・フセイン・タンターウィー(→Wikiipedia)→ムハンマド・ムルシー(→Wikipedia)
- シリア大統領:ハーフェズ・アル・アサド(→Wikipedia)→バッシャール・アル・アサド(→Wikipedia)
- モロッコ国王:ハッサン二世(→Wikipedia)→ムハンマド六世(→Wikipedia)
【構成は?】
序章 闇の外へ
第1章 イラン・イラク戦争の終結
第2章 戦争への秒読み
第3章 湾岸戦争の足跡、その光と影
第4章 中東紛争に対する国際的関心
第5章 プロフェッショナル・レベル――平和維持の第三の要素
第6章 イスラエル・ヨルダン和平条約
第7章 和平条約締結までの三ヶ月
第8章 さまざまな指導者と国の思い出
第9章 時代の変化と優先事項の変化
第10章 メシャル事件
第11章 新長官の最優先事項
第12章 傲慢、尊大、自信過剰
第13章 新時代の到来――国家間の仲介役としての諜報員
第14章 情報の政治的操作
第15章 シャロンの功績
第16章 責任を負うことと責めを負うこと
第17章 現在の新たな視点
第18章 外交――可能なことを実行する技術 諜報――不可能事を達成する技能
謝辞/解説/訳者あとがき
【感想は?】
元モサド長官の著作だが、007やスパイ大作戦な内容は、ほとんど、ない。大半は、表に出ない外交特使としてイスラエルの外交に携わる者の視点で見た、イスラエル外交史または中東情勢だ。
イスラエルは難しい立場にいる。小さい国土で周囲を敵に囲まれ、友好的なのは大西洋の彼方のアメリカだけ。国際的にもパレスチナ問題で非難される状況であり、国連もアテにならない。そもそも建国からして凄まじい。産声を上げた途端に第一次中東戦争(→Wikipedia)で四方から袋叩きにされ、実力で生き延びた国である。
それだけに、良くも悪くも「なりふりかまわない国」という印象がある。特にハマスなどの敵対勢力に対しては暗殺など手段を選ばない側面もあるが、反面、国土と人口の割りに周囲の軍事大国と対等以上に渡り合うあたり、外交・軍事・諜報においては異様に優秀と思われている。
難しい立場なのは周辺の国も同じで、例えばエジプトはナセル時代のソ連一辺倒からサダトがアメリカへ接近し始め、同時にイスラエルに対しても柔軟な姿勢を示し、パレスチナ問題への直接の関与を避け始めた。湾岸諸国は軍事的に完全にアメリカに依存している。シリアはソ連(ロシア)との連携を継続しているが、イスラエルとの直接的な武力衝突ではなく、ハマスやイズボラを通じた間接的な手段へ切り替えた。
が、いずれも、自国内では反イスラエルの言動を続けている。その方が権力維持に都合がいいのだ。国民はイスラエルに反感を持っているし、ガス抜きの意味もある。かといって、国際的な立場でイスラエルに敵対的な行動を示すと、後ろ盾であるアメリカが怖い。
イスラエルは、この矛盾につけこむ。そこで、外交特使である著者が登場するのである。公式なチャンネルで交渉している事がバレたら、お互いに困る。モサドがコッソリ接触したのなら、最悪の場合は著者を悪者に仕立て上げれば済む。
そんな状況で、意外な存在感を発揮しているのが、ヨルダンのフセイン国王。周辺国の中では穏健派と目され、軍事・外交的にもアメリカとの縁が深い。周辺では最も多くのパレスチナ難民を受け入れている。口先ではパレスチナへの支援を叫びながら、実質的には武器以外の支援をしないアラブ諸国の中では、実質的に最も多くのパレスチナ人を救っている国でもある。
しかし、皮肉な事に、それが王家の存続を危険に追いやってもいる。国内の中でパレスチナ人の数が増えたため、世論は反イスラエルの論調が強くなり、1970年には煮え切らない王家に業を煮やしたPLOが王家打倒を目論み、黒い九月事件(→Wikipedia)を引き起こした。以来、現在に至るまで、イスラエルと王家は利害の共通点が多い。
とはいえ、お互いに譲れない点もある。エルサレムだ。イスラエルにとってエルサレムは首都であり、イスラエルが統治すべき土地である。王家はエルサレムの庇護者を自認し、あくまで王国への帰属を主張する。まあ、結局は、「今は棚上げにしようや」って結論に落ち着くんだけど。
そこに持っていくためには、お互いの話し合いが必要だ。だが、公式のイスラエルの外交官が出張ると、反イスラエル感情の強いヨルダンでは、王家の顔を潰してしまう。そこで、著者が暗躍するのである。
政治の裏側を扱った本だけに、内容も政治的だ。私が読んだ印象だと、著者の視点はイスラエルの右派に近い。同時に、諜報と外交の世界で揉まれたためか、利便主義的でもある。つまり、正義より利益を優先する立場だ。そういった立場で見た、周辺諸国の分析は示唆に富む。例えばサウジ。
サウジの伝統政策の根底にはつねに、王国の繁栄は「金で買える」という前提があった。
うはは。イメージぴったし…って、笑ってる場合ではない。なんたって世界トップの原油輸出国だ。今だって我が国の原油輸入の30%以上を依存している国なのだ(→帝国書院 原油の生産トップ10と日本の輸入先)。カタールはしたたかな八方美人、シリアはソ連(ロシア)べったり。
パレスチナは外交的な修辞にまぶしつつ、基本的に罵倒のみ。「(外交)チャンネルの数が多すぎて、その有効性や確実性がひじょうに疑わしかった」。特にアラファトは「金に汚い大嘘つきで、アラブ諸国からも呆れられている」と散々。逆にアメリカに対しては「逆らっちゃいけない」と従順だが、これはイスラエルの立場を考えると仕方がないか。
他にも、選挙で選ばれる政治家と長く同じ任務に携わるプロフェッショナルの役割を考察したり、9.11を招いたアメリカの諜報体制の問題点を指摘したり、最近の欧州のイスラム系移民の問題を指摘したりと、なかなか刺激的。特に、中東における北朝鮮が果たしている武器供給元としての役割などは、意外と知られていないだけに、重要な情報だろう。
日本にとって中東は石油の供給源であり、北朝鮮の資金源でもある。本書の終盤で語られる9.11後の世界情勢は、我が国も否応なしに巻き込まれつつある。書名から連想する諜報関係より、外交と世界情勢の面で収穫の多い本だ。
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