八代嘉美「増補版 iPS細胞 世紀の発見が医療を変える」平凡社新書607
…四つの遺伝子を組み込むことでできてくる細胞の集団は多能性をもっているということができる。マウス人工多能性幹細胞、iPS細胞の誕生であった。
【どんな本?】
2012年、山中伸弥教授がノーベル生理学・医学賞の受賞をきっかけに大きな注目を浴びた人工多能性肝細胞 induced Pluripotent Stem cell ことiPS細胞。それは一体何なのか。何が嬉しいのか。なぜ、そんなに騒がれるのか。それまでは、どんな研究がなされていたのか。どんな困難があって、どうやってクリアしてきたのか。どんな理論に基づき、どんな技術に支えられているのか。話題のES細胞とは何が違うのか。
そういった科学・技術的な側面に留まらず、医療・生命科学に伴う倫理の問題や、世界各国のES細胞・iPS細胞への取り組みと我が国の取り組みの比較、研究体制を支える政治・行政体制の現状と将来展望、そして適切な研究体制の提言など社会的な視点も交え、iPS細胞と再生医療研究の基礎から現状までを、現役の幹細胞生物学の研究者が素人向けに語る科学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
初版は2008年6月に刊行。増補版は2011年9月15日初版第1刷。新書版縦一段組みで本文約247頁に加えあとがき4頁+増補版へのあとがき5頁。9ポイント40字×15行×247頁=約148,200字、400字詰め原稿用紙で約371枚。長編小説なら短め。
文章そのものは一般向けとして相応に柔らかいのだが、かなり科学的に高度な内容にまで踏み込んでいるためか、新書としては結構歯ごたえのある内容となっている。とまれ、科学・医学的には免疫のしくみなどの基礎的な部分から丁寧に説明しているので、中学卒業レベルの生物学の知識があれば、充分に読みこなせるだろう。恐らく最も難しく、かつエキサイティングなのは「6章 iPS細胞が誕生した!」。ここはじっくり時間をかけて読み解こう。
【構成は?】
はじめに
1章 “ES細胞”は生命の起源にさかのぼる
2章 細胞が先祖返りしないわけ
3章 なぜ身体は古びないのか?
4章 再生はいつも身体で起きている
5章 再生医療の時代へ
6章 iPS細胞が誕生した!
7章 再生医療レースのはじまり
8章 再生する力で人工臓器をつくる
終章 “知”がヒトを変えていく
増補1 iPS細胞研究の現在
増補2 オールジャパン体制へ向けて
あとがき/増補版へのあとがき/キーワード索引
【感想は?】
iPS細胞というホットな話を扱った本であり、一見時流に迎合した本のように思える。読み終えてみると、時代に迎合というより、時代のニーズにあった本、と表現したい。
というのも。第6章までかけて、じっくりと科学・技術的な部分を素人向けに説明し、7章以降で研究体制や予想される応用分野などの現状・将来展望に加え、予算・法整備など産業・社会的な生臭いともいえる、だが多くの読者が強い興味を示す側面を、ギョーカイ人ならではの視点で詳しく紹介しているからだ。
つまりはiPS細胞にまつわる話題を現役のギョーカイ人が多角的な視線で整理した本であり、科学・医学一辺倒の内容ではない。専門家が書いているだけに科学・医学的な部分はしっかりしており(と思う、検証できるほど私は詳しくないんだけど)、加えて社会的な部分も充実した、野次馬的な興味の読者には最高にフィットした本となった。
話はまず胚性幹細胞 Embryonic Stem Cell ことES細胞から始まる。受精して暫く細胞分裂した受精卵から内部細胞塊を取り出し、これを培養したのが ES細胞だ。
トカゲの尾は生え変わるし、プラナリアは体を二つにちょん切っても完全に再生する。でもヒトの腕は生え変わらない。ヒトの細胞は、「表皮になる」「筋肉になる」など一旦役目が決まったら、もう後戻りできないのだ。この「役目が決まる」のを分化と言う。何が役割を決め、役目が決まると何が変わるのか。
役目を決めるのはアクチビンAというタンパク質の濃度だ。そして役目が決まると、遺伝子にメチル基がついて機能しなくなる。プログラムをコメント・アウトする感じかな?ES細胞はメチル基がつく前の状態のため、様々な組織になれるのである。
便利なES細胞だが、問題もある。ヒトで使うには、ヒトの胚が必要なのだ。ヒトには免疫機構があるので、おいそれと他人の胚を使っても拒絶反応が起きて巧くいかない。倫理的な面でも議論があって、現在はちと扱いが難しい。普通の体細胞を使ってなんとかならんの?
ってんで、iPS細胞が誕生する。この誕生過程で、実はES細胞が大きな役割を果たしていて、研究上は切り離せない関係である由がじっくり描かれている。
ヒトの体細胞にOct3/4,Klf4,Sox2,c-Myc の四つの遺伝子を遺伝子組み換え技術で挿入したのがiPS細胞だ。面白いと思ったのは、遺伝子を無効化しているメチル基を取り去るのではなく、新たに活性している遺伝子を追加した、という点。遺伝子の配列そのものは、元と変わっちゃってるのですね。
最後の c-Myc はがん化に関係している遺伝子である由は、新聞などでも盛んに報道された。この辺は増補で存分に扱われていて、代替手法が幾つか発見されている模様。もっと面白いのは、遺伝子を組み込む手法。山中教授はマウスのウイルスを使って核に遺伝子を組み込んだけど、これだと細胞の核そのものが変わってしまう。ちょっと不安でしょ?
でも大丈夫。プラスミド(→Wikipedia)を使ったり、センダイウイルス(→Wikipedia)で有名なRNAウイルス(→Wikipedia)を使ったり、色んな方法が実験室では成功しているのだ。というか、遺伝子組み換えって核をいじる事だとばっかり思ってたけど、色んな方法があるのね。プラスミドが使えるなら、特定の部位にだけ特別の機能を持たせる、なんてのが可能なわけで、例えば遺伝子組み換え染髪料とかできそう…って、スケール小さいな俺。
他にも幹細胞シートなど応用的な話題から筋肉痛の原因など医学的な内容、バチカンの声明に突っ込みを入れるなど政治・倫理に踏み込んだ部分など話題は幅広く豊か。オツムのテッペンが薄くなってる私としては、毛幹細胞のしくみが興味深々だった。
なお、著者はSFマガジン2011年11月号にジェイムズ・ティプトリー・ジュニア論「男たちの知らない女の創生――細胞生物学をティプトリー的に読み解く」を寄稿するなど、相当に業の深いSF者でもある模様で、この本でもフランケンシュタインや十億年の宴、そして機動戦士ガンダムなど同じ業を背負う者の心をくすぐる単語がイースター・エッグよろしくアチコチに潜んでたりする。ニタニタしながらホットな話題に精通できる、おトクな本だった。
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