フィリップ・ポール「音楽の科学 音楽の何に魅せられるのか?」河出書房新社 夏目大訳
音楽というのは、芸術、科学、論理、感情、物理学、心理学などの要素が恐ろしく複雑に絡み合ったものだ。これほど複雑なものは他に例がないかもしれない。この本では、音楽という不思議なものについて、現状で何がわかっていて、何がわかっていないかを明らかにしていこうと思う。
【どんな本?】
たいていの人は、音楽が好きだ。明るい歌は気分がウキウキするから好まれるのは判るが、悲しい失恋の歌が好きな人もいる。なぜ悲しい曲がウケるんだろう?そもそも、なぜ「明るい」「悲しい」と感じるのか?この感じ方は、世界共通なのか?なぜギターのCとDの間は2フレットで、BとCの間は1フレットなのか。乳幼児にモーツァルトを聴かせると本当に頭が良くなるのか。音の周波数は連続的に変わるのに、なぜドレミファソラシドの音階があるのか。音階は12だけなのか。人はなぜギターとフルートを聞き分けられるのか。
音楽好きなサイエンス・ライターの著者が、古今のクラシックから現代音楽,ジャズやロックなどポップ・ミュージック,バリのガムランからアフリカのトーキング・ドラムなど民族音楽まで、世界中のあらゆる音楽に題材を取り、数学と科学の手法で「音楽が生む感動」を解き明かそうとする、野心的で興奮に満ちた科学解説本。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は THE MUSIC INSTINCT - How Music Works and Why We Can't Do Without It, by Philip Ball, 2010。日本語版は2011年12月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約614頁+訳者あとがき3頁。9.5ポイント47字×20行×614頁=約577,160字、400字詰め原稿用紙で約1,443枚。長編小説なら三冊分の大ボリューム。
翻訳物の科学解説書としては、文章はかなり素直な方。科学の本だが、特に数式は出てこないし、科学用語も「周波数」ぐらいなので、理科が苦手な人でも充分に理解できるだろう。必要なのは「高い音は周波数が高い」ぐらい。私が手こずったのは、むしろ音楽の方。楽譜が頻繁に出てくる。恥ずかしながら、私は楽譜が読めないのだ。でも大丈夫。この本の大半の楽譜は、出版者のサイト(→The Music Instinct)で聞けます。
内容はわかりやすいし、訳はかなり親切。例えば、文中に出てくる曲名。ビートルズの I Wanna Hold Your Hand は「抱きしめたい」、Led Zeppelin の The Song Remains The Same は「永遠の詩」と、日本人に馴染みの深い名前に訳してある。たぶん、いちいち調べたんだろう。こういう「もう一手間」で、かなり可読性が上がった。いや感激したのよ、Blue Oyster Cult の (Don't Fear)The Reaper(→Youtube)が、ちゃんと「死神」になってるし。
ただ、スラスラ読めるかというと、実はかなり難渋した。文中に「ストーンズの『サティスファクション』」と出れば脳内でキース・リチャーズがあのリフを弾き始めるし、「ワーグナーの『ワルキューレの騎行』」とくればヘリの大群がビーチに押し寄せる映像が再生される。その度に暫くほけ~っと妄想に浸ってしまい、なかなか前に進まないのだ。
【構成は?】
はじめに
第1章 前奏曲――世界は音楽に満ちている
第2章 序曲――音楽とは何か、そしてどこから来たのか
第3章 スタッカート――楽音とは何か、また使う音はどう決められるか
第4章 アンダンテ――良いメロディとは何か
第5章 レガート――音楽とゲシュタルト原理
第6章 トゥッティ――協和音と不協和音
第7章 コン・モート――リズムとは何か
第8章 ピッツィカート――音色
第9章 ミステリオーソ――音楽を聴くと、脳はどう活動するのか
第10章 アパッショナート――音楽はなぜ人を感動させるのか
第11章 カプリッチョーソ――音楽のジャンルとは何か
第12章 パルランド――音楽は言語か
第13章 セリオーソ――音楽の意味
コーダ――音楽の条件
訳者あとがき/原註/参考文献/図版出典
【感想は?】
書名を見て「音楽を数学や科学で探ろうなんて野暮だ」と思う人もいるだろう。だが、読んでみると、むしろ結果は逆だ。科学によって、私たちが日頃何気なく楽しんでいる音楽の豊かさ・不思議さ、そして音楽の中に潜む構造の複雑さが、いっそう明らかになった、どころか、単に「音楽を楽しんで聴く」だけの行為ですら、実は大変に多くの学習を必要とし、また脳を総合的にコキ使い、同時に脳を変化させるものなのだ、というのがわかってくる。
著者はサイエンスライターであり、かつ、音楽が大好きな人らしい。この本に出てくる音楽も広範に及び、クラシックはもちろんジャズ・ロック・ブルースそしてポップミュージックはもちろん、民族音楽もアイルランド・スカンジナビア・南北アフリカ・バリのガムラン・インド・中国と、世界中のありとあらゆる音楽を扱っている。日本の「鼓童」も出てきた。
新鮮な音楽が聴きたい人には、一種のガイドとしても読める。例えばアフリカの音楽を紹介する所では、サハラの南端で大きく傾向が変わる、と論じている。その北では「人間の声によるもので、メロディは単音から成り、それに通奏音かリズムが伴う」。南では「複数の人が同時にメロディを奏で、ハーモニーがつけられることも多いリズムパターンは多層構造の複雑なもの」。プログレ者が狂喜しそうなのがバルカンの民族舞踏の音楽で、「大きく分けて五種類の形態があるが、そのうち一つだけが二拍子で、あとは、9/16拍子が一つ、7/8拍子が二つで、残り一つは5/4拍子である」。変拍子好きにはヨダレが出そうな大鉱脈。
音程も改めて考えると不思議で、本来、音の高さは連続して変わるものなのに、西洋音楽はオクターブ中の12個しか使わない。「特定の音階しか使わない」のは大抵の民族音楽で共通してるけど、オクターブの分割方法は地域によって大きく違う。西洋音楽はミとファ・ソとドの間が狭いけど、ガムランのスレンドロはオクターブをほぼ均等に5分割してる。しかも「同じ曲でも音程の間隔が様々に変化する」って、どんだけ複雑なんだ。
和音ってのも奇妙なモンで、いわゆる不協和音も、ある程度は社会的な部分もあるが、同時に「人間が生理的・感覚的に不協和に感じる響きというものもある」。周波数が極端に近いと「うなり」に聞こえ、ある程度離れると二つの音に聞こえる。その中間が気持ち悪い。面白いのは、これが「周波数の絶対値の差」ってことで、つまり低音域では不協和音が多くて、高音域では少ない。「間違いなく、低音域になるほど音程差を広げなければ響きが不協和になることを、バッハもハイドンも気づいていたのだろう」。
私が好きなロックでは楽器の音色が大事な役目を負っていて、例えば You Really Got Me、これは Kinks(→Youtube) の曲を Van Halen(→Youtube) がカバーしたんだけど、両者ともコーラスやギターのリフはソックリなのに、印象は全く違う。この違いは、やっぱりエドワード・ヴァンヘイレンの強烈な個性によるものだろう。じゃ、その違いは何かというと、実は「よくわからない」と、この本は投げ出しちゃってる。
「研究しようにも、あまりにとらえどころがないからである」。倍音構成とアタックが重要みたいではあるし、それを逆用してエレキギターでヴァイオリンの音を出すロイ・ブキャナン(→Youtube)なんてのもあるが、この本の結論としては「倍音とアタックとサスティンが意味あるっぽいけど、重要度のわりにわかってない」だったり。まあ誠実ではあるなあ。
後半では「ヒトは音楽をどう感じるか」な話が多くなってきて、MRIを使った解析なども出てくる。意外なくらいに脳全体を使ってて、「音楽を聴くのは脳のストレッチみたいなモンだよ」と音楽ファンを喜ばせてくれる。ただ、これが「音楽を聴いて得る感動」になると話は別で。
たとえ同じ曲を聴いたとしても、それをディナーパーティーで聴いたときと、山の頂上で聴いたとき、あるいは朝の四時に隣家から爆音で聞こえてきたときでは、感じ方は大きく違うはずだ。
と、当たり前ではあるが重要な指摘もしてる。いい音楽ってのは、音そのものに加え、それが流れる状況や、聴く人の体調や気分も重要なわけです。やっぱりライブは違うよね。
「第13章 セリオーソ――音楽の意味」では、音楽批評も論じていて、これが書評と一脈通じる点もあったりする。強引な解釈を皮肉りつつも、「人はどうしても音楽に物語を読み取ってしまうのだ」と分析しつつ、「こんなふうに解釈するのはある種、楽しいことである」と認めてたり。
優れた芸術批評とは、私たちに「こう考えろ」と指図するものではないと思う。そうではなく、「こんな聴き方もできるよ」と普通の人がきづかない提案をする批評こそ優れていると言えるだろう。
ああ、そういう書評が書きたい。
一般に科学が新しい分野に踏み出した時、よく見られる現象がある。「一つ判ると10の疑問が湧いてくる。調べれば調べるほど疑問が増える」。まさしく、この本はそういうリフが何回も繰り返され、どうにも割り切れない気分になると同時に、未踏領域の広さに興奮したりもする。ラヴィ・シャンカールのニューヨーク初公演のエピソードなど興味深いエピソードも満載で、音楽が好きならきっと楽しめるだろう。ただ、つい Youtube を巡回しちゃって、なかなか読み進まないのが困りものだけど。
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