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2013年4月 6日 (土)

ロドリク・プレースウェート「アフガン侵攻1979-89 ソ連の軍事介入と撤退」白水社 河野純治訳 2

1986年よりアフガニスタン大統領を務めたムハンマド・ナジブラは、典型的な閣僚会議の風景を次のように述べている。「われわれ閣僚が席に着く。どの閣僚にも(ソ連)顧問がついてきてる。会議が始まり、議論が熱を帯びると、顧問たちがそろりそろりとテーブルに近づいてくる。それに応じて閣僚たちは席を立ち、最終的にテーブルには顧問たちしかいなくなる」

 ロドリク・プレースウェート「アフガン侵攻1979-89 ソ連の軍事介入と撤退」白水社 河野純治訳 1 から続く。今回はエピソードを中心に。

【戦場】

険しい山岳地帯で主な移動法は徒歩。土地を知らないソ連軍に対し…

地元住民はありとあらゆる小道や細道を知っており、そうした道の多くは険しい山の斜面を横切るように走っているため、待ち伏せも容易なら、防御も容易で、しかも見つけられにくい。だが、それより困ることがある。実際に戦闘があった標高4800mを超える山岳地帯では、人は環境に慣れるまで、高山病で活動不能になるのだ。

ムジャヒディンの戦いは、ゲリラ戦の教科書どおり。

敵軍を一望できる高地を確保し、隊列の先頭と後尾の動きを止め、それからじっくりと敵の殲滅を図ればよいのだ。

(ソ連に支援された)アフガニスタン政府軍は1980年当時、「一個師団あたりの人数はたった1000人で、これは必要人数の1/10である」。強制徴募と予備役動員で兵力を確保するが…

概算では、脱走率が年間30%以下なら問題なかった。30%を大幅に上回るのは問題であり、60%になると事態は深刻である。

軍からの支給品で足りないものは、自分で調達せにゃならん。カブールなど都市部の将兵は地元のバザールに出かけ…

ここでは、ソ連本国では誰も目にしたことがない西側の消費者向け商品や衣料がうられていて、中には西側援助機関のアフガン貧困層向け支援物資も含まれていた。妻たちは中古のジーンズ、ジャケット、ドレスなどを徹底的に値切った。

ソ連軍と西側の軍の体質の大きな違いのひとつは、下士官の地位。「ロシアの軍隊には存在しない、長年勤務するプロの下士官」とあるので、鬼軍曹はいないって事になる。じゃ誰が仕切るのかというと、やっぱり古参の兵。ここでいう「祖父たち」とは「除隊の最後の6ヶ月に入っている兵士」。

デドヴシーナ、すなわち「祖父たちのシステム」と呼ばれるいじめが儀式として確立したのは、1960年代後半のことである。

下士官と兵の勤務評定は、結構厳しい。

有能な兵士であれば、戦地での一年目すなわち18ヶ月が終わると、軍曹に昇進できた。しかし指揮官の権限は絶大で、たとえ軍曹になれても、役立たずと判断されれば、一兵卒に逆戻りだった。

ソ連の将兵を最も苦しめたのは…

アフガニスタンに派遣された兵士の3/4以上が入院して治療を受けた。そのうちおよそ11%が負傷兵である。その他の兵士――戦争期間中に軍務に就いた兵士の69%―は重病に苦しんだ。感染性肝炎が28%、腸チフスが7.5%、そのほかにも感染性赤痢やマラリアなど、さまざまな病気があった。

テール=グリゴリアンツ将軍が「パンジシールの獅子」ことマスードを評して曰く。

「相手として不足のない敵であり、軍事作戦を組織する手腕は天下一品だった。彼が武器や弾薬を確保できる機会は非常に限られていたし、手持ちの装備はソ連軍、アフガン軍よりも明らかに劣っていた。にもかかわらず、マスードは効果的なパンジシール防衛作戦を組織した。防衛線は非常に強固で、それを突破して渓谷の支配権を奪取することはきわめて困難だった」

それでもソ連は何回かパンジシール掃討作戦を敢行してるが、大抵は不発に終わる。パターンはだいたい決まっていて、まず大規模な空襲で始まり、地上部隊が突入する…が、ソコはもぬけのから。マスードはアフガン軍内に優れた情報網を持っていて、作戦は筒抜けなのだ。ってんで撤退に入った途端、マスードに包囲されボコられる。

第二次大戦中の兵の楽器と言えばハーモニカだが、この時のソ連兵にはギターを持ち込んだ人も多数いた。ユーリー・キルサノフもその一人で、小型テープレコーダーを使い現地でレコーディングする。

歌は「スタジオ」同様の環境――連隊の風呂場――で夜間に録音した。夜は比較的電源の供給が安定しており、戦闘の音もなく静まりかえっているからら。

ソ連軍にいわゆるドッグタグはなく…

きちんとした認識票はなく、代わりに、個人に関する情報を書いたものを空の薬莢に入れて首からぶらさげていた。父や祖父たちも大祖国戦争ではそうしていたのだ。

ムジャヒディンの対空装備はスティンガー(→Wikipedia)が有名だが…

彼らが手に入れたソ連製の重機関銃は、うまく使えば、装甲を施された攻撃ヘリコプターでも撃ち落すことができた。

ソ連は早急にスティンガーへの対応を編み出す。航空機は赤外線フレアを使い、射程外の高度5000m以上を飛ぶ…誤爆が多くなり民間人の巻き添えが増えたが。スティンガーは背景に空がないと精度が落ちるので、ヘリは「山あいを超低空で飛行した」。結局、「損害はスティンガーが登場する以前の水準にまで減少した」。

米国は流出を恐れ、ソ連は「スティンガーを最初に手に入れた者にソ連邦英雄の称号を授与すると約束した」。また「反政府勢力から購入することも企てていた」。

イランも同じことをしており、1987年の軍事パレードで、数基のスティンガーを披露している。伝えられるところでは、二人のムジャヒディン司令官から100万ドルで購入したものだという。

【帰還】

この本の特色のひとつは、帰還兵の問題に多数の頁を割いている点。映画「ランボー」でわかるように、ベトナム帰還兵は暖かい歓迎を受けなかった。同様に、アフガン帰還兵も冷たくあしらわれている。

ソ連に帰還した兵士は、1980年のオリンピック開催中、モスクワへの立ち入りを認められなかった。当局は彼らが外国人訪問者に口外することを恐れたのである。

地位のある者の子息は巧く逃れた。息子を戦場に送った母親たちの多くは貧しい者であり、彼女たちが始めた運動は「ソ連で組織され、一定の成果をあげた最初の公民権運動のひとつ」として、チェチェンへ紛争と続く。だが戦争への批判は帰還兵にも及び…

雇う側はアフガン帰還兵を雇いたがらなかった。アフガン帰りは扱いにくい。いつも、約束されたのにまだ得ていない特権を要求する、と思われていたのだ。

なお、ソ連でのPTSDの研究は意外と早く始まってる。

ロシアで初めて心的外傷に苦しむ兵士の研究が実施されたのは、1904~05年の日露戦争後のことで、陸軍医学校の精神科医らによるものであった。ソ連時代にはこの研究成果はほとんど無視され、第40軍がアフガニスタンに派遣されたとき、精神科医は一人も同行しなかった。

1982年、ソ連政府は帰還兵や遺族への保障を決めるが…

これらはどれも枠組みが決められただけの話で、実際の運用にはさまざまな行政規則を設ける必要があった。規則はいっこうに公布されず、各地の当局はそのことに気づかないか、故意に無視することが多かった。

帰還兵たちは退役軍人組織を作り自衛を図る。エリツィンは退役軍人組織に減税などの優遇措置を講じるが…

アフガン退役軍人組織では、上層部の小数の人々が非常に裕福になった。本来の対象である障害を負った退役軍人への支援金は、資金全体のたった24%――ほかの推計によればたった9%――にすぎなかった。

だがひとつ明るいニュースもある。退役軍人たちの連絡網作りを、インターネットが助けているのだ。

【終わりに】

 他にもカルマル擁立際のKGBの暗躍、遺体安置所係りの孤独、捕虜の扱い、地元民との友好関係の築き方、帰還直前の兵がバザールで大儲けする話、ソ連軍内での横領、各ムジャヒディン勢力の背景、米国下院議員チャーリー・ウィルソンの恥など意外な事実が満載。現在のアフガニスタン情勢を理解し将来を展望するには、とても貴重な一冊だった。

 アフガン帰還兵と言えば、やっぱり姉御。暗い話が多くなっちゃったんで、お口直しに楽しいMADを紹介しよう。題して「バラライカさんの憂鬱」→Youtube

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