ウィリアム・パウンドストーン「囚人のジレンマ フォン・ノイマンとゲームの理論」青土社 松浦俊輔他訳
男が妻と母親をともなって、川を渡っている。対岸にキリンが姿を現す。男が銃をとってキリンに狙いをつけると、キリンはこう言った。「お前が撃てば母親が死ぬ。撃たなければ妻が死ぬ」。この男はどうすべきなのだろう。
【どんな本?】
純粋数学の世界で天才と謳われ、工学の分野でもノイマン・コンピュータを提供し、現代のIT隆盛の基礎を築いたフォン・ノイマンは、同時に応用数学と経済学の分野でも画期的な分野を切り開いた。ゲーム理論(→Wikipedia)だ。
この本は、世紀の天才フォン・ノイマンの特異なキャラクターと生涯を描くと共に、有名な課題「囚人のジレンマ」(→Wikipedia)に焦点をあてゲーム理論の基礎を解説する。皮肉にもノイマンの人生の絶頂期である1950年代は、典型的な「囚人のジレンマ」である米ソの核開発競争の時代だった。
当事の社会情勢など大規模な話題から、パーティーなどで簡単に遊べるゲームなど身近なネタまで、幅広く具体的な例でゲーム理論とその限界を解説する数学・科学の一般向け解説書であり、また同時にフォン・ノイマンという稀代の天才の生涯を綴る伝記でもある。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は PRISONER'S DILEMMA, by William Poundstone, 1992。日本語版は1995年5月20日第1刷発行、私が読んだのは2002年3月15日発行の第14刷。売れてるなあ。単行本ハードカバー縦二段組で本文約348頁+訳者あとがき6頁。8ポイント25字×21行×2段×348頁=約365,400字、400字詰め原稿用紙で約914枚。長編小説なら約2冊分。
翻訳物のわりに、文章そのものは悪くない。「フォン・ノイマンとその時代」を伝える本としては、充分な読みやすさ。だが、ゲーム理論の入門書としては、はっきり言って失格。著者は「やさしく、わかりやすく」を心がけ、数式や専門用語を避けて説明しているのだが、それが却ってまわりくどくわかりにくくなっている。
一般人が常識としてのゲーム理論を知りたければ、私はモートン・D・デービス著「ゲームの理論入門 チェスから核戦略まで」講談社ブルーバックスを薦める。本書の参考文献にも挙がっているし。1973年の本で今や古典だが、基本を感覚的に掴むと同時に重要な専門用語を把握するには質・量共に過不足ない。
【構成は?】
ジレンマ
ジョン・フォン・ノイマン
ゲーム理論
核爆弾
ランド研究所
囚人のジレンマ
1950年
ゲーム理論への不満
フォン・ノイマンの晩年
チキンとキューバ危機
さらに社会のジレンマ
適者生存
ドルオークション
訳者あとがき/参考文献/索引
【感想は?】
本書で扱うテーマを箇条書きで整理すると、以下5つになるだろう。
- フォン・ノイマンの伝記
- 囚人のジレンマを中心としたゲーム理論の紹介
- 典型的な囚人のジレンマである米ソの核開発競争と、それに対するアメリカ社会の対応
- フォン・ノイマンにまつわる、ちょっと笑える逸話
- パーティーを盛り上げる楽しいゲームの紹介
1.~3. は、書名からある程度は予想できるのだが、4. は意外だった。
フォン・ノイマン、正しくはヨハン・ノイマン・フォン・マージータ。ハンガリー生まれで後にアメリカに移住。若い頃から数学で頭角を現す。15歳の時、ハンガリーのクン政権が国を滅茶苦茶にして以来、筋金入りの反共産主義となる。宗教的にはほぼ無関心で、信仰も反発もなし。頭の良さを示す逸話は多々あって。
フォン・ノイマン「数学の力は26歳以降は下り坂になる。経験が下降ぶりをかくしていられるだけだ」
スタニスラフ・ウラム「フォン・ノイマン自身が歳をとりながらこの限界年齢を引き上げている」フォン・ノイマンは食べることと飲むことが好きだった。グッド・ハウス・キーピング誌「彼は何でも計算できる…カロリー以外は」
コンピュータの改良に取り組んだフォン・ノイマンは、その性能を試すため自分と機械で競争した。先に答えを出したのはフォン・ノイマンの方だった。
難問を抱えた科学者たちは、フォン・ノイマンに新しいコンピュータの設計を頼んだ。ノイマンは、問題の具体的な説明を求めた。2時間ほど科学者はノイマンに説明した。ノイマンは暫く頭を抱えた後、目の前の紙切れに何かを書いた。「もう新しいコンピュータは要りません。問題はたった今、私が解きました」
計算力ばかりではない。記憶力も凄まじい。一度読んだ本は、完全に覚えてしまう。若い頃にギボンの「ローマ帝国衰亡史」を通読するなど歴史にも詳しいフォン・ノイマンは、ビザンチンの歴史の権威と、ある日付について議論になり、書物を開くとノイマンが正しかった。後にノイマンが彼をパーティーに招待した際に歴史の権威は答えた。
「ジョニーがビザンチンの歴史の話をしないと約束してくれるなら伺います」
社交的で活発なばかりでなく、愉快な人でもあったらしく、「無限とも思えるジョークのストックがあった」とか。
さて、囚人のジレンマ、基本形はこんな感じだ。
二人の犯罪者を捕まえたが、取り調べは難航した。警察は二人を引き離し、双方に取引を持ちかける。
- どっちも証言しなければ、どっちの刑期も1年だ。
- お前が証言し、相棒が証言しなければ、お前は釈放し、相棒は3年の刑期をくらう。
- 逆なら、お前は3年くらい込み、相棒は釈放だ。
- 両方が証言すれば、どっちも2年だ。
自分が裏切って、相手が裏切らなければ、自分は得をする…双方とも。これのバリエーションが、チキン・ランだ。チンピラ同士が、車を正面衝突させるコースで全力疾走させる。ビビって先にハンドルを切った方が負け。自殺願望を持つ者が勝つ、という無茶苦茶なゲームだ。
これをチンピラがやってる分には「馬鹿な連中」と笑っていられるが、米ソ対立で双方が原子爆弾を持つ世界情勢はチキン・ランそのもの。現代なら、北の若き将軍様が同じ事を仕掛けている。当事のアメリカでは、「先制攻撃でソ連を滅ぼせ」という予防戦争を唱える者も多かった…フォン・ノイマンを含めて。ところが。
まったく奇妙な話だが、予防戦争が実際にうまくいくものかどうかという点については、論争の中で、ほとんど触れられていいなかった。
当事の核兵器、例えばプルトニウム爆弾のファットマンは、「使用可能であるのも、組み立てられてからたかだか48時間以内」で、「原爆を運搬できるように改修された飛行機は、ほとんどないも同然だった」。この辺は、現代日本の核武装論者も似たようなレベルな気がする。
一回こっきりなら裏切ったほうが得な囚人のジレンマだが、自然界には共生という現象がある。なぜ利他的な行動が生存競争の中で発達するのか。その鍵は、「繰り返し」にある。現実では、囚人のジレンマが何回も繰り返される。
1980年にミシガン大学の政治学教授ロバート・アクセルロッドは、多くのプログラムを集め繰り返し囚人のジレンマのコンテストを開いた。そこで優勝したのは、意外なプログラムだった。いわゆる「おうむ返し」戦略だ。
- 最初は協調する。
- 2回目以降は、相手が出したのと同じ手を出す。
特に、その単純さが驚きだった。これは個人的な見解だが、面白いことに、これはヒトの感情的な反応そのものだ。好きな人には優しくし、嫌な奴にはツンケンする。人間、素直に生きるのが最も得なのかも。でも「べ、別にアンタのためにやったんじゃないんだからねっ」なんて釘宮声で言われたら←黙れ
パーティー・ゲームとしては、ドルオークションが面白い。1ドル札をオークションにかける。最高値の人が競り落とす。2番目に高い値をつけた人は、自分がつけた値を胴元に払う。よく考えると、これは怖い。もっと怖いのは、日常で遭遇する似た例が沢山紹介されていること。
前半はフォン・ノイマンの強烈な個性とユーモアで引っ張り、中盤は冷戦の緊張感が引き締め、終盤はゲーム理論の意外な応用の広さと限界に驚く。長く分厚い本ではアあるが、思ったより難しくもなくダレもしなかった。ただ、出来れば予め他の本でゲーム理論の基本を学んでから読んだ方がいい。
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