「完本 池波正太郎大成14(剣客商売4)」講談社
「女だてらにやっていることなど、世間に知れたら、嫁のはなしもなくなる。よいか、このことはないしょ、ないしょだぞ」
――ないしょないしょ
【どんな本?】
「鬼平犯科帳」で有名な昭和のベストセラー作家・池波正太郎の、もうひとつの代表シリーズ「剣客商売」合本の最終巻。老いて隠居したとはいえ妖怪じみた剣の腕は衰えず、野次馬根性の赴くまま事件に首を突っ込んで快刀乱麻の活躍を見せる小柄な元剣客・秋山小兵衛と、その倅で、これまた剣名高い謹厳実直な大男・秋山大治郎の親子を中心に、大治郎の妻・三冬,御用聞きの弥七とその手下の傘徳などレギュラー陣に加え、魅力的なゲストが続々と登場する娯楽時代小説。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
解題によると、初出は小説新潮1981年2月号~1989年7月号、「ないしょないしょ」は週刊新潮1987年11月19日号~1988年5月19日号。初刊は以下五冊。今はいずれも新潮文庫から文庫本が出ている。
- 剣客商売 波紋 1983年11月25日
- 剣客商売 暗殺者 1985年1月15日
- 剣客商売二十番斬り 1987年10月25日
- 剣客商売番外編 ないしょないしょ 1988年9月10日
- 剣客商売 浮沈 1989年10月25日
単行本ハードカバー縦二段組で本文約620頁。8.5ポイント28字×25行×2段×620頁=約868,000字、400字詰め原稿用紙で約2170枚、長編小説なら4~5冊分の大ボリューム。
時代小説ではあるけれど、文章のよみやすさは抜群。おまけにお話の運び方が抜群に巧いので、読み始めたら一気に引き込まれる上に、なかなか止められない。
長いシリーズで登場人物も多くなると、世界や人物の設定が込み入ってきて途中から入るのは難しそうに思えるが、この作家の場合は心配いらない。それぞれが登場するたびに、クドくない程度に人物の説明が入るので、すんなり作品世界に入っていける。特にこの巻は番外編的な位置づけの長編が収録されており、どうしても心配だったら長編から読み始めてもいい。売れる作家ってのは、新しい読者がとっつきやすくする親切な工夫が巧みだなあ。
【どんな話?】
若い頃は剣の腕で名を上げた秋山小兵衛、今は隠居して若い女房おはると共に、隠宅で静かに過ごす…つもりが、顔の広さと持ち前の野次馬根性で、何かと事件に巻き込まれ、または自ら首を突っ込んでいく。倅の秋山大治郎も修行の旅を終え、今は小さいながらも道場を持ち、少しずつ弟子も増えつつある。生真面目な大治郎だが三冬を嫁に貰った頃から思慮深くなり、今は長子の小太郎も生まれた。
その日、小兵衛は兄弟子の松崎助右衛門を訪ねようと家を出たが…
【収録作】
消えた女/波紋/剣士変貌/敵/夕紅大川橋/暗殺者(長編)/おたま/二十番斬り(長編)/ないしょないしょ(長編・番外編)/浮沈(長編)
【感想は?】
ああ、もったいない。終わってしまった。
既に隠居していた秋山小兵衛だが、この漢では少しづつ老いが忍び寄ってくる。最終巻というのもあって、中盤あたりは、やや黄昏迫る雰囲気が漂ってくる。妙に弱気になってる小兵衛が可愛くもあり、切なくもあり。まあ、設定じゃアレだから、あんまし心配はしてないんだけど。
その分、ワリを食っちゃったのが大治郎。今までは小兵衛と交代で主役を務めていたのに、この漢では、ほとんど小兵衛が出ずっぱりで主役を勤める。作品の雰囲気としては、小兵衛がしんみりした作品が多いのに対し、大治郎は明るい雰囲気の作品が多くて、その明暗がいいアクセントになっていたんだが。
などと中盤あたりまで思ってたけど、「浮沈」は小兵衛が主役ながら、やたらと明るい。というか、とってもユーモラス。最後の最後に、これを持ってくるかあ。いやあ、参りました。
出だしは、果し合いの場面。小兵衛は、弟子の滝久蔵の敵討ちの立会いとして深川千田稲荷裏の草原に赴く。仇の木村平八郎も、立会いに山崎勘助を連れてきた。滝と木村の戦いに小兵衛と山崎も助太刀する事となり、小兵衛は山崎と切りむすぶ。山崎も優れた剣客で、小兵衛と壮絶な戦いを繰り広げ…
と激しいアクションで始まる。緊張した雰囲気が、一気に崩れるのが、鰻売りの又六が小兵衛を訪ねてくる場面。老母を労わり真面目に働き、気がつけば三十路を越えた又六。誠実な人柄は小兵衛や弥七にも好かれ、「そろそろ嫁の世話を…」などと話し合っていた所にやってきた又六は…
いやあ、笑った笑った。小兵衛が又六を叱り飛ばす場面は、暫く転げまわってしまった。つか、なぜ怒る小兵衛w いいじゃん、そういう事にしといてやれば。なぜそこまで又六をいじめるw この人、絶対に面白がってる。まあ、いっか。滅多にあることじゃなし。
この作品で重要な役割を果たすのが、金貸しの平松多四郎。不細工な顔と金貸しという因業に見られがちな商売が相まって、世間からは強欲と思われている。いや不細工ってのに親しみを感じ…てなんかいないぞ、違う、違うったら。まあ、そんな風に顔で損しちゃいるが、これでも昔はれっきとした武士。だったのが、今は完全に商売人と化してる台詞が笑える。挨拶が終われば「いかほど、御用立てをいたしましょうか?」だもんなあ。楽しい人だ。
この作品集の中で私が一番好きなのは、番外編の「ないしょないしょ」。こっちは女性が主人公で、秋山小兵衛はゲスト扱い。ゲストと言っても、重要な役割を果たすんだけど。
越後新発田の神谷道場で下女として働くお福。齢は十六ながら、既に父母はなく天涯孤独の身。村人の世話で神谷道場に下女としてきたが、ある日、主人の神谷弥十郎は…
以後、お福さんは激動の運命に投げ込まれる。同じ道場に住む下男の老人の五平と共に江戸へ向かう羽目になり、なんとか見つけた奉公先が、68歳の老人である三浦平四郎。武家の隠居の見本みたいな人で、相応に腕に覚えはあるらしいが、今はのんびり日々を過ごしている。お福と三浦老人の平穏な暮らしは、今までの彼女の厳しい暮らしを思うと、「ああ、よかったねえ」としんみりしちゃうんだが、そこは長編。ここから先も山あり谷ありで…
波乱万丈の女の人生。田舎の貧農の娘が、江戸の風に揉まれ変わってゆく成長譚であり、また人と人との出会いと別れを描く人生模様でもある。じっくりと作りこまれた江戸の商家の内情も、これまた今の会社と変わらぬ派閥争いや贔屓があったりして、これまた身につまされる。
このシリーズ、もうひとつ魅力があって、それは舟。小兵衛も自家用の舟を持ち、若い女房のおはるが見事な櫂さばきを見せ、深川あたりを縦横無尽に駆け抜ける.。当事の江戸は水運が盛んだったし、東洋のヴェニスって赴きだったんだろうなあ。一般に勾配のきつい日本にあって、平坦な関東平野にあり、しかも東京湾の奥ともなれば波も穏やか。全国の藩邸もあって需要も多く、盛んに舟が行き来したことだろう。ちょっと前、荒川の再開発なんて話もあったけど、どうなったんだろう。
池波正太郎の作品は、やはり料理が大きな魅力で、読むと腹がなるのが困り物。料理といっても、あまり手の込んだものではなく、意外とあっさり作れそうなのが、これまた困る。必須なのが山椒。体重が気になる人は、決して夜遅くに読まないように。
【関連記事】
| 固定リンク
「書評:フィクション」カテゴリの記事
- ドナルド・E・ウェストレイク「さらば、シェヘラザード」国書刊行会 矢口誠訳(2020.10.29)
- 上田岳弘「ニムロッド」講談社(2020.08.16)
- イタロ・カルヴィーノ「最後に鴉がやってくる」国書刊行会 関口英子訳(2019.12.06)
- ウィリアム・ギャディス「JR」国書刊行会 木原善彦訳(2019.10.14)
- 高木彬光「成吉思汗の秘密」ハルキ文庫(2019.06.19)
コメント