フランセス・アッシュクロフト「人間はどこまで耐えられるのか」河出書房新社 矢羽野薫訳
過酷なツール・ド・フランスに参加するサイクリストは、12時間連続で上り坂を漕ぎつづける。その彼らが実験室の中では、同じペースの運動を一時間さえ続けることができず、驚いて悔しがることも多い。
【どんな本?】
ヒトはどこまで高く登れるのか。深く潜る限界は?サウナなら80℃でも大丈夫なのに、夏の暑さが耐えがたいのはなぜ?エスキモーはなぜ凍えない?なぜ高山病になるの?熱中症の適切な介護法は?船が転覆したら、どうしたらいい?スポーツは努力か才能か?宇宙空間は人体にどんな影響があるの?
オックスフォード大学生理学部教授でインシュリン分泌の第一人者が記す、人間が限界に挑戦した歴史と記録と共に、暑さ・寒さなどに対しヒトを含む生物が、どのような体のメカニズムで対処しているかを探る、愉快で楽しい科学の本。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は LIFE AT THE EXTREMES - THE SCIENCE OF SURVIVAL, by FRANCES ASHCROFT, 2000。日本語版は2002年5月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約356頁+訳者あとがき5頁。9.5ポイント46字×19行×356頁=約311,144字、400字詰め原稿用紙で約778枚。長編小説なら長め。
翻訳物の科学解説書だが、文章は比較的に読みやすい。原書のヤード・ポンド法を(たぶん)訳者がメートル法で補っているのも嬉しい。科学とはいっても特に難しい前提知識は要らない。まれに亀の甲みたいな分子式が出てくるけど、わからなければ読み飛ばしても問題ない。小学校卒業程度の理科の知識があれば、充分に読みこなせるだろう。
【構成は?】
はじめに
キリマンジャロに登る
第1章 どのくらい高く登れるのか
思い切って飛び込む
第2章 どのくらい深く潜れるのか
温泉の至福
第3章 どのくらい暑さに耐えられるのか
冷たい水のブルース
第4章 どのくらいの寒さに耐えられるのか
第5章 どのくらい速く走れるのか
第6章 宇宙では生きていけるのか
第7章 生命はどこまで耐えられるのか
謝辞/訳者あとがき
各章はそれぞれ独立していて、章の中も2~10頁程度の連続したコラムが続く形なので、気になった部分だけ拾い読みしてもいい。また、時折2頁程度の独立したコラムが入る。
【感想は?】
一見、イロモノ的な書名だが、中身は真面目な科学の本。とはいえ書名に違わず高度・深度・暑さ・寒さなどの限界の数値や、それに挑戦したエピソードはちゃんと出てくるので、ご安心を。また科学とは言っても難しい式はほとんど出てこないので、理科が苦手な人でも充分読めるだろう。一部、代謝機能の説明などでATPやグリコーゲンなどの言葉が出てくるが、面倒なら読み飛ばして結構。基本的に「楽しく読んでもらう」事を目的とした本なので、無理をすることはない。
「読者の興味を惹く」姿勢は挿話の選び方にも出ていて、例えば「第3章 どのくらいの暑さに耐えられるのか」では、トウガラシの「暑さ」を説明している。トウガラシが含むカプサイシンが「熱さ」の受容体と反応するため、だそうだ。よって体が暑いと感じて、汗が出てくる。辛さの単位はカプサイシンの量で決まり、「中辛のアマトウガラシは1熱単位で、もっと辛いハラペーニョは1000熱単位、燃えるようなハバネロウは10万熱単位」って、ハバネロすげえ。
などとイロモノもあるが、基本的には真面目な本で、例えば冒頭の第1章では高山病の歴史から原因、そして対策までを記している。最古の文書は紀元前37~32年の中国の前漢書。「古代ギリシャ人も、オリュンポス山の山頂(標高2900メートル)では息苦しくなることから、山頂は神々が住むところで人間が足を踏み入れることは許されないのだと信じていた」。山岳信仰が発生する理由の一つが、これか。
第2章では、潜水病がテーマになる。これが見つかった起源が、産業革命ってのも面白い。広い河に橋をかける際、ダイバー(潜水夫)が働くのだが、彼らが陸に上がって暫くするとバタバタと倒れたのが起源。これの原因は血管に窒素の気泡ができる事で、予防はゆっくり減圧する事なんだが、減圧にもコツがある。「気圧の絶対値の半分までは急激に減圧しても安全だが、それ以降はゆっくり慎重に減圧しなければならない」。
怖いのは、素もぐりの際の注意点。あまし深く潜ると大変。7メートルあたりから肺の空気が圧縮されて密度が高くなり、自然に沈む。あんまし深く沈むと、浮き上がるのが大変になる。
著者もダイバーらしく、ダイビングの話題も豊富。スキューバダイビングの起源が「第二次世界大戦中に施設した地雷を大戦後に除去することだった」ってのも、意外。潜水艇も扱ってて、「深海のYrr」に出てきたディープ・フライト、実在してるとは知らなかった。
スポーツやダイエットに興味がある人にも、重要な情報を含んでる。急いでダイエットする場合、大抵は汗を流して体重を落とそうとするけど、無茶すると危険。
普通は、体内の水分の3~4%が失われても体に支障はない。5~8%が失われると疲労感やめまいを覚え、10%を越えると肉体的にも精神的にもダメージを受ける。体重の15~25%以上の水分が失われると、まず命にかかわる。
仮にヒトの体の7割が水分だとして、体重50kgだと50*0.7*0.1=3.5kgを一気に落とすのは無茶、ってこと。
スポーツだと、ちょっと悲しい話も。「肉体的な能力の限界は遺伝子によって決められている」。アンギオテンシン交換酵素というタンパク質の配列を決める遺伝子があって、これで決まる。ただし、「この変化が10週間のトレーニングを終えた後に初めてあらわれた」とあるから、「ある程度までは訓練でいけて、それ以上は才能で決まる」、と解釈していいのかな?
私が最も面白かったのは、「第6章 宇宙では生きていけるのか」。アンドルー・チェイキンの「人類、月に立つ」で、宇宙飛行士たちが「宇宙服が窮屈だ、特に指先が痛い」とボヤく場面がある。あれ、ちゃんと理由があるのだ。
重力から解放された宇宙飛行士は、背が伸びる。脊椎の椎骨と椎骨のあいだにある、円盤状の軟骨が圧迫されなくなるからだ。たいていの人は1,2センチ程度だが、77歳で二回目の宇宙飛行を果たしたジョン・グレンは6センチも伸びた。
つまり、宇宙服のサイズはあっていたけど、宇宙飛行士が大きくなっていた、ってわけ。無重力の宇宙では骨がもろくなるのは有名だけど、「運動をしても地球上と同じ体力を維持したり、骨量の減少を完全に防いだりできることは証明されていない」。火星まで行けるのかしらん。
昔のアメリカの宇宙船は純粋酸素を使ってたけど、今は空気と同じ組成。ところが、宇宙服は1/3気圧の純粋酸素。気圧が違うんで、「スーツを着てすぐに船外へ出ると減圧症になりやすい」。「実際のミッションでは一般に、純粋酸素を呼吸する前に船内の気圧を下げて酸素濃度を上げる」。船外活動する際には、相応の準備時間が必要なわけ。いきなり宇宙服を着ればいいってもんじゃ、ないんだなあ。
などとヒトの話ばかりでなく、ナポレオンのロシア遠征で凍傷にかかった馬を食べた話や、砂漠に住むカエルの話、そしてお馴染みのクマムシも出てくる。船酔いを防ぐコツなど身近なお役立ち知識や、水難時の適切な対応などサバイバルな知識も満載。イロモノで気を惹いて真面目な科学に誘う、古典的だけど効果的な手法を巧く使った本だった。
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