ハインリヒ・ヒラー「セブン・イヤーズ・イン・チベット」角川文庫ソフィア 福田宏年訳
真夜中過ぎだったろうか、突然まったく思いもよらぬ道連れに出会った。一頭の熊が道の真ん中で後脚で立って、私に向かって唸っているのである。そこはガンジス川の水音が高いので、熊も私もたがいの足音に気づかなかったのである。
【どんな本?】
スキーヤーであり登山家でもあるオーストリア人の著者は、1939年にドイツのヒマラヤ登山隊(ナンガ・パルバット遠征隊)に同行するが、帰国の途中に第二次世界大戦が勃発、インドでイギリス軍に捕らえられ収容所に抑留される。収容所を脱走した著者は同盟国である日本軍との合流を目指し、ヒマラヤを越えチベット横断を図る。
当事のチベットは独立国であり、また鎖国政策により外国人の入国を認めなかった。著者は巡礼を装い、禁断の都ラサへと向かう。
ヒマラヤの麓、海抜5000mを越える高地に広がる極地の気候と美しい風景、そこに住む人々の逞しく知恵に満ちた暮らし、極寒の高地で展開する小説さながらの冒険の数々、知られざる国チベットの人と社会と文化、そして神秘のヴェールに包まれた聖都ラサの姿。
若きダライ・ラマの個人教授を務めた著者による、冒険に満ちた山岳紀行文であると共に、知られざる国チベットを知性と愛情に満ちた目で観察した、貴重な文化資料。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は SIEBEN JAHRE IN TIBET, by Heinrich Harrer, 1953。日本には1955年新潮社から「チベットの七年」として抄訳が刊行、1981年に福田宏年訳で白水社から「チベットの七年」刊行。私が読んだのは1997年11月25日初版発行の角川文庫版で、白水社版を元に著者と編集部が校正・再編集したもの。
文庫本縦一段組みで本文約456頁+「50年後のあとがき」6頁+訳者あとがき3頁。8ポイント42字×19行×456頁=約363,888字、400字詰め原稿用紙で約910枚。長編小説なら2冊分ぐらい。
1955年の作品とは思えぬほど文章は垢抜けていて読みやすい。ただし、内容の面白さにつられて採点が甘くなっている可能性は認める。
【構成は?】
(ヘラルド映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」名場面集)8頁
(著者によるモノクロ写真)8頁
まえがき
抑留されて/脱走計画/国境を越えチベットへ/至福の村/劇的な出発/最悪の旅程/禁断の都へ/魔術師の知恵/滞在許可/ラサに暮らすⅠ/ラサに暮らすⅡ/クーデター未遂/政府からの委託/幸福が終わる予感/ダライラマの個人教師/侵攻されるチベット/チベットを去る/50年後のあとがき
訳者あとがき/追記
基本的に時系列順。なお、冒頭にダライ・ラマ猊下によるメッセージ一頁を収録。
【感想は?】
雪と瓦礫に埋もれた神々の座を越え、時には役人に追われ時には盗賊に合い、貧しいながらも親切な村人や遊牧民に暖かく歓待され、たどり着いたのは黄金の都。古の文化を守る穏やかで信仰の篤い人々に囲まれ過ごす至福の日々、だがそこには黄昏が迫っていた…
と書くと、まるでお子様向けの御伽噺のようだが、本当にそういう内容なんだから困る。
この本、大きく分けて二つの部分からなっている。前半は収容所の脱走からヒマラヤを越えて聖都ラサに辿りつくまでの冒険物語、後半はラサに留まりダライ・ラマを初めとする都の人々との交流を綴った異文化観察記。しかも、どっちも興奮と驚きに満ちた傑作に仕上がっている。
冒頭の収容所脱出からインド・チベット国境を越えるまでからして、水牛の小便は飲むは熊に出くわすわの大活劇。しかもイギリス軍に追われ人目をはばかりながらの脱出行が、海抜5000メートルの高地で繰り広げられる。冬の寒さは厳しいが、夏の日差しは強い。地図を見れば判るが、緯度はエジプトのカイロとほぼ同じ。冬は寒く、夏は厳しい、とんでもない所だ。
空気は乾燥し、下手をするとマッチが暴発する。零下30度以下で風が吹きすさぶ山地を行く冒険の道行き、欧州製の軽いテントは風に飛ばされがち。「重いヤクの毛皮のテントが欲しいなあ」などとボヤき、谷では蛭に襲われながらも、キャラバンの後を辿り東へと進む。
そんな所にも人は住み、ヒマラヤを越えて交易している。「チベット人は例外なく、金持ちも貧乏人も、生まれついての商人」で、「貴族や商人たちが、母国語のほかに蒙古語、中国語、ネパール語、ヒンディ語を話すのは、珍しいことではない」。
インドとの国境に近い西チベットでは遊牧民が多いらしく、テント生活が中心。著者はここでチベット語を学びつつ、彼らの生活に入ってゆく。鎖国政策を取るチベット国の方針で「外国人と接触してはならん」とお触れが出ていて、著者らを見ては逃げ出す者も多いが、元来人懐っこい人々なのか、遊牧民などは気持ちよく迎え入れたりする。
ネズミ・南京虫・蚤と戦いながらツァンパ(→Wikipedia)とバター茶に慣れてゆく著者たち。いずれも本書内にレシピが載ってます。農民はこれが主食だが、遊牧民は「冬はほとんど肉料理ばかり」「健康な本能によって、冬の寒気に耐えるのに必要な栄養を摂取するすべを心得ている」。意外な事に、主な輸出品目は塩。塩湖があるのだ。
ハッタリかまして役人に取り入り滞在許可を貰った村では親しく村人と付き合いつつ、「スキーしたいなあ、ピクニックに行きたいなあ、あそこに見えるはエベレストじゃないか」などと同行のアウフシュタイナーと話し合う。、あれだけ山で苦労したのに、どんだけ山が好きなんだこの人。
怖いのは山ばかりではない。なにせ人気がまばらなこの地域、山賊カムパだって出る。間違ってカムパのアジトに彷徨いこんだ著者たち、はたして…
などという生死の境をさまよい続ける前半の冒険物語も面白いが、やっとたどり着いた幻の都ラサを描く後半も負けず劣らずの面白さ。ここで光るのが、著者の絶妙な距離感。元々が信仰篤いチベットの人々で、しかも場所が聖都。郷に入れば郷に従えで、友として多くの人と親しく交わり、彼らの信仰には敬意を払いながらも、迷信は迷信として冷静に記述している。
ここで描かれるチベットの社会もまた、貴重な文化資料。僧侶が君臨する絶対的な宗教国家であり、貴族が土地を支配する封建制国家でもある。医療は呪術であり、車輪すらない。だが交易は盛んな様子で、ネパールやインドとは関係が深い模様。先代のダライ・ラマは先進の気鋭に富み、ジープも輸入した。
終盤では猊下との交流が暖かい筆致で描かれる。若いながらも気品はあり、また知識欲にも富む。活仏として厳しい規範を誠実に守りつつも、実は機械いじりが大好き。家庭教師の著者には間断なく質問を浴びせ、世界の情勢を知りたがる。
殺生を好まぬチベット人は、茶の中に飛び込んだ虫すら救おうとする。遊びだってある。麻雀が輸入された時は夢中になりすぎて禁止令が出た。スポーツ大会のようなものもあり、重量挙げや騎馬競技のほかに、相撲に似た競技もある。面白いのが僧侶の性生活。
厳しい禁欲生活を送り、婦人との接触は一切遠ざけていたからである。しかし同性愛はよく見受けられる現象で、むしろ、その人の生活が女性と関わりのないことの何よりの証拠として、歓迎すべきことと見られていた。
いやはや、お国柄って、それぞれだなあ。
暖かい歓待に対し、多少なりとも国の発展に貢献することで応えようとする著者とアウフシュタイナー。だが知の源泉を握り絶対的な権力を誇る僧侶たちとの調整は難しい。
とかやってるうちに、中原では人民解放軍が支配権を確立し、チベットへと軍靴を進めてくる。鎖国政策を取ってきたため他国との交流もなく、孤立無縁なチベットは窮地に立たされ…
と、最後の場面では、ファンタジーの世界に容赦なく現実が踏み込んでくる、そんな印象で終わった。生臭い国際政治という視点で読んでもよいが、極地での冒険物語として、またそこの住む人々の見聞記としても逸品。暖かい目で人々を見守りつつ、冷静な観察眼でレシピや生活リズム、そして文化や社会制度を細かく記録した、楽しくて貴重な紀行文。
ちなみに、同じ頃、日本人もチベットに潜伏していたりする。西川十三「秘境西域八年の潜行」がソレで、こっちはやや胡散臭い人物が僧侶に化け、ちょうどハラーと逆方向からチベットに潜入する話。こちらは貧乏ラマ層としての生活感溢れる描写が生々しく、また著者のふてぶてしい逞しさが楽しい作品だった。今は抄しか出ていないのが残念。
【関連記事】
| 固定リンク
「書評:歴史/地理」カテゴリの記事
- ドミニク・フリスビー「税金の世界史」河出書房新社 中島由華訳(2023.04.27)
- ライアン・ノース「ゼロからつくる科学文明 タイム・トラベラーのためのサバイバルガイド」早川書房 吉田三知世訳(2023.03.16)
- ジェイムズ・クリック「インフォメーション 情報技術の人類史」新潮社 楡井浩一訳(2022.12.15)
- ローランド・エノス「『木』から辿る人類史 ヒトの進化と繁栄の秘密に迫る」NHK出版 水谷淳訳(2022.11.21)
- アイニッサ・ラミレズ「発明は改造する、人類を。」柏書房 安部恵子訳(2022.07.19)
コメント