ハーマン・ウォーク「ケイン号の叛乱」フジ出版社 新庄哲夫訳
「…海軍とは天才が立案して愚者が実行する一大計画なのだ。君が愚者ではなく、しかも海軍にいる以上、要領よくやっていくには愚者の真似をするほかに手はない。たとえ、君の本来の知性がもっと近道をしたらどうか、簡素化して常識どおりにやったらいいじゃないかといったところで、そいつは全然、通用しっこないんだ」
【どんな本?】
時は太平洋戦争、合衆国海軍の老朽駆逐艦ケイン号を舞台とした群像劇で、1952年にピュリッツアー賞小説部門を受賞、1954年には映画化されこれも大ヒット、55年のアカデミー賞では作品賞などをさらった。著者は太平洋戦争において合衆国海軍の掃海駆逐艦で副長を務めた経験を持つ。
裕福なWASP青年ウィリー・キース&貧しいイタリア系の娘メイ・ウィンとの恋と、無能な艦長により危機に瀕するケイン号を軸に、当事の合衆国海軍の内情を予備新任士官の視点でリアルに描く。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Caine Mutiny, by Herman Wouk, 1951。日本語版は1953年に光文社より出版、後に改訳版・文庫版がでたが絶版。1970年8月25日にフジ出版社より単行本で復活、私が読んだのは1984年8月20日の新装版。その後、ハヤカワ文庫NVから文庫版が全三巻で出ている。
単行本ハードカバー縦二段組み本文約595頁+訳者による解説10頁+新装版あとがき5頁。8ポイント27字×24行×2段×595頁=771,120字、400字詰め原稿用紙で約1,928枚。そこらの長編小説なら4冊分の大ボリューム。重さも780gと迫力バッチリ。さすがに53年の翻訳なので文体はやや古臭いが、文章そのものは比較的に素直。
なお、訳者による解説は大胆なネタばらしを含むので、要注意。
【どんな話?】
ブリンストン大学を卒業したウィリー・キースは、陸軍の徴兵を避けるため1942年に予備海軍士官学校に入る。余技にピアノを弾くキースは、クラブで出会った歌手のメイ・ウィンと恋に落ちる。席次こそ上位なものの、幾つかの失敗で同期中最悪の失点で任官を迎えたキースは、ケイン号勤務となった。
キースが着任したケイン号は、第一次大戦の古参兵で、スクラップ寸前の掃海駆逐艦だった。艦内は散らばり放題で悪臭が充満し、水兵はだらしない格好で悪態をついている。艦長のド・ブリース少佐ときたら入浴中だったらしく、泡だらけの素っ裸で着任の挨拶を受ける始末だが、6年近く同艦に乗艦しているベテランだ。慌しい改装中らしく、やっと見つけた寝床はなんと装弾庫。始終錆おとしの音がガンガンと響き、室温は40℃を越える。
【感想は?】
物語は、合衆国海軍の新任士官ウィリー・キースの目を通して語られる。そこで見える駆逐艦(というか掃海艇)内の細かいエピソードに、著者の経験が大きく生きていいる。冒頭は着任したキースが、先任の仕官トム・キーファに言われる台詞。教育レベルの差が大きく、マニュアル大好きなアメリカ社会を「天才が立案して愚者が実行する」と簡潔に表現している。
着任当初は次々と発せられる命令と、それに従って動く乗務員の様子を「何がなんだか見当もつかない」と戸惑っていたキースが、次第に各作業の意味を把握して艦全体のシステムを理解していく模様は、働いた事がある人なら、誰でも経験したことがあるだろう。その職だけで通用する俗語にまみれた会話が、少しづつ意味がわかってくる。何のためにするのか訳がわからない作業が、実は意味のある工程だとのみこめる、あの感覚。
お坊ちゃん育ちのキースは、まるで海賊のようなケイン号に驚き、続いて同期を尋ねて他艦を訪れた際、あまりに整然とした艦内に再び驚く。艦長によって艦内の雰囲気が一変する、海軍文化の一端が垣間見える。これは、やがてド・ブリースの異動とフィリップ・F・クイーグ少佐の着任で、キース自身が否応なしに体感してゆく。
このクイーグ艦長の造形こそ、この作品のキモだろう。やたらと細かい事に拘る規則一点張りのガミガミ屋で、ド・ブリースの元でたるみきった艦内を引き締めようとするが…。ド・ブリースとクイーグの交代の際に交わされる会話は、転勤の多い月給取りなら、なかなか身に染みる。
エリートの清潔な生活に慣れたキースは、キチンとした艦を目指すクイーグを最初は好意的に見るが…。スチルウェルがクイーグに目をつけられる場面も、やはり異動の多い組織に勤める者なら、誰もが自分の経験を思い出して「うへえ」となるだろう。いるんだよね、そーゆー奴。ま、あまし思い出に浸るとロクな事がないのでホドホドにしておこう。ケーイ!
物語全体を通し、「権威をカサに着て威張り散らす」悪役として描かれるクイーグ。そんなクイーグが率いる合衆国海軍とは、どんな組織か。
その中には、おそらく十人に一名の船乗りすらいなかったろう。大学生、セールスマン、学校教師、弁護士、会社員、小説家、薬剤師、技師、農夫、ピアノひき……彼らこそ、ネルソン艦隊の熟練した士官たちを顔色なからしめた若者だった。
みなさん、キース同様、徴兵でいきなり引っ張られた若者だ。ま、それは敵の帝国海軍も同じなんだけど、それは置いて。これはまた、アメリカという国の縮図でもある。ウィリーの父曰く。
われわれのこの国は結局、メイ・フラワー号でやってきた祖先たちとともに、開拓者や新しくやってきたポーランド人、イタリア人、ユダヤ人の移民たちから形づくられている。みんな、古い世界から立ち上がって外へ出てゆき、新世界でよりよい生活を築こうと意気に燃えた人たちだった。
いけすかない艦長を出し抜こうと奮闘する、乗員たちの涙ぐましい工夫もまた楽しい。アレコレとイチャモンのタネを見つけるクイーグも相当なものだが、彼の給水禁止を水兵が出し抜く場面は、まさしく泣き笑い。それに対する副長マリックの大人の対応も、実に見事。
ケイン号は太平洋での勤務の傍ら、補給や事務連絡などで方々の艦と接触する。ここで描かれる、艦の種類ごとの勤務内容の違いや、通信担当となったキースが覚える「手抜き」のテクなどは、著者の従軍経験が活きているんだろう、実に生き生きして楽しい。軍に限らず、組織で働くには融通って大事だよね。
物語の終盤は、法廷劇となる。ここで登場するユダヤ人弁護士グルーンウォルドが、なかなかの曲者。絶体絶命の危機で脂汗たらたらの彼らに対し、涼しい顔をしたグリーンウォルドは何を考えているのか。そして、評決が出た後のグリーンウォルドの演説も、急な開戦で膨れ上がった当事の合衆国海軍の問題点を、そして当事の世界情勢の中でアメリカが果たした役割を、皮肉な視点で描き出す。
軍隊物ではあるが、戦闘シーンは少なく、多くの場面は艦内の人間関係に費やされる。そこで展開される指揮官と部下のドラマは、組織で仕事をする人なら、誰もが経験する理不尽さに満ちてる。特に人事異動の激しい組織で働く人なら、様々な立場で共感できる場面が多い。そして昇進し立場が変わると、別の場面で共感するだろう。
合衆国海軍をモデルに、組織を、そしてアメリカという国家そのものを描いたボリューム満点の長大なドラマ。腰を据えてじっくり読もう。
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