宇沢弘文「自動車の社会的費用」岩波新書B47
本書は、自動車の社会的費用と言う問題について、主として経済学的な側面からの分析を試みるものであるが、(略)経済学者の間で一つの共有財産となっている考え方を紹介するという性格のものではない。むしろ、自動車の社会的費用という問題を通じて、現代経済学の理論的前提にどのような問題点が存在し、どのような修正が必要とされているのか、ということを考えてゆこうとするものである。
【どんな本?】
昭和の日本の高度成長は、自動車産業に牽引された側面がある。自動車だけでなく、その便宜を図るために建設された道路網も、多くの労働者に仕事を提供した。反面、当時は「交通戦争」と言われるほど交通事故が多発し、また光化学スモッグなどの公害も生み出した。
交通事故や公害などを、自動車が抱える社会的費用として算出し、適切な費用負担を求める過程を通じて、現代経済学の主流である新古典派が暗黙の前提として規定している条件に疑問を呈し、より効率的な配分・市民の基本的権利を守った形での社会のあり方を模索する。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
1974年6月20日第1刷発行。私が読んだのは1992年11月5日発行の第20冊。定番として着実に版を重ねてます。新書版で縦一段組み、本文約176頁。9ポイント41字×14行×176頁=約101,024字、400字詰め原稿用紙で約253枚。小説なら中篇の分量。
分量は少なく、題材も身近な自動車に例をとり、一見親しみやすげ。だが日本語としては音読みの漢字が並んだり二重否定が出てきたりで、意外と堅い。特に本書のテーマの核となる経済学の理論を語る部分で、興が乗ったのか学者的な文体になるのが辛い。反面、経済学の説明の内容そのものは、素人の読者を想定し丁寧に説明しているので、一部を除きじっくり読めば理解できる。
【構成は?】
まえがき
序章
Ⅰ 自動車の普及
Ⅱ 日本における自動車
Ⅲ 自動車の社会的費用
Ⅳ おわりに
あとがき
【感想は?】
35年前の新書なので、多少は時流に会わない部分もある。まずは当事の時代背景を把握しよう。時事ドットコムの【図解・社会】交通事故死者数の推移(最新)をご覧いただきたい。1948年以降、交通事故死者数は上昇を続け、1970年あたりでピークに達している。
減少に転じた理由は幾つかある。交通事故の増加は「交通戦争」などと呼ばれ社会問題となり、社会の関心が高まり交通事故防止に向け官民共に対策を講じたこと、歩道の確保など安全面に配慮したインフラの整備が始まったこと、自動車も安全性に配慮した設計がなされ始めたことなど。
また当時は自動車の排気ガス規制もなく、交通の激しい都市部では夏ともなると光化学スモッグが日常的に発生し、ラウドスピーカーの町内連絡が光化学スモッグ警報をアナウンスしていた。今思えば、かなりデンジャラスな時代だったよなあ。
じゃ現在はどうかというと、それでも2011年の交通事故で4611人が亡くなっている。自転車で幹線道路を走ると、路側帯を違法駐車が占拠し、ちょっとしたスリルを味わえる。昔の道路は缶ケリなどの遊び場だったが、今は缶を置いても走る自動車に倒されてしまう。そりゃゲーム機が流行るわけだ。
こういった交通事故・公害、そして奪われる遊び場や、自家用車の普及に伴い衰退する路面電車などを、本書では「社会的費用」として算出しようと試みる。が、その前に。現在、そういった社会的費用を負担しているのは、誰なのか。この目の付け所に筆者の姿勢が現れている。
交通事故で亡くなる者の多くは、歩行者だ。豊かな人は、光化学スモッグに毒される都市から、郊外へ脱出できる。ええトコのお坊ちゃんは滅多に路上で遊ばない。そして、路面電車に乗るのは、自家用車を持たない人たちだ。つまり、貧しく弱い立場の人が、自動車の社会的費用を負担しているのだ、と著者は主張する。自転車乗りの一人として、この意見には強く賛同したい。
経済学者だけあって、随所に数字が出てくる。モータリゼーションといえばアメリカが思い浮かぶが、意外と(当事の)日本が飛びぬけている数字がある。単位面積あたりの自動車台数だ。1972年の数字で、可住面積1平方kmあたりの自動車保有台数が、アメリカ26台・イギリス120台・西ドイツ102台に対し、日本は約200台。「とくに、東京については1500台、大阪については900台」って、そりゃ渋滞も起きるよ。
自動車国家アメリカでも、特に自動車依存が強いロスアンゼルス。「都市面積の25%が道路、25%が駐車場」ってのが凄い。これは都市計画のせいもあって、自動車が増える→渋滞する→道路を拡張する→便利なので自動車の利用が増える、ってな感じの悪循環に陥るとか。
これに対し、著者はロンドンの例などで案を示す。道路沿いの一時的駐車場8800箇所を全廃して緑化し、駐車場の新規建設を認めない。対策については、松浦晋也「のりもの進化論」がワクワクするような案を多数示していて、なかなか面白かった…というか、ソッチで薦められてこの本を読んだんだけど。
経済学の話では、「資本主義では放置すると自然と貧富の差が拡大する」という現象と、そのメカニズムの説明がわかりやすく、かつゾッとさせられる。いや私も貧乏人だし。つまり、貧乏人は、収入の大半が生き延びるための最低限の出費=消費に消えるので、貯蓄や投資に回せない。ずっとカツカツのまま。でも余裕がある人は貯蓄や投資に回せるんで、更に余裕が増える。
かといって貧乏人に金をバラまけばいいかというと、実はロクなことにならない。貧乏人は消費財を買う。需要が増えれば価格が上がる。消費財は値上がりし、貧乏人の生活は更に苦しくなる。バラまき政策が巧くいかない理由が、これ。
読んでて時代を感じるのが、自由貿易の例としてGATTが出てくる所。「公害発生型産業の製品を輸出して、環境保全型産業の製品を輸出しているときには、一般に経済厚生が低下する」って、今の日本は当時と立場が逆になってる部分があるんだよなあ。
経済学のように、マクロなモノゴトを数値化する場合は、とりあえず細部を無視したモデルを考えて理論を構築する。そうしないと、複雑すぎて扱えないからだ。ただ、それを現実に当てはめると、理論と現実のギャップが生じる。そして、大抵の場合、ギャップのツケは弱者に回る。
新古典派が前提とする市場の流動性や個人の合理性に対し、普通の人も漠然とした違和感を感じているだろう。本書に出てくる自動車の社会的費用の試算額は、試算者の立場により、それこそ桁が違う試算額が出てくる。経済学が抱える政治的な側面が、つくづく実感できる。
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