« ウィリー・ハンセン,ジャン・フレネ「細菌と人類 終わりなき攻防の歴史」中公文庫 渡辺格訳 | トップページ | 豊崎由美「ニッポンの書評」光文社新書515 »

2012年9月27日 (木)

トルーマン・カポーティ「ティファニーで朝食を」新潮社 村上春樹訳

「…この子とはある日、川べりで巡り会ったの。私たちはお互い誰のものでもない、独立した人格なわけ。私もこの子も。自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの。そういう場所がどこにあるのか、今のところまだわからない。でもそれがどんなところだかはちゃんとわかってる」  ――ティファニーで朝食を

【どんな本?】

 1924年生まれのアメリカの人気作家トルーマン・カポーティによる1958年の中・短編集。第二次世界大戦時のニューヨークを舞台に、奔放な生き様で周囲を翻弄する若い女性ホリー・ゴライトリーを描き、すぐにオードリー・ヘップバーン主演で映画化され、今なお愛される中篇「ティファニーで朝食を」に加え、3編の短編を収録。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は BREAKFAST AT TIFFANY'S by Truman Capote, 1958。日本語版は1960年に新潮社から龍口直太郎訳で単行本が出版、その後文庫本が出て、2008年2月25日に村上春樹訳で改訂版発行。今は新潮文庫から文庫本(村上春樹訳)が出ている。単行本ソフトカバーで縦一段組み、本文約205頁+訳者あとがき13頁。9.5ポイント45字×17行×205頁=約156,825字、400字詰め原稿用紙で約393枚。短めの長編小説の分量。

 普段の村上節はやや控えめながら、それでも文章には彼のセンスがにじみ出ていて、翻訳物の小説としてはかなり読みやすい。1978年発行の龍口直太郎訳の新潮文庫版と比べると、私は読みやすさ・センス共に村上版の方が圧倒的にいいと思う。ちょっと「ティファニーで朝食を」の頭の数行を引用してみる。

龍口直太郎訳
 私はいつでも自分の住んだことのある場所――つまり、そういう家とか、その家の近所とかに心ひかれるのである。たとえば、東70丁目にある褐色砂岩でつくった建物であるが、そこに私はこんどの戦争の初めの頃、ニューヨークにおける最初の私の部屋を持った。
村上春樹訳
 以前暮らしていた場所のことを、何かにつけふと思い出す。どんな家に住んでいたか、近所にどんなものがあったか、そんなことを。たとえばニューヨークに出てきて最初に僕が住んだのは、イーストサイド72丁目あたりにあるおなじみのブラウンストーンの建物だった。戦争が始まってまだ間もない頃だ。

 龍口版だと一人称が「私」で、最初の文は「…である」で締めている。この冒頭で、どんな語り手を思い浮かべるだろう?少々歳のいった、お堅い職業の男性だろう。村上訳の一人称は「僕」で、もっと若い男性を意識させる。

 物語の形式は、30代の男性作家による、20代でデビュー直前の頃の思い出話だ。当事のカポーティーは充分に成功していたから、語り手として「私」も悪くないけど、実際の文章の大半は20代の若者の視点で語られる。まだ一作も売れていない作家志望青年の一人称としては、やっぱり「僕」がハマってると思う。

【収録作は?】

ティファニーで朝食を / Breakfast ai Tiffany's
 バーを経営する昔の友人のジョー・ベルから連絡を受け、僕は彼のバーに行った。要件は、写真家のI・Y・ユニオシ氏がアフリカで撮影した写真。写っている木彫りの彫像は、ホリーそっくりだ。モデルの女性は二人の男と旅行でその村に泊まり、去っていった。
 ニューヨークで一人暮らしを始めた作家志望の僕が住むアパートに、ホリーも住んでいた。彼女はいつも鍵をなくしては、上の階に住むユニオシさんを叩き起こしていたが、彼の苦情が効いたのか、今度は僕にお鉢が回ってきた。郵便受けには「ミス・ホリー・ゴライトリー、旅行中」とある。以来、僕の生活と心は彼女に振り回され…

 本書205頁中134頁を占める中篇。感想は長くなるので後述。
花盛りの家 / Home of Flowers
 ポルトー・フランスの娼館で働くオティリーは売れっ子だった。幼くして親を亡くした彼女は、粗野な農民に養われたが、14の時にポルトー・フランスにやってきて、そのまま娼館に居ついた。田舎育ちの彼女は娼館の暮らしが気に入り、同僚のベイビーやロシータと楽しく暮らしていた。そんな彼女の悩みは…

 悲惨な生い立ちの田舎娘が騙され娼館に売られ…ってな出だしながら、肝心のヒロインのオティリーがあまりに能天気に明るいんで、悲惨な雰囲気が全くなく、南国らしい気楽さに溢れている。その後の展開も日本の東北が舞台なら辛気臭い話に行きそうな所を、彼女は天然で跳ね返す。ボナパルトばあさんとの対決は大いに笑った。うぬん、そういう返しもアリだよね。
ダイアモンドのギター / A Diamond Guitar
 大柄で字も読め機転も利くミスタ・シェーファーは、囚人農場で厳しい懲役に従事する仲間の囚人たちから一目置かれている。既に刑期も17年を数え歳も50を過ぎたシェーファーが小遣い稼ぎの人形を作っていた時、新入りのティコ・フェオが入ってきた。若いティコは模造ダイアをちりばめたギターを持ち込み、陽気に歌った。シェーファーはティコを可愛がり…

 長い刑期ですっかり俗世を忘れ囚人生活に適応し、また囚人や看守たちからも相応の敬意を払われる立場のミスタ・シェーファーが、若く俗っ気たっぷりのティコに感化され、それを自覚して怯える様子が可愛い。どんな環境であろうと、適応しちゃうとねえ。
クリスマスの思い出 / A Christmas Memory
 「フルーツケーキの季節が来たよ!」11月も末が迫ってくると、7歳の僕はバディーの声で起こされる。バディーは60過ぎだけど、大家族で暮らす他の大人たちと違い、偉ぶらずに僕に接してくれる。うん、彼女は僕の親友なんだ。その日から、僕とバディーはフルーツケーキ作りにてんてこまい。なんたって、30個も作るんだから。

 古き良きアメリカの田舎の、大家族の暮らしを描いた短編。クリスマスを前に、フルーツケーキ作りに奮闘する少年とおばあちゃんの物語。材料は近所で買う物もあれば、近くの森や果樹園で拾ってきたりもする。野趣溢れる田舎の生活も楽しいし、歳とっても子供と同じ目線で人生を楽しむバディーも愛しい。方向性こそ全く違うけど、女性版ブラッドベリとでも言うか。
 売れっ子の小説家なら、よく質問されるだろう。「なぜあなたはあんなに面白く物語を綴れるのですか?どうやって鍛えたのですか?」と。これは、その質問への回答なのかもしれない。

【ティファニーで朝食を】

 若い作家志望の青年が一人暮らしを始め、奔放な娘ホリー・ゴライトリーに振り回される話。定職に就かず、多くの男をはべらせ、ハリウッドのスカウトをあっさり棒に振る。気ままで怖いもの知らず、「いつだって自分のことは自分でちゃあんとやってきた」と独立心旺盛。そう、まるで猫のような女の子。

 彼女の魅力に憑かれ、多くの男たちが集まってくる。例えばハリウッドで彼女をスカウトしたO・J・バーマン。せっかくのチャンスを棒に振られ、その事を恨みに思っちゃいるが、それでも彼女に未練たらたらで、彼女のいない所では「あたしはあの子のことが心底好きなんだよ」と典型的なツンデレぶり。それも男女の関係というより、父性愛的な方向で。

 好き勝手に生きているようで、安住の地を求めてもいる。ただ、今はまだ見つからないだけ。それまで、親友の猫には名前をつけない。自分が自分でいられる場所を求め、他の者に縛られる事を嫌う。

 うん、魅力的なヒロインだよね。気まぐれで猫みたいな若い女性。でも、少し痛々しい。それがまた、男たちの保護欲をそそる。「僕」、バーマン、そしてジョー・ベルも。終盤で見せる彼のツンデレは、もはや究極。オッサンのツンデレもいいもんだね。

 一般に野生動物の寿命はペットの半分程度と見られている。野性のように自由に生きようとする彼女を、周囲の男たちはハラハラしながら見守る。でも、誰も彼女に首輪をつけられない。なんとか捕まえようとしても、スルリと逃げられてしまう。

 などと女性を飼い猫に例えるのは失礼かも、と思って、彼女の男版を考えると、木枯らし紋次郎みたいな旅烏に思い至る。アメリカだと Allman Brothers Band の Ramblin' Man(→Youtube)、または Lynyrd Skynyrd の FreeBird(→Youtube)と、だいぶ明るく開放的な雰囲気になる。女性だとカルメン・マキ&OZの「私は風」かな。なんで放浪者の歌って、長いのが多いんだろう。

 旅に暮らすのは男の憧れ。そりゃ寂しかろうけど、鳥みたいに自由にアチコチに行ってみたい、そう憧れる月給取りは多いだろう。気ままな鳥や猫に惚れちまったら、どうすりゃいいのか。無理矢理飼えば長生きさせられるだろうけど、それが鳥や猫にとって幸福なのかどうか。

 旅はシンドイけど、不安定で危険も多いけど、それが彼女の生き方なら、見守るのが精一杯なのかもしれない。…というのが、普通の解釈。でも、全部読み終えると、また別の解釈もできて。こっちはネタバレありなので、末尾に。

【関連記事】

【ティファニーで朝食を 要注意!ネタバレあり】

 以下の文章は、根本的なネタバレを含むので、そのつもりで。

 ホリー・ゴライトリーとは何者か、というのが、この作品の解釈のキモ。自由気ままに生きているようで、その実、安住の地を探している。それは冒頭の引用でも明らか。つまり彼女は安住しないのではなく、できないのだ、というのが、私の解釈。好きで自由でいるわけじゃない。自分を野生動物に例えた後、野生動物の生き方を、彼女自身がこう語っている。

「空を見上げている方が、空の上で暮らすよりはずっといいのよ。空なんてただからっぽで、だだっ広いだけ。そこは雷鳴がとどろき、ものごとが消えうせていく場所なの」

 本当は、彼女も地に足をつけた生活がしたいのだ。だから、ホセ・イバラ=イェーガーとの話がまとまりそうになると、彼女なりに定住の準備を始める。そこが安住の地であると、自分に思い込ませようとする。

 なぜ安住できないのか。その鍵は、彼女の生い立ち。つまり、今で言うところのアダルトチルドレンではないか、と私は思っている。いやドク・ゴライトリーの事じゃない。それ以前の話。

 幼くして大人にならなきゃいけなかった人間。それは、ドク登場以前にガリ勉のミルドレッド・グロスマンとの対比で「僕」が見抜いている。

我々の大方はしょっちゅう人格を作り直す。(略)我々が変化を遂げていくのは自然なことなのだ。ところがここに、何があろうと断じて変化しようとしない二人の人物がいる。ミルドレッド・グロスマンとホリー・ゴライトリーの二人だ。(略)彼女たちが変化しようとしないのは、彼女たちの人格があまりにも早い時期に定められてしまったためだ。

 幼い頃から野生動物のように生きなければならなかったホリー。そして今でも全てを失う不安を抱えて生きている。万引きの後、彼女は語る。「今でもちょくちょくやってる。腕を錆びつかせないために」。不安を抱える反面、全てを失っても生きていける、という自信もある。身一つこそ、彼女の世界なのだから。

 浮浪児に世間の目は冷たい。だから悪意・敵意には敏感になる。「僕」に背を向けながらも、ホリーは「僕」の怒りを感じ取る。「あなたはさっきそうしたいと思ったでしょう。手の感じでわかるのよ」。

 反面、好意・厚意は理解できない。ドクの家の居心地が悪いのは、そのため。だから飛び出した。慣れたジャングルで、ルールが分かってる冷たい他人の世界で暮らすために。バーマンや「僕」の想いも、彼女には戸惑いしか与えない。でも、庇護者を求めている。だから、年配者に惹かれてしまう。ファザコンというマグ・ワイルドウッドの指摘は、ある意味あたってる。ただ、それは実在の人物ではなく、彼女の心が理想として求める父親像。

 全ての人間を、社会を彼女は信じきれない。地に足をつけたいと願う、でも他の人のように彼女は地が確たるものには思えない。どうせどっちも不安定なら、空の方が気分がいい。だから彼女は飛ぶ。

 安定が欲しい、地に足をつけたい、でもどこにも安住の地は見つからない。溜まったストレスが、「いやったらしいアカ」として噴出する。そう、青じゃない、赤なのだ。それは、怒りの色だ。敵意の中で生きてきた彼女が、世界に対し根底に持つ感情の色。

 アダルトチルドレンが人と親しくなる際、相手を「試す」。敢えて失礼な行動をして、相手が怒るかどうか、許容度がどれぐらいか、試すのだ。ユニオシは失格した。バーマンも怒った。「僕」も怒ってしまった。それが普通だ。怒りは一時的なものだ。だから三人とも彼女への厚意は続いている。でも、彼女は三人に信頼を置けない。大切な絆があるのに、それに気づくのは手遅れになってから。

「私がいなくなって淋しがってくれる人なんて、どこにもいやしない。一人の友達もいないんだもの」

「ついにこんなことになってしまった。いつまでたっても同じことの繰り返し。終わることのない繰り返し。何かを捨てちまってから、それが自分にとってなくてはならないものだったとわかるんだ」

 彼女が人を信じられれば、彼女は安住の地を手に入れられる。でもアメリカはだめ、アメリカは信じられない、幼いホリーを放り出した国だから。そして彼女はメキシコやブラジルに憧れる。そこなら、こことは違うどこかなら、人を信じられるかもしれない。

 だから、ホリーは旅に出る。安住の地を探して。こことは違うどこかを求めて。

 …ま、こんな解釈じゃ、映画は当たらないよね。結末を変えたのは正解でしょう。やっぱり可愛いオードリーにはハッピーエンドが似合うし…って、実は映画は観てないけど。

 実は小説世界じゃホリーの血は脈々と受け継がれ、21世紀の日本にも転生してたりする。なんでも神戸の高校に通ってて、こう名乗ってるそうな。「涼宮ハルヒ」と。

|

« ウィリー・ハンセン,ジャン・フレネ「細菌と人類 終わりなき攻防の歴史」中公文庫 渡辺格訳 | トップページ | 豊崎由美「ニッポンの書評」光文社新書515 »

書評:フィクション」カテゴリの記事

コメント

土竜男爵さん、ご指摘に感謝します。本文に反映させていただきます。

投稿: ちくわぶ | 2012年10月14日 (日) 20時24分

ちくわぶさん、こんにちは。
「ティファニーで朝食を」の紹介、楽しく読ませてもらいました。なお、龍口直太郎さんの翻訳本が最初に出たのは、1960年(昭和35年)でした。翻訳はその頃の雰囲気が残ったものですね。

投稿: 土竜男爵 | 2012年10月14日 (日) 15時48分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: トルーマン・カポーティ「ティファニーで朝食を」新潮社 村上春樹訳:

« ウィリー・ハンセン,ジャン・フレネ「細菌と人類 終わりなき攻防の歴史」中公文庫 渡辺格訳 | トップページ | 豊崎由美「ニッポンの書評」光文社新書515 »