ビー・ウィルソン「食品偽装の歴史」白水社 高儀進訳
自分が買ったサフランが本物かどうかを知る簡単なテスト法がある。科学的な技術は必要でない。サフランを一撮み、湯を入れたコップに入れる。黒っぽい色が拡散するのに数分かかれば、それは本物である。だが、すぐに湯が黄色くなれば、それは偽物で、騙されたのだ。
【どんな本?】
ワインに鉛を混ぜ味を誤魔化す・チコリーでコーヒーの嵩を増やす・菓子を銅と緑青で色付けするなど、消費者を危険に晒す偽装食品を製造・販売する業者と、それを化学・顕微鏡・果てはDNA鑑定までを使って暴こうとする科学者や報道機関の戦いの歴史を綴ると共に、マーガリンのような「代用」食品や現代の化学調味料・合成着色料など偽装に該当するかが微妙な事例を挙げ「偽装」の概念を問い直し、フランスの原産地呼称統制によるローヌ産ワインなどの保護政策を紹介して食品偽装対策の未来を探る。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Swindled, by Bee Wilson, 2008。日本語訳は2009年7月20日発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約400頁+訳者あとがき4頁。9ポイント45字×20行×400頁=360,000字、400字詰め原稿用紙で約900枚。長編小説なら2冊分ぐらいの分量。
文章は翻訳物のノンフクションとしては標準的な読みやすさ。硼酸など所々に化学物質の名前が出てくるが、中学二年生程度の理科の知識があれば充分だろう。それより、主な舞台がイギリスとアメリカであるためか、単位がヤード・ポンド法である点と、ナツメグやチコリーなど馴染みのない食品が出てくるのが敢えて言えば難点。
【構成は?】
序
第一章 ドイツのハムと英国のピクルス
第二章 一壺のワイン、一塊のパン
第三章 政府製マスタード
第四章 ピンクのマーガリンと純正ケチャップ
第五章 紛い鵞鳥の仔とペアナナ
第六章 バスマティ米と乳幼児用ミルク
エピローグ 21世紀における混ぜ物工作
訳者あとがき/参考書目/原注
【感想は?】
食品偽装を防ぐには、政府の強力な介入が必要で、責任は買い手(消費者)ではなく売り手(企業)に負担させよ、と著者は主張している。大きな政府を求める社会主義的な思想であり、小さな政府を求めるリバタリアンとは対照的な立場だ。まあ日本じゃリバタリアニズムはあまり流行っていないし、食品の安全性には敏感だから、反発を感じる人は少ないだろう。
食品偽装への武器となるのは、科学と報道だ。冒頭に出てくるフレデリック・アークムが1820年にイギリスで発行した「食品の混ぜ物工作と有害な食品について」が大きな転回点となった。銅で色付けしたピクルス・硫酸で味付けした酢・痛んだ牛乳と米粉や葛鬱金で作ったクリームなどを暴き、化学的な真偽判定法を紹介する。例えば、オリーヴ油と芥子の油は、凍らせればよい。オリーヴ油は凍るが、芥子の油は凍らない。
残念ながら極端に自由主義的な当事のイギリスではアークムは受け入れられず、スキャンダルで失脚しドイツへ帰る。
だが、やがて彼の後継者が現れる。医師アーサー・ヒル・ハッサル博士と、大衆向け医学雑誌「ランセット」の出版者トマス・ワクリーだ。ハッサルの武器は顕微鏡。1851年~1854年の連載で、彼らはロンドンの店舗で買った食品とその分析結果を、店舗名と宣伝文句と共に公開する。シナモン19個のうち本物は6個、42個のマスタードは全て偽物。だがナツメグ12個は全て本物で、ハッサルはそれを正直に発表する。
買い物の時間も重要だ。長時間働く労働者は土曜の夕方5時~七時にしか買い物できず、売れ残りのしなびた品物しかない。現代日本でも若い独身者はコンビニのお世話になるけど、一般にスーパーに比べ割高なんだよね、コンビニは。
大反響を呼んだ連載に対し、見事な反撃をしたのが乾物屋クロス&ブラックウェル。
- まずピクルスなどの保存食品に銅を使った由を素直に認める。
- 全ての製品から銅など有毒な着色剤を取り除く。
- 改良した由を大々的に宣伝する。
クロス&ブラックウェルは「地味な色は本物の印」と販売促進に逆用して大幅に売り上げを伸ばし、ハッサルも賞賛する。危機管理のお手本みたいな対応だ。
食品偽装と言っても定義が難しい。コーヒーに焦げた小麦粉を入れ量を誤魔化すのは文句なしにクロだが、お汁粉に一撮みの塩を入れ甘みを増すなどの「隠し味」は偽装なのか。マーガリンはバターの代用品として登場したが、名前からして完全に「別のもの」と明言している。どうでもいいけど私はパンに塗るならマーガリン、料理に使うならバターが好き。
新大陸アメリカでは清教徒的な「純粋食品」を求めるエラ・イートン・ケロッグ、マーガリンを敵視する酪農家、「人体実験」を行ったハーヴィー・ワイリー、小説「ジャングル」で悲惨な精肉工場の実態を描いたアプトン・シンクレア、保存料の安息香酸塩を押さえ砂糖と塩とヴィネガーを増やして高価格を設定して成功したハインツ社などを通し、20世紀へ向かう。
全般的に欧米の食品を扱っているが、日本人として複雑な気持ちになる部分も多い。例えば小麦。小麦のビタミンとミネラルの大半は小麦の外側の層に入っているが、能率的なローラー製粉法ではふすまが失われビタミン欠乏症の危険が増す。日本でも脚気が江戸病と言われた事を連想する。
飼育方法の変化でチキンの脂肪分が35年前の三倍近くになり、牛肉も脂肪が筋肉の間にまで入り込んでいる、と警告しているが、霜降りの神戸牛が大好きな日本人としてはなんとも。
また、合衆国純正食品薬事法の条項402aは「不潔な、悪臭を放つ、腐敗した物質」を禁じていて、その例としてタイの魚醤とスティルトンの黴を挙げているが、納豆も腐敗といえば腐敗だし人によっては悪臭なんだよねえ。いえ私は好きですが、納豆。
食品添加物をシンセサイザーのごとく操る現代のフレイヴァリスト、二次大戦の食料統制の元で逆にロンドン市民の健康状態が改善した話、果実などにどうしても混入してしまう動物の毛や昆虫の破片、ビタミン強化食品などを紹介しつつ、明るい話題としてアメリカとイギリスの食品成分表示とフランスの原産地保護指定を、暗い話題として中国とバングラデシュの偽物横行の実態を報告して終わる。
毒餃子や生レバーなどの騒ぎを見ると、日本人も食品の安全性には強い関心を持っている。この本を読む限り、全般的に社会は食品が安全になる方向に向かっている気がする。だが、偽装と暴露は科学という同じ道具を使ういたちごっこであり、何らかの形で政府の関与は必須だ。どんな形が理想なのか、落ち着いて考えるにはいい材料だろう。
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