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2012年8月29日 (水)

ブライアン・フェイガン「水と人類の1万年史」河出書房新社 東郷えりか訳

 ナイル川の勾配は非常に緩く、メソポタミアで利用されていたような放射状に広がる水路のネットワークもここでは非実用的だった。おおむねどんな場所でも川筋は不規則に蛇行し、地形が突如として変わるため、単純な水盤灌漑以外のどんな灌漑形式もほぼ不可能になっていた。

【どんな本?】

 人類の文明が採取から農耕に移行する過程で必要とされてきた灌漑、そして治水。時には乾いた土地を潤し、時には洪水で全てを押し流す。天水の利用から始まり、メソポタミアでは河川から水路を引き、バリ島では複雑なネットワークで持続的な稲作農耕を発達させ、古代ローマは大衆浴場を普及させ、欧州では産業革命の準備を整えた。

 生存に必要な水。だがそれは気候の変化により供給は大きく変動する。人類は水をどう調達し、管理し、利用してきたか。それは社会にどう影響してきたのか。治水を軸に人類の歴史を眺め、今後の水との付き合い方を考える。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は ELIXIR : A History of Water and Humankind, by Brian Fagan, 2011。日本語版は2011年3月30日初版発行。ハードカバー単行本で縦一段組み本文約456頁+訳者あとがき4頁。9ポイント46字×18行×456頁=377,568字、400字詰め原稿用紙で約944枚。長編小説なら約二冊分。

 翻訳物のノンフクションとしては標準的な読みやすさ。世界史に詳しいと、より楽しめるだろう。また、ローマの水管理に一章を割いているので、「テルマエ・ロマエ」が好きな人はそこだけでも読んでみよう。

【構成は?】

 序章
第1部 運河と用水路、そして水田
 第1章 生命の万能薬
 第2章 農耕民と用水路
 第3章 「水路がある者には女房がいる」
 第4章 「すべて失われしもの」 ――ホホカムの灌漑システム
 第5章 水の権力――バリ島
第2部 はるか遠方からの水
 第6章 エンリルの土地――メソポタミアの地下水利用
 第7章 エンキの国――シュメールの灌漑技術
 第8章 「われは水路を切り開かせた」――アッシリアの水道橋とカナート
 第9章 ゼウスの水――古代ギリシャの給水システム
 第10章 ローマの水道
第3部 貯水槽とモンスーン
 第11章 浄化する水――インダス川とモンスーン
 第12章 中国の悲しみ――黄河の氾濫
第4部 古代アメリカの水理学者
 第13章 睡蓮王――マヤ文明と人工の貯水池
 第14章 重力の勝利――重さを用いた水管理
第5部 重力とその先へ
 第15章 イスラームの水――類まれな水管理
 第16章 「100人力よりも確実」――ヨーロッパの揚水技術
 第17章 人類は水を支配したのか?
  謝辞/訳者あとがき/原注

【感想は?】

 蛇口をひねれば水が出ることのありがたみがよくわかる。特にこの季節は。

 毎年、この国じゃ夏になると水不足が話題になる。水不足ったって、この国じゃせいぜい時限的な断水ぐらいだ。なんと贅沢な悩みであることか。

 メソポタミアで、ナイルで、マヤで、降水量の変動は王朝を興しては滅ぼしてきた。少なければ渇水で、多すぎれば洪水で。1876年から78年の大型エルニーニニョで中国北部は乾燥し、1878年に恵みの雨が降っても「復興は困難だった。なにしろ、人口の7割が死に絶えていたからだ」。

 水は権力構造にも大きな影響を及ぼす。比較的に水量が豊かな地域では村が貯水池を作れば自活できるので、小権力が乱立しやすい。またイランのようにカナートが発達すると、カナートを握る者が権力を掌握する。これも小権力乱立の原因となる。バリ島の稲作地帯も多くの水路が複雑なネットワークを構成しているため、権力構造も複雑な形になる。

 メコンやアマゾンで古代文明が発達しなかった理由は、小権力が乱立して大権力が台頭しなかったためかしらん。

 大きな王朝が発達するのは、大河に依存する場合。ティグリス・ユーフラテスに依存するメソポタミア、ナイルに依存するエジプト、そして黄河を擁する中国。

 水路や堤防を作るのはもちろん、維持にも手間がかかる。「用水路の斜度が急すぎれば、水は速く流れすぎて侵食される。緩すぎればシルトが溜まり、水路は急速に埋まっていく」。適切な斜度を維持するため、往々にして水路は等高線に沿った形で掘削される…もちろん、人手で。

 乾燥地では休耕も重要。窒素を固定するって意味もあるけど、塩害を防ぐ意味もある。灌漑すると地下水面が上昇して塩分が地表に漏出してくる。休耕して雑草を繁らせると、風による侵食を防ぐ他、地下の水を吸って土壌を乾燥させ、地下水面を下げる。一旦塩害が発生すると大変で、「その土地は一世紀ほど放棄せざるをえなくなる」。欲こいた王が休耕地で栽培し、塩害で全滅ってのが王朝滅亡のパターン。

 壮大な用水路の話も出てくるが、緻密さで光るのがローマ。テルマエ・ロマエにあるように、「入浴はローマの暮らしの中心をなしており、市民としての誇りであり、帝国の威光を示すものだった」。鉛の送水管を使い、多きな谷を越える際はサイフォンの仕組みまで使っていた。とまれ今と違い蛇口なんてもんはない。

ローマ人は水道水から鉛中毒になっていたという迷信はまだ残っているが、実際にはそうではなかった。彼らの水道水はつねに流れており、水道管内で淀むことがまずなかったからだ。

 とまれ水の供給には多寡がある。渇水時の調整方法が賢い。途中に大きな水槽を作り、高さを変えて三つの水門を作る。水門の高い順から 一般家庭用>公衆浴場と劇場>市の水汲み場 となる。これは同時に、渇水時に水が止まる順番となる。一般家庭ったって、同時のローマで家庭に水道を引けるのは金持ちだけ。案外と公平。まあ、市民の間の話だけど。

 日本に住んでると欧州って乾燥した印象があるけど、むしろ「降水量が多すぎて洪水が起きることが、農民にとっても領主にとっても、最大の課題となっていた」。豊富な水量は水車の発達を促す。

1540年に、イタリアの冶金学者ヴァンノッチョ・ビリングッチョは「(水)車の揚水力は100人力よりも確実で強い」と書いた。おそらく彼の言うとおりだろう。わずか二馬力の小型の射上式の水車でも、おそらく女性中心の、30人から60人の人びとを粉挽き作業から解放できたのだ。

 同様にフェルト加工では35倍ほど生産性を上げ、起毛機は労働時間を「100時間から12時間に短縮」した。ポンプのイラストを見ると、大小の歯車・クランク・ピストンを組み合わせた複雑なマシンとなっている。紡績工場も水力が活躍し、「戦意革命を本当に築いたのは、1769年に特許が取られたリチャード・アークライトの水力紡績機だった」。

 産業革命は蒸気ばかりが注目されるけど、それを制御するピストンや歯車も重要な要素。そういった周辺的な技術を成熟させたのが、豊富で安定した流量を誇るイギリスの川だったわけ。アラブで産業革命が起きなかった理由の一つは、安定して流れが急な川がなかったためかも。

 中国と周辺国でダム建設による水源問題が浮上してるけど、現在ホットなシリアとトルコも同じ問題を抱えているとか。「ユーフラテス川の水の90%はなにしろトルコからやってくるのだ」。「トルコはティグリス川とユーフラテス川で野心的な計画を進めており、灌漑と水力発電の双方のために多数のダムを建設する予定を立てている」。イラクも絡み、この先どうなることやら。

 ナセルの功績といわれるアスワン・ハイダムも功績半ばで、広い農地を灌漑できる反面、シルトが下流に流れず土地が痩せ、「地中海沖のイワシ漁場は不漁に苦しんでいる」。また地下水位の上昇による塩害も怖い。上流の南スーダン・スーダンと話し合いで解決…どころの騒ぎじゃないんだよね、今は。

 色々あるけど、毎日風呂に入れる生活って、世界的に見るとかなり贅沢な暮らしなんだなあ。

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