レ・ファニュ「吸血鬼カーミラ」創元推理文庫 平井呈一訳
「女の子というものは、この世に生きているうちは芋虫なのよ。そうしてね、夏がくるとそれが蝶になるのよ。それまでは、それぞれみんながおたがいに性向と必然性と形をもった幼虫なのよ」 ――吸血鬼カーミラ
【どんな本?】
19世紀アイルランドの怪奇小説家、ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ(Joseph Sheridan Le Fanu, →Wikipedia)の短編集。ブラム・ストーカーの傑作「吸血鬼ドラキュラ」に先立つこと四半世紀、女性吸血鬼を登場させドラキュラにも大きな影響を与えた短編「吸血鬼カーミラ」を筆頭に、当事のスタイルの怪談7編を収録する。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
明示はしていないが、恐らく訳者が作品を選び、独自に編集したもの。原著の発表年は1839~1872。創元推理文庫版は1970年4月10日初版、私が読んだのは1989年1月6日の27版。順調に版を重ねている。文庫本縦一段組みで本文約363頁+訳者による解説14頁。8ポイント43字×19行×363頁=296,571字、400字詰め原稿用紙で約742枚。長編小説ならやや長め。
翻訳物の娯楽小説としては、読みにくい部類。原文を読んでないので想像だが、元が冗長な文体である上に、怪談なのでもったいぶった展開が多い。また、訳文も、元々1970年の当時でもクラシックな感覚な著者が、半ば意図的に古めかしい雰囲気を出そうとしているため、今読むとさすがに時代を感じさせる。
【収録作は?】
やはり最後の「吸血鬼カーミラ」が、頭一つ飛びぬけている。ヒタヒタと迫りくる怪異の恐怖に加え、百合の背徳的で官能的な描写がかもし出す妖しい雰囲気がたまらない。Wikipedia で調べると、児童文学で抄訳が幾つか出ている。いいのか、ポプラ社集英社。まあ文句いうつもりは毛頭ないけど。他にも、プロジェクト杉田玄白で日本語訳が読める。
- 白い手の怪 / Narrative of the Ghost of a Hand / 1861
- その屋敷に移り住んだブロッサー氏は、地主のキャッスルマラード卿に意義を申し立てた。「曰くつきで奉公人もすぐ辞めてしまう」、と。事の起こりは、屋敷の果樹園に面した、奥の客間だった。ブロッサー夫人がひとりで座っていると、開け放した窓の下に…
長編小説「墓畔の家」の一部で、13頁の掌編だが、これだけで充分短編怪奇小説として成立している。ファニュという作家は、他の人からの伝聞や手記といった間接的な語りを好む人らしく、これも手記の抄出という形を取っている。短いながらも、怪談集の冒頭に相応しく、怪異がジワジワと迫ってくる恐怖が味わえる。 - 墓堀りクルックの死 / The Dead Sexton / 1871
- ノーサンプトン州でも古く有名な旅館ジョージ・アンド・ドラゴンを抱えるゴールデン・フライヤーは小さな町だった。若い頃はゴロツキで町を飛び出したトビー・クルックは、40歳ごろになって町に舞い戻り、墓堀りとして働いていた。そのクルックの死体が発見されたのは、人気のない所だった。その日、ジョージ・アンド・ドラゴンに訪れた男は、黒く逞しい馬に乗っていた。
ジョージ・アンド・ドラゴンは竜退治で有名な聖ジョージことゲオルギオス(→Wikipedia)にちなんだ名前だろう。ところがやって来たのは聖人どころか… - シャルケン画伯 / Schalken the Painter / 1839
- ゴドフリ・シャルケン画伯が残した一枚の絵は、若く美しい笑顔の娘と、影の中で刀の柄に手をかけた男を描いていた。若い頃、巨匠ゲルアルド・ドウに師事したシャルケンは、ドウが可愛がっていた姪のローゼ・ヴェルデルカウストと密かに愛し合っていた。しかし、当事のシャルケンは無名で貧しい。若い二人の前に立ちふさがったのは…
改めてあらすじをまとめると、この設定は神話や民話でよくあるパターン。それが、怪奇小説家ファニュの手にかかると、まったく味わいの違う不気味な話になる。 - 大地主トビーの遺言 / Squire Toby's Will / 1868
- 気前もいいが癇癪もちで暴れん坊の大地主トビー・マーストンには、二人の息子がいた。長男スクループは内にこもりがちで障害があり、トビーに嫌われていた。弟のチャーリーは快活だが、父親と悶着を起こしたこともある。トビーの突然の死に、スクループとマーストンは遺産を巡って対立し…
古い名家の没落を描く物語。 - 仇魔 / The Watcher, or The Familiar
- サー・ジェイムズ・バートン氏は長く海軍に務め、南北戦争の際は帝国巡洋艦に司令官として乗り込んで活躍した。ダブリンに帰ってきたバートン氏は礼儀正しく落ち着いて洗練された物腰の人で、上流階級からも快く迎えられた。同じころ、社交界にデビューして話題をさらった美人モンタグ嬢にバートン氏は求婚し、彼女の家を度々訪れるようになったバートン氏だが…
立派な体躯で勇気もあり、かつ現実的な考え方をする元海軍軍人を主人公に据えた怪談。江戸時代の日本だと、剣術に優れ仕事でも堅実な実績で尊敬されている武士、ぐらいにあたるのかな。そういう人が、次第に追い詰められていく様子が、ファニュの意地の悪さを感じさせる。
これと、後に続く二編は「ヘッセリウス博士の著作」という形で、連作短編集のシリーズをなしている模様。 - 判事ハーボットル氏 / Mr. Justice Harbottle / 1872
- 高等民事裁判所の老判事ハーボットル氏は、強引に自分の思うまま事を運び、かつ自分には害が及ばぬように立ち回る、こすっからく物騒で狡猾な判事だった。当時、彼が扱っていた事件のひとつが、手形偽造で捕まった乾物屋ルイズ・パインウェック。その件について、ハーボットル氏に談判を申し込んだ男がいた。
狡猾で身勝手で冷血なハーボットル氏、これだけしぶとい老人なら、怪異なんぞものともするまい、と思っていたら… - 吸血鬼カーミラ / Carmilla / 1871~1872
- オーストリアの田舎スチリアの城に、19歳のローラは父と住んでいた。友人もおらず寂しい思いをしていた彼女だったが、城に思わぬ客人が現れる。その美しい娘は、母親と一緒の旅の途中で馬車が壊れ、療養のため彼女だけが城に居候することになったのだ。カーミラと名乗る彼女は、同じ年頃のローラと意気投合し…
これは傑作。ローラとカーミラの上品で耽美で背徳的な百合描写が、怪異の恐怖とブレンドされて読者の興奮を掻き立てる。カーミラの意味深な台詞も、微妙に愛の深さと怖が交じり合い、とってもイケナイ気持ちになる。私はドラキュラよりこっちの方が好きだなあ。ドラキュラは案外と肉体派なところがあるけど、カーミラの狡猾な手練手管で篭絡していく手口の方が洗練されているし、ローラにも愛情の残滓がくすぶっている様子なのが、読後も後を引く。
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