朝日新聞社アタ取材班「テロリストの軌跡 モハメド・アタを追う」草思社
「イスラム圏から来た学生は、数年たつと二つのタイプに分かれる。一方は、西欧社会を受け入れてとけ込もうとするタイプ。他は西欧を拒否し、仲間だけの世界を強く固めようとするタイプ。アタは後者だった」
――ハンブルグ工科大学でアタの指導教授だったディトマー・マフーレ
【どんな本?】
世界中を震撼させた9.11の主犯と目されるモハメド・アタ33歳。彼は、どこでどう育ち、どんな人間だったのか。いつ、どこでアルカイダと接触し、なぜテロへと走ったのか。彼の生い立ちから犯行までの足跡を追い、テロリストが生まれるまでの経過を辿ると共に、偶然にも彼の足跡に接触してしまったがため、大きな騒動に巻き込まれてしまった人々の声を伝え、また、テロの衝撃が社会に及ぼす波紋を警告するルポルタージュ。
なお、著者名が「朝日新聞社アタ取材班」となっているが、別に著者を隠匿する意図はなく、巻末に取材班の一覧が出ている。朝日新聞アタ取材班は以下9名。
松本仁一/植村隆/古山順一/国末憲人/小森保良/伊藤千尋/高城忠尚/小倉いずみ/中山由美
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
2002年4月25日第1刷発行。単行本縦一段組みで本文約261頁。9.5ポイント45字×18行×261頁=211,410字、400字詰め原稿用紙で約529枚。長編小説なら標準的な分量。新聞記者が書いただけあって、文章は読みやすい。内容的にも、素人に理解できるよう書かれているため、特に前提知識は要らない。あ、もちろん、9.11については知っている必要があるけど、余程若い人でなければ、当事のTVニュースで得た知識があれば充分。
【構成は?】
(資料写真)
第1部 ハンブルクの優等生 ドイツが拠点だった
第2部 カイロでの生い立ち 中東に飛ぶ
第3部 見えざる網の目 再びヨーロッパへ
第4部 9.11までの足どり アメリカに渡る
第5部 取材のなかで考えたこと
エピローグ
あとがき/朝日新聞アタ取材班プロフィール
【感想は?】
宗教が絡むテロとして、多くの日本人はオウム真理教による地下鉄サリン事件が思を思い浮かべるだろう。この本を読む限り、今後も日本で同様の事件が起きる可能性は、充分にある。それも、アラブ人によるものではなく、日本人による犯行で。
というのも。アタが過激な思想に傾倒していく過程・彼が嵌った手口が、今の日本でも頻繁に使われているからだ。
モハメド・アタ、犯行当時33歳、エジプト出身。テロ容疑者は全部で19人、うちエジプト人は彼だけ。他はサウジアラビア人15人、アラブ首長国連邦2名、レバノン1名。年齢がわかる中ではアタが最も年長で、最も若いハムザ・サレー・アルガムディは20歳か21歳。平均すると25歳ぐらいだろう。みな青年と言える年頃だ。
アタはエジプトのカイロで生まれる。父親は弁護士で、そこそこ裕福。小学校の頃は大人しく優しく礼儀正しく、成績は優秀で、「いつもクラスで二番か三番だった」。これは高校でも同じ。「母はアタをでき愛していた」。難関のカイロ大学工学部に進み、都市工学を専攻する。政治や宗教には興味を示さなかった。
だが、失業率の高いエジプトでは就職するには、コネが要る。アタは得意のドイツ語を活かし、ドイツのハンブルグ工科大学に留学、8年半在籍する。ここでも穏やかで礼儀正しく、内気な性格は変わらない。意欲的だが謙虚な優等生で、教官の指導にも素直に従う。ムスリムらしく女性との握手は断るが、その意思の表明はあくまで紳士的。
バイト先の雇い主は「締め切りまでにきっちり仕上げ、できばえは申し分ない」。同僚も「理想的なアルバイト学生」「まじめで仕事は優秀」と、極めて好評。ただし、この辺で転機が訪れたらしく、急激にイスラムに傾倒していく。学校の友人(ドイツ人)に「西欧とイスラム社会は対等な関係じゃない。われわれは犠牲者だ」と語っている。
カイロ時代はノンポリだった。彼が原理主義にハマるきっかけは、ハンブルクにあったと考えられている。
「モスクは基本的に、開かれた祈りの場であり、イスラム教徒ならだれでも訪れることができる」。ここで過激派は網を張り、カモを釣り上げる。モスク自体に問題があるのではなく、そこを漁場にしている者がいる、というわけ。実はもう一つ漁場があって、それは刑務所。「布教目的で自ら逮捕される者もいる」。
ここで、過激派に狙われる青年の特徴をまとめている。「人のいい人間」だ、と。礼儀正しく優しい。内気で真面目な努力家。故郷を離れ一人で暮らしている。政治や宗教には深入りしていない。
わかっただろうか。日本でも、春先はカルト宗教や過激な政治団体が大学のキャンパスで勧誘を繰り広げる。手口が、あれにそっくりなのだ。違うのは、イスラムを看板に掲げている点と、ネットワークが世界規模である点、そして資金の豊富さ。安上がりなテロが可能になれば、日本人が事件を起こす可能性はある。
だたし、これをもっ辛辣に捉える人もいる。フランス紙ルモンドのカイロ支局長アレクサンドル・ブシャンティは…
欧米で女性とのトラブルか何かを経験し、アラブ人を差別しているとひがむのは、ブルジョアのイスラム教徒だったらよくあることだ。
彼の足跡にたまたま居合わせ、事件後に騒動に巻き込まれた人も多い。ハンブルク郊外の会社を経営する日本人は、一週間、アタを臨時のバイトとして雇ったためにマスコミの報道に巻き込まれ、「取引先を一軒一軒回って事情を説明」した。「以来、アルバイトでアラブ系学生を雇うときは指紋をとっている」。
アタが航空機の操縦を学んだホフマン航空学校も、テロ以降の航空業界景気低迷や取材攻勢に根を上げ、「中東から入学手続きの問い合わせがあると、『担当者があとで連絡する』と答えて放置している」。
と、テロにより、アラブ系の人が深刻な被害を蒙っている。酷いのが、テロの一週間後にロスアンゼルス郊外で銃で撃たれたエジプト出身のアデル・カラス。なんと、彼は、エジプトでイスラム原理主義者から迫害され、アメリカに逃れてきたコプト教徒(キリスト教の一派)だった。
イスラム教徒にとっての過激派は、日本人仏教徒にとってのオウム真理教みたいなものだ、という声も紹介している。まあ、確かに遠くからじゃ違いがわからない。ただ、一般のムスリムの中では「911はユダヤの陰謀だ」という声も大きく、エジプト人記者曰く「いま(エジプト)国内で世論調査をしたら、国民の大半がイスラム教徒の犯行ではないと答えるはずだ」。
テロと(フセイン時代の)イラクとの関係、燃料満タンの大型旅客機の破壊力は小型核爆弾に匹敵するという話、旧東ドイツとアラブ社会の関係、ロンドンに政治亡命者が多い理由、パンジシールの獅子ことアフメド・マスードと911の関連など、細かいトリビアも満載。肝心のアタが過激派に傾倒していく過程はぼやけているが、イスラム系テロ組織の意外な素顔が見える本だった。
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