コリン・ビーヴァン「指紋を発見した男 ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け」主婦の友社 茂木健訳
フォールズはまず、十本の指すべてにインクを塗り、特製の用紙上に決められた順番で押捺してゆく方法をタンブリッジの前で実演した。それから、犯罪者指紋ファイルの検索を容易にする分類システムについて、詳しく説明した。隆線が描くパターンの特徴に従って各指紋を類別してゆくというそのシステムは、日本人が漢字の字書を編纂する方法からヒントを得たものだった。
【どんな本?】
現在の犯罪捜査には欠かせない証拠物件である、指紋。その指紋がスコットランド・ヤードに採用される陰には、1874年に宣教師として来日し、熱心に医療活動に励んだスコットランド人ヘンリー・フォールズの優れた研究があったが、彼の功績は長いあいだ評価されずにいた。
指紋とは何か、どんな種類があるのか、どんな性質を持っているのか。警察は指紋をどんな目的でどう使ったのか。欧州における刑法や司法の変転を背景に、指紋が必要とされた状況を語ると共に、探偵小説さながらの犯罪捜査のエピソードを取り混ぜつつ、ヘンリー・フォールズの功績が無視されてきた歴史のドラマを語る。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は FINGERPRINTS: The origins of crime detection and the murder case that launched forensic science, by Colin Beavan, 2001。日本語版は2005年5月20日第1刷発行。ハードカバー縦一段組みで本文約262頁。9.5ポイント42字×17行×262頁=187,068字、400字詰め原稿用紙で約468枚。標準的な長編小説の長さ。
翻訳物のノンフィクションにしては、拍子抜けするほど読みやすい。量も手ごろだし、構成も興味深いエピソード満載で、真面目な内容のわりに一気に読める。
【構成は?】
謝辞/指紋関連年表
1 デトフォードの惨劇
2 悪党を捕まえる悪党
3 傍若無人のネズミども
4 カクテル・グラスの汚れ
5 犯罪者の骨
6 生物学的な優秀さを示す標章
7 個人識別法をめぐるイギリスの模索
8 殺人現場の青い手帖
9 塀の中の無実の男
10 ストラットン裁判
11 評決
エピローグ
章別出典一覧/参考文献一覧
【感想は?】
本書の主要テーマは、埋もれていたヘンリー・フォールズの功績を再評価する事だ。つまりは強くメッセージを訴える、ある意味政治的とも言える本なのだが、読後感は上質の歴史・技術史ドラマに近い。娯楽としての楽しさと歴史ノンフィクションの迫力を両立させた上で、政治的メッセージを控えめに伝える、奇跡に近い出来栄えになっている。
主要テーマを構成するサブ・テーマは5つ。1)指紋が必要となる背景としての、刑法と裁判の歴史,2)警察による、犯罪捜査と個人認証の歴史、3)指紋が発見されるまでの経緯,4)指紋の特徴と性質,5)スコットランド・ヤードが指紋を証拠として採用するまでの経緯。この五つの骨組みを、豊富なエピソードで肉付けしている。
まずは背景として、欧州の刑法と裁判の歴史。最初は神明裁判や決闘裁判、次に目撃者の証言に基づく陪審員裁判。「偽証は永遠の断罪につながる」と脅したが、これを恐れなかったのが宗教的狂信者。イエズス会による国王暗殺の陰謀をでっち上げた、タイタス・オーツの例を挙げている。宗教と政治に深入りした人間って、どんな卑劣な嘘も平気でつくんだよなあ。
今は犯罪の重さと刑罰の重さは比例させるのが当然って感覚だけど、昔はきまぐれだった。これを問題視したのミラノの政治家チュザーレ・ベッカリーアは1764年に「犯罪と刑罰」を出版して「標準化した刑罰体系を希求した」。それまでなかったんかい。つかスリで死刑ってのも、なあ。これに死刑廃絶運動が連動し、1832年から活発に刑務所が建てられる。これに続き、初犯と常犯者は刑罰の重さを変えようよ、って声が出てくる。
そこで2)警察による、犯罪捜査と個人認証の歴史が続く。
世界初の犯罪捜査専門組織は、1812年にパリで開設されたブリガド・デ・ラ・シュルテ(保安隊)。江戸の町奉行は?と思って Wikipedia をみると、行政・司法も兼ねてるね。創設者フランソワ・ウジェーヌ・ヴィドック、「悪党でなければ悪党は捕まえられない」とし、「そこで職に就けるのは犯罪歴を持つ人間に限られていた」。理に適っているような、ないような。ブーツの足跡を石膏で取り容疑者のブーツと照合したり、弾丸のサイズを銃と比較したり。犯罪者の記録を文書で残し始めたのも彼。各国の警察が彼に学ぶ。
が、常犯者は偽名を使う。犯罪者の名前でファイルした警察の犯罪記録はアテにならない。他の個人認証の方法が必要となる。今の日本は戸籍が整備されて るから楽だけど、当事の欧州にそんなもんなかった。個人を特定でき、生涯にわたって変化せず、かつ簡単に測定・記録・検索できるモノが必要になる。
つまり、指紋が必要な理由は、証拠物件としてではなく、犯罪履歴の有無を調べるためだったわけ。「今、目の前にいる犯人の指紋は、○という特徴がある。同じ特徴の指紋が、警察の犯罪記録の中にあるか?あれば、それはどんな内容か?」
ってんで、3)指紋が発見されるまでの経緯。やっと主人公ヘンリー・フォールズが登場する。働きながら夜間学校で医学を学ぶが、科学と信仰の板ばさみで悩む。1873年にプロテスタント初の日本伝道団のひとつとして来日、築地の診療所などで十年間、医者・医学生を指導し、狂犬病を予防し、運河に監視所を作って溺死事故を防ぎ、コレラの蔓延を防ぎ…と対活躍。ただ日本の上流階級と交流が少ないので、イマイチ評価されなかったが。今は東京都中央区明石町に「指紋研究発祥の地」の碑があるそうな。おまけに伝道団も、布教に不熱心だとケチをつける。
ちょうど同じころ、アメリカ人動物学者エドワード・S・モースがダーウィン進化論についての講義を開始し、多くの日本人聴衆を集めていた。かれらは、西洋の宗教ではなく、西洋の科学に大きな関心を示したのである。
この後、フォールズはモースと神の意義で公開討論会を開き激論を交わすが、プライベートでは友人となり大森貝塚の発掘に参加、土器に残った指紋に触発され…って、キリがない。「10本の指全部から取った指紋のセットは個人特有だし、生涯不変で怪我などしても変わらない、だから科学捜査に使える」って論文をネイチャーに寄稿、1880年10月28日号に掲載される。同年11月25日号にウィリアム・ハーシェルが「インドで指紋を公的な書類の署名として使った」という論文が載る。
4)指紋の特徴と性質は省略。5)スコットランド・ヤードが指紋を証拠として採用するまでの経緯、なんだが、これが切ない。病気や生活の苦労に追われながら警察に指紋を売り込むフォールズだが、コネのないフォールズの売り込みは空回りする。
ここに乱入するのがフランシス・ゴールトン。裕福な家庭に育ち聡明な彼は育ちより生まれを重視し、「他者の成功は、ゴールトンの嫉妬心を猛烈にかき立てた。その成功が、育ちの良さではなく勤勉な努力によってもたらされたものであれば、なおさら妬ましかった」。完全に悪役を割り振られてる。ってんで、フォールズの成果の一部をパクりハーシェルと組んで指紋研究を進め、売り込みに成功する。とまれゴールトンとハーシェルの功績は、フォールズも高く評価してるんで、科学者としては優秀だった模様。
他にも犯罪捜査や裁判の楽しいエピソードも沢山入ってて、面白い所を挙げていったらキリがない。ひとつのシステムが組織に採用されるまでの物語としても参考になるし、昔の司法制度も意外性に富む。あまり期待を持たずに読んだ本だったが、意外な掘り出し物だった。
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