マイケル・サンデル「これからの[正義]の話をしよう」早川書房 鬼澤忍訳
便乗値上げをめぐる論争を詳しく見てみれば、便乗値上げ禁止法への賛成論と反対論が三つの理念を中心に展開されていることがわかるだろう。つまり、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進である。
【どんな本?】
副題は「いまを生き延びるための哲学」。浮世離れした学問という印象が強い哲学だが、この本では具体的な法案や事例を元に、「正義とはなにか」を探り、哲学と政治の深い関係を訴え、読者の思想と政治姿勢を問う。ハーバード大学の人気講義「正義」をもとにした話題のベストセラー。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原題はズバリ Justice, What the Right Thing to Do? by Michael J.Sandel, 2009。日本語版は2010年5月25日初版発行。私が読んだのは2010年9月12日の68版。たった半年で68版とは化け物だ。しかも既に文庫が出ている。ハードカバー縦一段組みで本文約333頁。9.5ポイント42字×20行×333頁=279,720字、400字詰め原稿用紙で約700枚。小説なら長めの長編の分量。
政治哲学という面倒くさそうな内容だが、拍子抜けするぐらいわかりやすく、読みやすい。いちいち現代アメリカの具体的な訴訟や事件の事例を挙げて説明しているため、親しみやすく切実な実感がある。
【構成は?】
第1章 正しいことをする
第2章 最大幸福原理――功利主義
第3章 私は私のものか?――リバタリアニズム(自由至上主義)
第4章 雇われ助っ人――市場と倫理
第5章 重要なのは動機――イマヌエル・カント
第6章 平等をめぐる議論――ジョン・ロールズ
第7章 アファーマティブ・アクションをめぐる論争
第8章 誰が何に値するか?――アリストテレス
第9章 たがいに負うものは何か?――忠誠のジレンマ
第10章 正義と共通善
謝辞/原注
【感想は?】
そうか、私は功利主義者だったのか。
この本の特徴は、現代アメリカの具体的な事例を挙げ、その議論を分析し、各論を主張する者達の思想原理を明確にしようと試みている点だ。事例として、いきなりハリケーン・カトリーナ後の便乗値上げの是非を語っている。多くの日本人は「便乗値上げなんて言語道断!」と考えるだろうが、リバタリアンの理屈が凄い。
…モーテルの部屋代などが通常よりも高いおかげで、こうした商品やサービスの消費が抑えられるいっぽう、はるかな遠隔地の業者にとってハリケーンの後で最も必要とされている商品やサービスを提供するインセンティブが増すことになる。
市場原理の当たり前の理屈だけど、どうにも納得いかない。だって不幸で苦しんでる人を更に踏みつけるみたいで酷いじゃないか。この「納得いかない」部分が、「道徳」だよ、と著者は主張する。このように事例を通して、現代アメリカの思想を著者は大きく三つに分ける。
- 幸福の最大化:功利主義
- 自由の尊重:リバタリアニズム
- 美徳の促進:それ以外
それ以外ってのも相当にいい加減な分類に見えるが、つまりは政治に道徳を要求する立場、と考えればいい。ただし道徳の形が人によって違うため、宗教保守も「美徳の促進」に入ってしまう。この本だと宗教保守にはあまり深入りしないが、リベラルは随所で槍玉にあげられている。
一般に政治的な著作は、著者の姿勢に共感するか否かで評価が大きく分かれる。著者は上の 3. に属するコミュニタリアン(→共同体主義者)で、私は功利主義者だ。よって思想的には対立する立場だが、それでも本書は楽しめた。
確かに著者の政治姿勢は出ているものの、おおむね公平を意識して書いている。各事例に対し功利主義やリバタリアンの主張も披露し、その主張をするに至った思想の根本原理を語る、という形を取っている。まあ、その後でチクチクと欠陥を突くんだけどw
感想の冒頭で妙な事を言っているが、私はこの本を読むまで自分の思想がどんな位置にあるのか知らなかった。つまりはその程度の素人だが、そんな素人に、本書は現代の思想のルーツと変転をわかりやすく教えてくれる。「思想って黴臭くて退屈」などと思っていたが、意外とエキサイティング。
また、上の三分類、政治的な議論をする際の指針にもなる。つまり利害を基準にしてるか、選択の自由を広げようって主張か、正義をなそうとしているか。往々にして人って、支持する結論があって、その後に理屈をつけたりするんだが、その際に上の三パターンを知ってると便利かもしれない。
とまれ、昔の人の考える事だけあって、「ちと無茶じゃね?」と突っ込みを入れたくなるのも事実。最も「突っ込みてー」と思ったのは、第5章のイマヌエル・カントの、「道徳的に行動することは、義務から行動すること――道徳法則のために行動することだ」という主張。これ、「じゃアシモフの三原則に従うロボットは道徳的なの?」と突っ込みたい。
などと言うものの、「自分で定めたルール(道徳)に従って行動する」って生き方、魅力的ではあるんだ。特に物語の登場人物だと。フィリップ・マーロウとか。
確かに文章は読みやすいのだけれど、スラスラ読めるか、というと、実は結構時間がかかる。というのも、読者が支持する立場によって、本書で主張されているサンデル教授の論に反論したくなるからだ。功利主義の立場だと、「功利主義を捨てたら発展が阻害され国家が衰退しちゃうんじゃね?」とか。そういう事を考え始めると、ついつい妄想にふけってしまう。
現実の政治議論も面白い例が多くて、本書の終盤近くでは結婚制度について触れている。同性婚の是非を問う議論で、結婚とは何かを問い、三つの意見を紹介している。
- 男性と女性の結婚のみを認める。
- 同性婚と異性婚を認める。
- あらゆる種類の結婚の承認をしないが、その役割を民間団体に委ねる。
c. は無茶だと思うでしょ。でも、政治と宗教を徹底的に切り離そうとすると、イスラムなどの一夫多妻はどうするの?って問題に突き当たる。これから逃げちゃったのが、結婚の民間化。こんな馬鹿な事を考えるのは私ぐらいかと思ったら(*)、評論家のマイケル・キンズレーなどリバタリアンが支持するそうな。
*誤解を招きそうなので言い訳を。別に私は「結婚制度は民間に任せろ」と主張しているわけじゃない。SF者の常として、極端な状況を想定して奇妙な社会を妄想する癖がある。ある時、「政教分離を極限まで推し進めたらどうなるか」を考えた。結婚制度には、イスラムの一夫多妻や一部地域の一妻多夫など、文化や宗教により様々な形態がある。これらを政治から完全に切り離したらどうなるか?と考えた結果、「政府は結婚に関与しない、民間の業者に任せる」という世界設定に辿りついた。SFだと思っていたのに、まさか現実に主張している人がいるとは思わなかった。
ところがサンデル教授は意地が悪くて、こういう「逃げ」の姿勢に対し、「逃げちゃダメた」と、ES細胞と妊娠中絶を例に挙げて立ちふさがる。どっちも「どこから人間か?」という宗教的な問いを含んでいるわけで、これに結論を出さないと前に進めないぞ、と通せんぼする。困りましたね。
他にも「裏口入学があるんだから、いっそ新入生枠の一部を競売にかけちゃえ」とか「タバコは年金負担を軽くする」とか「インドのアナンドは商業的な代理出産の集積地になるだろう」など、衝撃的な意見やエピソードがいっぱい。ワイドショーを楽しむ野次馬根性で読んでも充分に楽しい本だ。
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