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2011年8月20日 (土)

パオロ・バチガルビ「ねじまき少女 上・下」ハヤカワ文庫SF 田中一江・金子浩訳

 タイ人は13種の笑みをもっているといわれている。アンダースンは、いま自分が見ているのはそのなかのどんな笑みなんだろうと思った。

どんな本?

 ヒューゴー賞・ネビュラ賞・ローカス賞のトリプル・クラウンに加えキャンベル記念賞まで獲得し、タイム誌の<今年の十冊>にも選ばれた、新鋭SF作家パオロ・バチガルビの長編SF小説。石油が枯渇した上に、遺伝子改変で生まれた疫病や害虫が生態系を破壊し、それらに耐性のある種子を握るバイオ企業が世界を牛耳っている未来を舞台に、しぶとく生き延びる人々を描く。

いつ出たの?分量は?読みやすい?

 原書は The Windup Girl, by Paolo Bacigalupi, 2009。日本語版は2011年5月25日発行。私が読んだのは2011年6月30日の三刷。ハヤカワの青背としては久しぶりの大ヒットだなあ。文庫本で上巻約385頁+下巻約372頁に加え下巻には訳者の金子浩氏による6頁の訳者あとがきがつく。縦一段組みで9ポイント40字×17行×(385頁+372頁)=514,760字、400字詰め原稿用紙で約1,287枚の堂々たる長編。

 地球を舞台にしたSFにしては、読みにくい方かも。というのも、展開する世界が彼独特の異様な背景の社会だし、場所がタイという多くの読者には馴染みの薄い、だが複雑な背景を持った地域であるため。出てくる人物もタイ人の役人・マレーシアからの中国系難民・日本製の人造人間と、多様で複雑な文化と生い立ちを背負った者たちばかり。まあ、それがバチガルビの魅力でもあるのだけど。

感想は?

 メタンとタンパク質をフィーチャーしたブレードランナー。

 …なんのこっちゃ。まず、舞台となる世界が見事。原因は不明だが、石油が枯渇している。だもんで、人類は代替となるエネルギーを得なきゃいけない。この物語の舞台となるタイだと、一次エネルギーの主な供給源は二つ。一つはゴミや排泄物から生成するメタン。もう一つは、遺伝子改変されたゾウ・メゴドントの生み出す運動エネルギー。

 のっしのっしと歩く巨大ゾウがスピンドルをまわしてエネルギーを生み出し、それを変換して換気扇やベルトコンベアを動かしてるわけ。どっからそんな発想が出てくるんだか。「バイオエタノールを使えばいんじゃね?」と思うだろうけど、そこもちゃんと押さえてる。

 この世界は遺伝子改変で生み出された疫病や害虫が席巻している。だもんで、従来の農作物はすぐ病気にやられてしまう。病気に耐性のある作物の種子は、市場を寡占している数社のバイオ企業だけが供給できる。人が食べる分を作るのが精一杯で、燃料にまわす余裕はない、というわけ。

 工場など大規模で固定した所ならメゴドントでエネルギーを賄えるけど、移動体、例えばスクーターなどでは使えない。じゃどうするかというと、なんと二次エネルギーの主体はゼンマイ。そう、ネジを巻いて離すと巻き戻る、あのゼンマイ。ゼンマイをまわしてエネルギーを溜め、巻き戻す時のエネルギーでスクーターや船を動かしている。このゼンマイの改良型をめぐるゴタゴタが、物語の大きな要素のひとつとなる。

 こういったエネルギー枯渇がもたらすテクノロジーの変化っぷりがこの物語の大きな魅力のひとつで、「エレベーター」も出てくるんだけど、これをどうやって動かしているのか、というと…。いや確かに理屈はあってるんだけど、この発想はなかった。所有者の立場を考えれば、これ以上はない、というぐらい理にかなってるんだけどね。

 もうひとつの大きな魅力が、タイという国と、そこに住む人々。疫病でマレーシアなど周辺の国家が崩壊している中で、タイ王国は半鎖国政策によりギリギリの独立を維持している、という設定。あの国の歴史を考えると、この設定はなかなかの説得力。

 東南アジアはどの国も華僑・華人が浸透しているんだけど、その入り込み方が国によって違う。これを巧く体現しているのが、マレーシアからの難民で中国系の老人、ホク・セン。同じ華僑でも、マレーシアとタイでは地元文化との関わり方が違う。こういう細かい部分を、作者はどうやって知ったのやら。

 社会背景の見事さの中で、日本人として嬉しいのがティラピアのエピソードに触れている点。ほんの数行ではあるけど、よく調べてあるなあ、と感心した。

 などと激変した世界でも、人間はあまり変わらないようで、やっぱりタイ人はムエタイが好き。上巻でアクション場面を提供するのが、元ムエタイのチャンピオンで「バンコクの虎」と呼ばれる国民的英雄のジェイディー・ロジャナスクチャイ。今は環境省の白シャツ隊の隊長として、密輸や違法なエネルギー取引を取り締まっている。あの辺の国にありがちな賄賂が横行する中、彼とその部下たちは精練かつ熱心に職務に取り組む…そのせいで政敵の通産省に睨まれてるけど。明るく豪快で誇り高く家族思いな彼は、複雑で底の知れない登場人物が多いこの物語の中で、ひときわ際立っている。

 タイトルの「ねじまき少女」役を務めるのは、日本製人造人間のエミコ。優れた美貌を持ち、礼儀正しく従順に作られたエミコだが、ここタイでは不法滞在者どころかモノ扱い。毛穴が小さくすぐにオーバーヒートするため、日常生活にも冷水が欠かせない。しかも、仕様でぎこちない動作に作られているため、下手に白昼に街に出れば正体がすぐバレる。今はいかがわしい店でいかがわしい仕事に就き、なんとか生き延びている。卑屈な生き方を強いられる彼女が、なんでこの物語で主役を務めるのか、というと…。

 私がこれを読んでいたのは、ちょうど猛暑が盛んな頃。この物語も、蒸し暑いバンコクの夏を舞台に展開する。あの国の暑さというのは殺人的で、暑いだけじゃなく湿度が凄い。空気を絞れば水が出てくるんじゃないか、と思えるぐらい。そんな気候なんで、人々は結構のんびりしてる。この物語も前半はタイらしいジットリとした雰囲気で、ギシギシと歪みを溜めながら進んでいく。が、後半になると俄然スピードアップし、細かくカットを切り替えながら、カタストロフィーに突入する。

 主要な登場人物はあと二人ほど残ってるけど、私が一番気に入ったのは、後半で少し顔を出すマッド・サイテンティスト。いやあ、やっぱりSFはこういうイカれた人が出ないといけない。やる事もいう事もイカれてるんだけど、ここまで突き抜けるとむしろ爽快だから困る。

 売れ行きも好調なようだし、テッド・チャンがいきなり長編を発表したりしなけりゃ、次の星雲章は確実だろうなあ。

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