エブリン・フォックス・ケラー「動く遺伝子 トウモロコシとノーベル賞」晶文社 石館三枝子・石館康平訳
バーバラ・マクリントックの比類のない研究できわだっている点の一つは、研究のすべてが自分で手を下した実験によってなりたっていることである。一切の手助けなしに、尽きることのないエネルギー、科学に対する全き献身、独創性、巧妙な工夫そして鋭く鋭敏な頭脳によって、彼女は細胞遺伝学の歴史において比較するもののない一連の重要な発見をおこなってきた。
どんな本?
トウモロコシの研究を通したトランスポゾンの発見により、1983年にノーベル生理学・医学賞を受賞したバーバラ・マクリントックの評伝。その能力と実績は同僚に高く評価されながらも、様々な理由で彼女は孤独な研究生活を送った。ワトソンとクリックのDNAの発見に代表される生物学の激動期を背景に、孤高の天才細胞遺伝学者の生涯を描く。
いつ出たの?分量は?読みやすい?
原書は A Feeling For The Organism by Evelyn Fox Keller, 1983。日本語訳は1987年11月15日初版、私が読んだのは1988年3月25日の四刷。思わぬ人気に慌てて増刷を重ねた様子がうかがえる。A5ハードカバーで縦一段組み、約317頁。9ポイント44字×17行×317頁=237,116字、400字詰め原稿用紙で約593枚。
文章は…人間関係を描く部分は普通に読み下せるんだが、細胞学・遺伝学の部分はイマイチ。遺伝学の基礎的な内容が多い前半は図解を入れたりして読者の理解を助けようとしているんだが、マクリントックの独自性が発揮される後半に入ると、直訳っぽい文章が増え、理解するには数回読み返す必要がある。トランスポゾンについて学びたければ、他の本に当る方がいい。
構成は?
はじめに
第一章 マクリントックと遺伝学の歩み
第二章 みちたりた孤独
第三章 科学者としての出発
第四章 女性にとっての仕事
第五章 ミズーリ大学時代
第六章 正統性の内と外
第七章 コールド・スプリング・ハーバー
第八章 転移する遺伝子
第九章 通じる言葉と通じない言葉
第十章 分子遺伝学
第十一章 転移の再発見
第十二章 生物との共生感
用語集
訳者あとがき
ほぼ物語は時系列順に進む。読む際は、彼女が研究生活に入った時代は、染色体は見つかっていてもDNAは未発見だって事を認識しておこう。それがわかっていると、彼女の研究がいかに時代に先んじており、かつ当時の「遺伝学の常識」に反していたか、実感できるだろう。
感想は?
この本は、多様な側面を併せ持っている。読む人の視点によって、それぞれ違った物語が展開されるだろう。
ひとつは、とても幸せなオタクの物語だ。世間の人とは大きく異なる価値観を持ちながら、大好きな事を仕事に得て、充実した人生を送った人の物語だ。
ひとつは、あまりに先進的でありすぎるが故に世間に受け入れられなかった仮説が、どのように受け入れられていくか、その過程を綴った物語だ。
ひとつは、女性であるが故に相応しい地位を与えられず、それでもくじけずに己の生き方を貫き通した、強い意志を持った女性の物語だ。
ひとつは、革新が激しい科学の世界で、古典的と思われていた手法や仮説が、全く新しい概念の基礎となって蘇える物語だ。
そして、革新的な科学の発見がいかになされるかという物語でもあり、そんな発見をする人はどんな人かという物語であり、染色体からDNAを経てトランスポゾンへ至る激動の遺伝学の物語でもある。私が読み取ったのはこの程度だけど、恐らくあなたは、ここに挙げたのとは異なる物語を見出すだろう。
バーバラ・マクリントック、細胞遺伝学者、1902年生まれ。幼い頃はお転婆で、男の子と遊ぶことが多かった。彼女の両親は鷹揚な人で、「両親のやり方はほとんどの場合、子供たちの好みを最優先するものだった。もし、バーバラが学校に行きたいと思わなければ行かなくてもよく、(略)一学期以上もの長い休みを取ることもままあった」。
高校で科学と出会った彼女は学問に惚れこみ、ゴタゴタはあったがコーネル大学に進む。
そして一番最初に受けた講義で私はもう有頂天になってしまいました。それは動物学の講義で、嬉しさのあまりまったく我を忘れてしまうほどでした。その時私は、自分で本当にやりたかったことをしていたのであって、そういう喜びは大学在学中ずっと失うことはありませんでした。
天職ってやつですか。そんな彼女の集中力は凄まじく。
私は地質学をとっていたのですが、これは大好きな科目でした。(略)私は試験を受けるのが待ちきれなかったのです。(略)とても気がせいて名前を書き込むのが煩わしく思われたのです。というのもどんな質問かすぐに見たかったからです。私はいきなり答えを書き始めました(略)そしていざ自分の名前を書こうとしてみると、なんと思い出せないのです。
没入すると自分の名前すら忘れるとは。こういった集中力と、目的に向かってまっしぐらに進む性格は、時として奇行と人の目に映る。研究室の鍵を忘れ壁をよじ登って進入するとか、そりゃ無茶やがな。こういう性格が災いしたのか、当時の女性科学者の地位が低かったのか、若い頃の彼女の地位はなかなか安定しない。このあたりのジプシーぶりは切ないけど、彼女のトウモロコシ畑を残すコーネル大学の懐の深さも相当なもの。まあ、あまし教師に向かない人ではあったらしい。コーネル大学で同僚だったマーカス・ローズ曰く。
「バーバラは頭の悪い人間とつき合うことができなかったのです――彼女はとにかく頭がよかったので」
彼女の生涯を概要だけ見ると、長く雌伏を強いられた天才、みたいに見えるけど、実際にコレを読むと、案外と楽しみながら研究生活を続けた人のように見える。晩年は神秘主義に傾倒したような発言が多いようだが、その言葉は本当に「通じて」いるのやら。ええ、当然、私も理解できてるとは思っていません。
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