トーマス・ヘイガー「大気を変える錬金術 ハーバー、ボッシュと化学の世紀」みすず書房 渡会圭子訳 白川英樹解説
「イギリスをはじめとするすべての文明国家は、いま死ぬか生きるかの危機に直面している」
「人類を飢えから救うのは化学者である……われわれが死に直面する前に、化学者の働きによって世界的な飢餓の時代は先延ばしされ、われわれの息子や孫たちは、将来を過度に心配することなく生きられるようになるだろう」 ――サー・ウイリアム・クルックス、1898年英国科学アカデミー会長就任演説より
どんな本?
20世紀の人類を救った偉大な発明、化学肥料。それにより農業の生産性は飛躍的に向上し、人口の急激な増加を可能にした。空気を肥料に変えるハーバー=ボッシュ法を発明した二人の化学者、フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュは、後にノーベル賞を受賞する。だが、二人が活躍した時代は、同時に二つの世界大戦が戦われた時代だった。偉大な化学者二人の波乱万丈の生涯を追い、現代科学の発展と歴史の皮肉を綴る。
いつ出たの?分量は?読みやすい?
原書は The Alchemy of Air ; A Jewish Genius, a Doomed Tycoon, and the Scientific Discovery That Fed the World but Fueled The Rise of Hitler, Thomas Hager。日本語版は2010年5月20日初版発行。A5ハードカバー縦一段組みで本文約293頁に加え、解説9頁+索引・出典・参考文献29頁。9ポイント46字×18行×293頁=242,604字、400字詰め原稿用紙で約606枚。みすず書房というとおカタい印象があるが、これは物語風で意外と読みやすい。
構成は?
はじめに 空気の産物
第Ⅰ部 地球の終焉
第Ⅱ部 賢者の石
第Ⅲ部 SYN
エピローグ
謝辞
解説 白川英樹
参考文献
出典について
索引
「第Ⅰ部 地球の終焉」は、ハーバー=ボッシュ法が登場する前、天然肥料を列強が奪い合う舞台背景を、ドタバタ喜劇風に紹介する。二人が登場するのは「第Ⅱ部 賢者の石」以降。
感想は?
ハリウッド映画の原作と言っても通用するぐらいに、波乱万丈でドラマチック。因縁の対決・勝利への執念・相次ぐ困難・虚をつく発想・大胆な賭け・栄光と挫折・国家の悲劇、そして友情と、ワクワクする娯楽作品に必要な要素がギッシリ詰まってる。科学に興味がない人でも、戦時下で浮沈の激しい人間ドラマが好きな人なら、きっと楽しめる。
フリッツ・ハーバーはドイツに生きるユダヤ人。19世紀後半のドイツのユダヤ人は上級公務員にこそなれないものの、他の国よりは寛容だった。科学で国家に貢献すれば国民もユダヤ人を認めてくれる、そう考えたハーバーはアンモニア合成を成功させる。従来の高温にする方法ではなく、高圧を利用する方法だ。
目処がついたハーバーは、BASFに売り込む。ハーバーの方法は有望だが、ビジネスとして成立させるには効率向上と大規模化が必要だ。担当となったのは、機械にも詳しい化学者のカール・ボッシュ。ボッシュは、当時としては画期的な手段に出る。大人数の化学者を雇ってチームを組み、一つの目的に向け組織的に「発明」するのだ。
この発明の過程がエキサイティングで楽しい。今でこそ民間企業がチームを組んで新製品を開発するのは珍しくないが、同時としてはマンハッタン計画に匹敵する偉業だった。適切な触媒を求めての右往左往、次々と改良されていく機械。鋼鉄シリンダーの水素腐食を防ぐ工夫には脱帽した。「どうせ防げないなら生贄を差し出せばいい」と、シリンダー内部を取り替え可能な安い鋼の保護材で覆う。保護材は水素に侵されるが、定期的に交換すればいい。
ボッシュの活躍で化学肥料は商業ベースに乗るが、ここに歴史の皮肉が訪れる。第一次世界大戦の勃発だ。化学肥料工場は、少しの工程変更で爆薬工場にもなる。ドイツに大量の硝酸塩を提供するBASF。「もしハーバー=ボッシュ法で爆薬に必要な硝酸塩がつくれなかったら、第一次世界大戦は一年か二年、早く終わっていただろうと推測する歴史研究かもいる」そうな。そのころ、ハーバーは悪魔の発明・毒ガス開発に取り組んでいた…
ハーバーもボッシュもドイツのために頑張ったが、戦争は負けた。トンデモ科学に手を出すハーバー、事業拡大に余念のないボッシュ。いずれも巨額の賠償金からドイツを救うために奮闘する。だが、やがてナチスが台頭し、ユダヤ人の排斥が始まる。心痛の中、カイザー・ヴィルヘルム研究所を追われ、ハーバーは死ぬ。ハーバーの追悼式で示される、ボッシュの友情はあまりに切ない。
化学肥料・合成石油、そして大規模化学工場と、ボッシュの文明への貢献はあまりに偉大だ。だが、同時にそれは戦争を支え拡大する結果ともなった。彼らを悪く言う人も多いだろうが、戦勝国に生まれていたら、彼らの評価も違っていただろう。
ユダヤ人でありながら、キリスト教に改宗してまでドイツのために尽くしたハーバーの誠意は、最後にヒトラーに裏切られる。それでも、同僚の科学者達が、ハーバーへの敬意の誇示を躊躇わなかったのが、せめてもの救いか。
恐らく彼らによって救われた生命は、十億を超えるだろう。品種改良による「緑の革命」も、科学肥料なしにはありえなかった。だが、それは同時に人口問題を先送りしてツケを膨らませただけなのかもしれない。化学肥料の増加は環境への負担を増大させ、今は有機農業が脚光を浴びている。
二人の人生、二つの世界大戦、そして地球全体の環境。様々なスケールで、あまりに多くの問題を、この本は読者に突きつける。真面目に考え込むもよし、眩暈を起こして戸惑うもよし。「科学者の伝記」というカテゴリに収めるには、本書はあまりにドラマチックでヒトの本質に迫りすぎている。
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