阿佐田哲也「麻雀放浪記 4 番外編」角川文庫
「俺はちがう。好いとるけん打つとたい。麻雀でやられるなら、殺されてもよか。あんたも、あそこまで打てる腕があろうもン、やっぱりそうたい。よかことか悪いことかわからんばってん殺されてもよか思うちょるもん、やめられんとたい」
どんな本?
戦後の混乱期から始まった傑作博打シリーズも、この四巻でついに終幕。「番外編」と銘打つこの巻では、今までの主人公「坊や哲」は脇に回り、変わって新人の李億春が主役を張る。哲から主役を奪うだけあって、この男の圧倒的な存在感は、読者の背筋を凍らせるだろう。
いつ出たの?分量は?読みやすい?
初出は1972年1月~6月に週刊大衆連載。私が読んだのは角川文庫版で1979年10月30日初版、2001年5月25日発行の46版。読み継がれてるなあ。文庫本で本文約321頁、解説は山本溶朗の7頁。8ポイント縦一段組み42字×18行×321頁=242,676字、400字詰め原稿用紙で約607枚。
文章そのものは娯楽小説に相応しい読みやすさ。ただ、主人公の李億春が福岡弁なので、慣れないと少し戸惑うかも。とまれ、大半は語尾が変化する程度で、完全に意味不明な単語が出てくるわけじゃないので、ご安心を。
麻雀勝負も「読み」が重要なのは前巻と同じ。同時にこの巻では「技」も駆使したバトルが展開されるので、人間相手に打った経験が多い人ほど楽しめる。私は人の捨て牌は全く読めない素人なので、大人しく勉強させていただきました。
主役は李で、シリーズ主人公の哲はあまり活躍しない。ただ、ドサ健が重要な役を担っているため、出来れば予め一巻だけでも読んでおいた方がいい。また、前半は関西風のブウ麻雀の勝負が続くので、二巻も…とか言い出すと、結局は素直に一巻から読みましょう、という結論になる。
どんなお話?
昭和30年頃、北九州。李億春は、その雀荘に巣くっていた。はした金しか持たず、そこでボーイの様な真似をして宿と食い物にありついていた。そこに飛び込んできたのが、ネクタイを締めた一人のよそ者。「カモがきた」と勇む李、店には「クマゴロウ(玄人)が来た」と警告し、勝負を挑もうとするが…
感想は?
博打は、怖い。博打打ちは、もっと怖い。
前巻で描かれていたのが、復興の波に乗り定職に就いた者と、未だ戦後気分で獣の様な生活を送るバイニンの対比。ただ、その二者を分ける境界は、比較的あいまいで、本人次第で行ったり来たりできた。ところが、この巻で主役を務める李億春は、もはや引き返せぬところまでドップリとバイニンの世界にハマっている。
かつて哲が憧れた生き方を体現していたのがドサ健なら、李は哲の純粋?さを持ったまま、バイニンになりきった男と言っていい。役者こそ違えど、まさしく「こうなっていたかもしれない哲」だ。
麻雀が好きで、勝負が好きで、強い者と打ち合うのが好き。不安定な生活は宿命と受け入れ、駅や路肩で寝ることも厭わない。勝負となれば手段を選ばず、狙った獲物は食いついて放さない。
「俺に好きなこと、やらしちゃくれんのか。――(略)方々で無茶して、そのたんび人でねえようなあつかい受けたばい、おのれがいたずらしたんだから、恨むなァおのれしかねえが、俺はおのれも恨んじゃおらん。なんといわれようと俺の好きなことをしたんじゃけん、こげなことぐらい当たり前だ。ばってん、ここまで来て好きなことを押しとおさずにひっこむんなら、(略)無くした意味がなかろうもん。――どんでもあンたに喰いついてやる。迷惑だろうが、離れんからそのつもりでいてくれ」
前巻まではユーモラスでさえあったバイニンの生き様だが、彼の場合は既にホラーの域に達している。とにかく打ちたい、そのために金が必要なら、犯罪すら辞さず金を手に入れる。その知恵と執念と実行力を他の事に活かせばひとかどの人物になれるだろうに、なんでバイニンになってしまうのか…いや、やっぱり堅気になるのは無理な気がしてきた。
「…出目徳のおっさんと打ちあった夜のことを思い出してみろい。そりゃァ、あんな晩ばかりじゃない。獣みてえに他人の食い残しを突っついたり、雨風ン中でも一人すごさなきゃならねえ。だが月給とりにあんなすばらしい晩があるか」
対する哲は、大人しく月給とりになりきろうと四苦八苦している。彼なりにカイシャに溶け込もうと、幾つかの職場を転々としながらも、シャカイジンとしての仮面を作り上げていく。
「――だがね、足を洗ったために、僕はどうにか今日まで生きてこれたよ」
獣の本能の赴くまま強敵を求める李は、やがて関東の雄、上野のドサ健に狙いを定め、あらゆる手を尽くし利用できるものは全てを利用して、彼の元に辿りつこうとする。その心情は、あまりに一途で切ない。腐女子ならずとも、李の想いは恋を連想せずにおれまい。
戦後の混乱期で「なんでもあり」の時代。剥き出しの欲望と意地がぶつかりあう社会。それでも人は、何かしらの規範を求める。ドサ健も李も、彼らなりの規範を持ち、厳しくそれに準じていた。ただ、その規範は、復興していく社会と、あまりに折り合いが悪すぎた。巻を追うに従い、彼らの規範と世間とのズレは拡大し、最終巻では埋めようのない亀裂の象徴として李に結実する。
昭和期の読者は、「そうなったかもしれない自分」を、ドサ健や李に投影しつつ読んだのかもしれない。だが、この作品は平成になった今でも新しい読者に愛され続けている。獣のようなドサ健や李の生き方は、愚かで刹那的で破滅的ではあるけれど、同時にどうしようもなく人の本能を惹きつける魅力がある。人間ってのは、厄介な生きものだなあ。
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