スティーヴン・L・カプラン「パンの歴史」河出書房新社 吉田春美訳
うまく作ればこのパンは、小麦の豊かな香り、春の花やドライフルーツのような香りがして、味わいが深く、かすかな塩気の後味が残る。パンの身は真珠のような光沢があるか、あるいは黄色がかった茶色で、不規則な孔はあいているが、大きな孔はできないので、きめが細かくなめらかで、歯ごたえはあるが、咀嚼しやすい。ときおりとろけるような舌触りすらおぼえる。 ――著者によるバネットのトラディションの評より抜粋
どんな本?
副題は「世界最高のフランスパンを求めて」。フランスのパンをこよなく愛するアメリカ人著者による、現代のフランスのパンの没落と復活を描くドキュメント。パン全般ではなく、フランスパンの現代史ですな。
第二次大戦後、フランスのパンの味は低下の一途を辿る。だが、世を憂いパンを愛する多くの職人が、「美味しいパン」を取り戻すべく毅然と立ち上がった。
何がフランスパンを没落させたのか。そもそもパンとは何か。美味しいパンとはどんなパンか。誰が立ち上がり、どう戦ったのか。フランスのパン業界の奥深くに切り込み、その構造を解き明かす業界物の面白さと共に、美味しいパンのガイドまでついた、お得で美味しい本。
いつ出たの?分量は?読みやすい?
原書は Steven L. Kaplan, Le retour du bon ain : Une Historie contemporaine du pain, de ses techniques et de ses hommes, Perrin 2002。日本語版は2004年11月30日初版発行。「一部を割愛した」とあるが、それでもハードカバー縦一段組み約468頁+横組みの索引&原註33頁の大容量。9ポイント46字×19行×468頁=409,032字、400字詰め原稿用紙で約1023枚の大著。
翻訳物のドキュメンタリー、しかもあまり馴染みのないフランス物だが、テーマの親しみやすさも手伝って、読みこなすのはそれほど難しくない。ただ、読書中に空腹を覚えるのは、この時期ちと難かも。
構成は?
はじめに
第1章 おいしいパン――その実践と解釈
第2章 パンをめぐるふたつの危機
第3章 白パンのウエスタン
第4章 敵と競争
第5章 パン屋と国家、あるいはパンと民衆と王
第6章 製粉業者とパン屋
第7章 モンジュ戦争と勇者たち
結び
謝辞
訳者あとがき
原註
索引
手っ取り早く概要を知りたい人は、最後の「結び」を最初に読むといい。この本の内容を著者が自ら26頁ほどにまとめてある。とはいえ、全般として教科書的に箇条書きにした本ではなく、物語風に多くのエピソードを並べた本なので、香りを味わうには、やっぱり本文を読むにこした事はない。
感想は?
この本のテーマであるパンの味の低下は、最初の「はじめに」で、その深刻さを訴えている。
「近代」にけるパンの質の低下を最も激しく批判したのメグ・ボルティンというアメリカの女性ジャーナリストが今はなき「パリ・メトロ」誌に書いた記事であったというのは、別に驚くべきことではない。ひとりあたりのパンの消費量が19世紀末の750グラム(一説には900グラム)から今日パリで135グラムに低下した…
日本でもごはん離れが騒がれたけど、フランスのパン離れも酷い。「いったい、なんで?」と読者を曳きつけておきながら、第1章では「パンのつくりかた」を論じて焦らす。いけずだけど、ここで焦って読み飛ばしてはけない。ここで説明する天然酵母とイーストの違い、第一次発酵=ポワンタージュなどの用語が後に重要な意味を持ってくる。
さて。フランスのパンの危機を招いた原因だが、著者は一つに特定していない。黒パンを嫌いひたすら白い色のパンを求めた消費者、その消費者に応えるためそら豆などの添加物を加えたパン職人、そんなパン職人に媚びる製粉業者、そして機械の導入やイーストの採用など工程の変化。
機械化はパン生産の時間を短縮する。便利に慣れた消費者は、焼きたてのパンを求め始める。そんな消費者の要求に応えるため、パン職人は冷凍装置の導入など更なる機械化を進める。
職人と消費者だけでなく、近年のパンには様々な勢力や組織が関わってくる。大量生産・大量消費を狙うパン・メーカーやスーパーのチェーンは顧客を奪う。週35時間労働を規定した労働法は、重労働を必要とする伝統的なパン作りの継承を阻む。価格の上限を定めたフランス政府の規定、政府の保護を求め競争を嫌うパン職人の組合なども、職人の向上心を阻害する。
そんな厳しい状況の中で、毅然と立ち上がったのがパン職人たちだ、と著者は賞賛する。消費者の自然志向も追い風になった。今までブルジョアの象徴だった「白いパン」ではなく、「純粋」や「有機」が評価され、伝統に立ち返ろうとするパン職人を後押しする。
パン職人たちのアプローチは様々だ。共通しているのは歴史に学びながらも常に工夫を怠らない点だけで、完全に伝統に沿った作り方をしている職人はいない。多かれ少なかれ機械化を取り入れつつ、むしろ積極的に機械を使いこなそうとする人が多い。ドミニク・ゼブロンに至っては、チェーン店のカルフールと契約し、原材料・工程から販売に至る全てを見直し、「バゲットをすっかり変えてしまった」。
セブロンのライバルと目されるのは、エリック・カイザーだ。代々続いたパン屋に生まれ、若い頃にはフランス中を巡って新旧の製造法を学ぶ。製粉業者への仕様書には詳しく要望を書き、そら豆やビタミンCなどの添加物は一切認めない。だが、同時に挑戦的で大胆な製品も作る。例えば、パン・ド・パリーヌはそば粉を使う。店では窯をカウンターの後ろに置き、消費者の目前でパンを出し入れし、最終工程に至るまでの自らの責任を明らかにする。某漫画で出てきたアレは、彼がモデルなのかな?
最終工程が家庭に任されている米と違い、パンは職人が生地を作って焼く。ご飯を炊くのは一時間もあれば充分だけど、パンはコネて発酵させるので、丁寧にやると二十時間以上もかかる。窯だって一般家庭に装備するのは難しい。ご飯の炊き方も工夫が必要だけど、最近の炊飯器は優秀だから、素人でもかなり美味しいご飯が炊ける。
パン職人が消費者との間に入るため、米とは随分と様子が違い、多くの物や組織が関わってくる。そのため、身近で単純な食べ物のように思えるけど、実は細かい違いがある事がわかった。例えば、生地から作ってるパン屋と、冷凍生地を他から買って焼くだけの「パン焼き人(ベイカー)」は違う。
などの知的興味が満たせるのはいいが、どうしようもなくフランスパンが食べたくなるのは困り物。でも大丈夫。王者、メゾンカイザーは日本でも出店してます。いい時代だなあ。やっぱり、バケットモンジュでしょ。
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