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2011年1月16日 (日)

クルト・マグヌス「ロケット開発収容所 ドイツ人科学者のソ連抑留記録」サイマル出版会 津守滋訳

「候補者は慎重に選ばれており、投票者はこれらの候補者に同意しているので、投票用紙に何かを書き込んだりする必要はありません」

どんな本?

 表紙に曰く「第二次大戦後、スターリンに連行されたドイツ人V2ロケット科学者による秘録!」。
 ナチス・ドイツの崩壊に伴い、V2の開発者達は二つの運命に分かれた。片方はアメリカに、もう一方はソ連に。アメリカに渡ったヴェルナー・フォン・ブラウンなどの活躍は多数の資料があるが、ソ連に拉致された人々の記録は少ない。科学者が垣間見た、スターリン時代のソ連社会の様子と、そこに住む人々の生活が生き生きと描かれていて、「鉄のカーテンの向こう側」に興味がある人には、格好の資料。

いつ出たの?分量は?読みやすい?

 原書は Raketensklaven, von Kurt Magnus, 1993. 訳は1996年3月発行。A5ソフトカバー約300頁。45字×19行×300頁=256,500字、400字詰め原稿用紙で約642頁。著者のクルト・マグヌス博士は、ジャイロスコープの専門家だが、科学的・技術的な記述は必要最低限に抑え、数式も出てこない。その分、ソ連での生活や、ソ連の官僚たちとの対立、そしてロシア流の研究の進め方などが日常的で平易な言葉で書かれていて、理系アレルギーの人にも自信を持ってお勧めできる。

構成は?

   ドイツ人科学者のソ連抑留記録――訳者まえがき
   歴史への証言――まえがき
Ⅰ 拉致された科学者たち――赤い檻の中のドイツ人
Ⅱ ロケット開発の日々――ゴロドムリャ島収容所
Ⅲ ドイツへの帰還――失われた七年間
   主な参考文献

 視点は著者の一人称固定、お話の流れも原則として時間軸どおりなので、構成的な混乱は全くない。

感想は?

 スターリン体制のソ連の素晴らしさが、嫌というほどよくわかる。冒頭、著者は同僚に癖を指摘される。

「ホームで待っているとき、先生はいつも鞄を前後に揺らしておられます。これは意味もなくそうされているのか、あるいは一種の条件反射なのか、そこが知りたいのです」

 回答は…ソ連抑留時代についた癖。そうしないと、市場でスリに財布を抜き取られるそうです。ソ連に泥棒はいないはずなんだけどなあ。でも、ロシア人は嫌な奴ばかりって訳じゃない。

 ロシア人の同行者なしで電車に乗ると、しばしばロシア人の乗客から話しかけられた。
 そのなかには、戦争の経験とドイツ軍の占領時代の遺恨をぶつけてくる者もいた。(略)こういう場面では、必ずといってよいほど、ほかのロシア人がわれわれの味方をし、はてはロシア人どうしの口論になった。

 統制経済だけど闇市はあって、モノによっちゃ10倍以上の価格差だとか。でも逞しい庶民は配給制にも巧く適応します。飲食店じゃお茶は配給切符なしに飲めて、角砂糖が二つついて2ルーブル。この砂糖、闇市で売れば5ルーブル。原価率40%、いい商売だよね。売り子も心得たもので、ドイツ人の某夫人がお茶を百人分注文すると、角砂糖二百個だけを渡したそうな。

 庶民はいいけど、お役人はどうしようもない。当初、A4ロケットの復元を命ぜられるのだが、ドイツから持ってきた筈の資料が出てこない。「輸送中に紛失した」と説明されるが、強硬に「なきゃ仕事できねーよ」と抗議すると、案の定、ちゃんと後から出てくる。

 開発・研究も非効率。一流のロシア人専門家コロリョフらは著者らと別の場所で仕事をし、著者たちの下には未熟な若い技術者が派遣される。高度すぎる問題にロシア人技術者はついてこれないので、何度も同じ質問を繰り返す。
 官僚の猜疑心の凄まじさを示す例の一つが、著者がK.E.ツィオルコフスキーの全集を注文したエピソード。ロケット好きにはロシア人のロケット技術の先駆者として有名な人ですね。ところが、この全集が届かない。なんと、ロシア人の責任者が邪魔していた。

「君がこの島で働いており、ロケットに関心を持っているという事実を、人に知らせてはならない」

 さて、ロシアはA4ロケットを復元するも、発射実験は二回失敗する。原因究明に呼び出された著者たちは、迅速に問題を解決するが。

「私は大臣から、最初の二回の発射実験の失敗が、ドイツ人専門家のサボタージュによって生じたものでないかどうかの調査を命じられました。短期間で失敗の原因が除去されたことに、大臣は疑念を抱いています」

 キレますよ、普通なら。なんで優れた仕事をして疑われにゃならんのか。向こうで盛んな "壁新聞" の意味も、実に巧妙。政治スローガンに加え、同僚への批判も記事として掲載する。よって職場で抗争・嫉妬・悪意が渦巻き、上に立つ者は統治しやすくなる、と。んじゃヒップホップは…って、考えすぎだといいけど。

 退屈を紛らわすために著者らは素人芝居を始めるが、ここにも当局がチャチャを入れる。オスカー・ワイルドでも「バンバリー」はいいが、「カンタヴィルの幽霊」は不許可となる。「幽霊などというものはこの世には存在しない」から、だそうで。よくもまあ、そんな地でファンタスチカなんて育ったなあ。

 他にも、スターリンがゼンガーに強い関心を持っていた事、スパイを育て運用する手口など、面白いエピソードが詰まっている。こんな状況じゃ開発なんてボロボロだよね、と思うけど、現実には今でもロシアのロケットは費用対効果で優れた市場競争力を維持している。よくわからん世界だよなあ。

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