斎藤純「銀輪の覇者 上・下」ハヤカワ文庫JA
子供の頃、初めて自転車で遠乗りをしたときも、今と同じような喜びを覚えたものだ。坂を越えた向こうには見知らぬ世界が広がっていた。だから、上り坂を苦しいと思ったことはなかった。自転車で行動範囲がいっきにひろがって、ただそれだけのことで世界を手に入れたような気さえした。
どんな本?
戦前の日本の自転車レースを舞台とした、緊迫感漂う自転車冒険小説。
時は暗雲渦巻く昭和9年。日本の自転車競技を牛耳る帝都輪士会は、オリンピック招致を控えてアマチュア化を進める。それに逆らい、莫大な賞金を賭け、本州を縦断する大日本サイクルレースが始まろうとしている。主査者の山川には胡散臭い噂がつきまとい、開催すら危ぶまれるこのレース、競技用の自転車を、商業用の無骨な「実用車」サンライズ号に限定するという、異様なレースでもあった。
いつ出たの?分量は?読みやすい?
2004年6月にハードカバーで出た作品を、2007年8月に文庫化したもの。縦一段組みで上巻約340頁&下巻約380頁の計約720頁。戦前が舞台の小説のわりに台詞は堅苦しくなく、娯楽冒険小説としては理想的な読みやすさ。お話の吸引力が強いんで、読み始めたら一気に最後まで突き進んでしまう。
感想は?
レース物ってのは、それだけで期待をよせてしまう。しかも、実用車による自転車レース。その種の人には設定だけでヨダレが止まらなくなるお話。
自転車レースの面白い点は、ただ速く走るだけじゃ勝てない点。自転車で速く走るには、空気抵抗が大きな邪魔になる。そこで、他の誰かの後ろについて、先導してもらうと、ぐっと楽になる。前を走る者にしてみりゃ、ただ利用されるのは面白くない。かと言って後ろに下がれば順位も下がる。という事で、敵同士でありながら、微妙な協力関係が出来たり壊れたり…という、複雑な人間関係が展開される。
普通の自転車レースなら、ちゃんと練習した者が強いに決まっている。ところがこの作品、レースそのものを胡散臭くして有名選手の参加を減らした上に、「実用車」という謎の制限を設け、素人が活躍できる余地を大きくした。なんで実用車かというと、読み進めればちゃんと納得できる説明が出てくるのでご安心を。
そんなこんなで「うわ美味しそう」と思って読み始めると、レースの選手がまたクセの強い魅力的な連中が揃ってる。
脳味噌筋肉で底抜けの馬力を発揮する望月慈介。一見、腰の軽い噺家のようでありながら意外な地力を発見せる越前屋平吉。陰険な頭脳プレイで食い下がる小判鮫こと小松丈治。いかにも「育ちのよいええトコのお坊ちゃん」な爽やか好青年の明善寺恒章。重い責任を背負いながらも勝負に徹しきれない日沖。その日沖をサポートしつつカムバックを狙う老兵の鶴岡彦七。圧倒的な強さを誇る徹底した秘密主義のドイツチーム。そして、経歴は一切不明でありながら、豊富なレース経験に裏打ちされた多彩な知識と技術を持つ、主人公の響木健吾。
レース周辺の連中も、胡散臭い狸野郎が揃っている。いかにもヤマ師然とした主催者の山川は勿論、古武士風の威厳を見せる審判長の堤善衛、周辺を鬱陶しく嗅ぎまわる新聞記者の箱石、本場おフランスからやってきた解説役の青年記者ジャン。
やがて主人公の響木が、様々な手管を弄して即席のチームを作り上げていく。ところがこのチーム、どいつもこいつも腹に一物ある奴ばかり。こういう、クセの強い連中が、そのクセを活かしてチームになっていく過程ってのが、好きな人にはたまらないんだ。
それぞれに背景や思惑を抱えた海千山千の連中なのに、過酷なレースが進み気力体力がそぎ落とされていくにつれ、「誰が一番速いか」を競うだけの、ただの男に還っていく。
「すまなかった。どこの誰であろうと関係ないのが、このレースのいいところだ」
ちと響木チームがチート臭いけど、いいじゃないですか。次々と背景が変わるロードムービーの楽しさ、アクの強い連中がまとまっていくチーム物の期待感、そして技と力と頭脳がぶつかり合うスポーツの爽やかさ。その全てを一作で堪能できる、お得な娯楽冒険小説なんだから。読了後、自転車で遠乗りしたくなる事は保障します。
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