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2010年10月 6日 (水)

佐藤哲也「妻の帝国」ハヤカワSFシリーズJコレクション

そしてこれもわたしの想像なのだが、たいていの人間は自由を失うその日まで、自分が自由であったことを知ることがない。

 なんとも奇妙でトボけた味の、現在の日本を舞台としたディストピア小説。

 「わたし」は30代前半の普通のサラリーマンだ。結婚しているが、子供はいない。結婚当初は共働きだったが、すぐに妻は勤めを止めた。妻には、すべき事が沢山あるので、勤めているヒマはないのだ。妻は、最高指導者だ。彼女は、直感による民衆独裁による国家を構築する目標がある。そのために、毎日、大量の手紙を書き、また読まねばならない。手紙の中身は、こんな感じだ。

「指令第一号。しかるべく監視を開始すること。来るべき選別の準備を開始すること。追って指令があるまで一切を秘密とし、敵にいかなる警告も与えないこと。下部組織にも以下の指令を徹底すること」

 手紙には、具体的な住所も受取人の名前も書かない。あて先は肩書きだけだ。それでも、出せば、しかるべき者に確実に届く。覚醒した民衆の直感が、それを可能にするのだ。目覚めれば、それがわかる。今はまだ目覚めた者は少ないが、少しづつ増えている。直感的に共有した民衆の意思による独裁、それが妻の望む社会だ。

 ソフトカバー330頁程で一段組み。文章は淡々として読みやすく、すんなりと読み通せる。頁が進むに従って残酷な描写が増えてくるが、語り手の「わたし」が優柔不断で事なかれ主義の、ありがちな気弱な男のせいか、あまり扇情的な感じがしない。

 正直、どんな小説なのか、よくわからない。大まかなストーリーは、「民衆意思」を盲信する民衆の狂気により、現代の日本が国家と社会が崩壊していく過程だ。代わって出現する社会は、クメール・ルージュが恐怖によって支配した、かつてのカンボジアを思わせる。自分達の信条に共感しない者を「個別分子」と呼び、密告制度によって虐殺していく過程は、いかにも恐怖政治そのもので、読んでいて恐ろしいとは思うのだが、そこに著者の政治的なメッセージがあるようには思えない。

 「わたし」は、社会の変貌などという大げさな事柄より、妻のご機嫌を伺い夫婦喧嘩を避ける事に汲々としている。メンヘル妻の暴走を止められない「わたし」を、少々情けないと思いながらも、なんだか共感してしまう。肝心の最高指導者である妻も、理念だけは強固に持っているようだが、組織作りなどの具体的な事には全く不慣れだ。例えば、当初は末端にまで自分で手紙を書いて指令を伝えているために、膨れ上がった作業量に圧迫されていて、見かねた「わたし」が、組織の階層化を示唆する始末。

 そういった、妻の理念と現実の齟齬は次第に拡大していき、やがては社会の崩壊と組織的な虐殺へと至る。だが、それを間近で見る「わたし」は、自分の生活に精一杯で、妻を諭すでもなく、政治的に動き始めるわけでもなく、民衆の一人として埋没していく。

 もうちょい、明るいお話にするか、思いっきり馬鹿馬鹿しい法螺話だったら、楽しめるんだけどなあ。

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