カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」早川書房 土屋政雄訳
「ネバーレットミーゴー…オー、ベイビー、ベイビー…わたしを離さないで…」
キャシー・Hは介護人だ。介護人を勤めて十一年以上になる。長い職歴を持つだけあって優秀との評判も高く、今では介護する相手を選べるまでになった。彼女が育ったのは、ヘールシャム。そこで彼女は、ルースやトミーなど、多くの仲間たちと一緒に、多感な子供時代を過ごしたのだった。近未来のイギリスを舞台に、彼女や仲間たちの数奇な生き様を淡々と描く、話題の小説。
ハードカバー一段組みで約340頁。訳文は異国の香りを残しながらも、日本語としてはこなれていて読みやすい。時系列は多少前後するものの、視点はキャシー・Hの一人称で統一されているため、お話の混乱も少なく、物語そのものの吸引力の強さも相まって、読み始めたら一気に読める。
なんともまあ、紹介の仕方に困る小説である。介護人・提供者・ヘールシャムなど、物語のキーとなる言葉やその意味が、物語の中で少しづつ明かされていくのだが、ジワジワと背景が明かされていく様、読者をじらす工夫が見事で、ネタばれを避けると、ほとんど書ける事がなくなってしまう。まあ、私の文才がないのが悪いと言われれば、素直に認めるしかないけど。
序章、現在のキャシー・Hの独白で始まった物語は、次に彼女が子供時代を過ごしたヘールシャムの思い出話になる。全寮制の宿舎学校っぽい環境なのだが、妙に世間と隔離されている。「子供と先生と、稀に来る外部の人」という、一種の閉鎖環境である。そんな中でも、ありがちな女の子グループ内の組織力学みたいなものはあって、キャシーとルースが互いを測りあいながら友情を育てていく様子は、「ああ子供だなあ」という微笑ましさと同時に、「子供とは言っても、やっぱり人間だよな」と思わせる毒もたっぷり含んでいて、著者の冷徹で底意地の悪い観察眼の冴えがじっくり味わえる。
いささか見栄っ張りで、女の子らしい虚勢を張りながらも、優れた統率力を示すリーダー然としたルース。その横に控え、常に空気を読んで、時にはルースのハッタリを見抜きながらも、敢えて波風を立てる事は避けるキャシー。同室のよしみもあって、二人は次第に自他共に認めるいいコンビとなっていく。
幼いながらも男女の意識はあって、もう一人の重要な登場人物、トミーが二人と深く関わるのは、もう少し後になる。ちょっとした事で仲間はずれになったトミーは、その激しやすい性格も災いして、いじめの標的となってしまう。気まぐれで彼に声をかけたキャシーは、彼へのいじめが止んだ後も、周囲からなんとなくトミーの相方と看做されてしまう。
謎の多いヘールシャム。その謎を、キャシーはルースやトミーと秘密を共有しつつ、少しづつ解き明かしていく。とはいえ所詮は子供、入手できる情報も限られているため、往々にして彼女たちの推測は的を外れているのだが…
と、ヘールシャムでの子供社会の心理描写や葛藤を描く著者の緻密さは見事で、私はこの辺が一番楽しめた。子供とはいっても無邪気なわけじゃなく、それなりに面子や駆け引きもあるんだよね。で、幼馴染ってのは、息が合ってる面もあれば、お互いの手口を見透かしてる分、やりにくい面もあるわけで。
さて。肝心の物語の背景事情は相当に過酷なわりに、語り手のキャシー・Hはやたらと落ち着いていて、素直に運命を受け入れているのが、なんとも不気味というかなんというか。この小説に似た舞台装置のお話は日本の漫画じゃ珍しくなくて、その多くはこの小説の結末から始まる物語で、中身は血しぶき舞い飛ぶド派手なバトル・アクション物になる訳ですが、私はそういうバイオレンスな方向の方が好きです。結末近くでのエミリ先生の告白には、反発しか覚えないし。
一応、参考資料として。双方共にネタバレを含むけど、著者カズオ・イシグロ氏のインタビューを挙げておく。私としては、むしろ瀬名秀明氏の立場に共感を覚える事も、申し添えておきます。
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