高村薫「照柿」講談社
「…あんた、律儀に金払うから組関係では評判いいけどな。そっちは一時の捜査だからいい顔も出来るだろうが、こっちは三百六十五日やってんだから。身を削りたくても限界がある。うちの若い奴らが嫉くから、管内ではちょっと控えてほしい」
夏の数日間、疲れて擦り切れたオッサン・オバサンたちが、溜め込み押さえ込んだ情念の圧力に押され、惰性で続けた日常から少しだけはみ出し、カオスの淵で踊る千鳥足のダンス。ハードカバー二段組で約500頁。リアリティに富む文章は読みやすいものの、人物描写に関しては額面どおりの解釈は危険で、軽々しく読み飛ばせるものではない。
主な登場人物は二人。
まず刑事の合田雄一郎、34歳バツイチ。大阪出身、本庁から八王子署に出向している。傍から見れば高学歴のキャリア組、かといって決して四角四面という事はなく、捜査の都合とあらばツテを作るために賭場に出入りするなど、清濁併せ呑む度量を備える。問題は勤務熱心どころか仕事にのめり込みすぎる点で、それが上層部との軋轢に加え心身の不調をも招いている。無骨な外見に似合わず、破綻した結婚生活にウジウジ悩み、未だ立ち直っていない。
次に野田達夫35歳、若い頃は「ヤンチャ」でならし、女にも手が早いが、今は教師の妻と10歳になる息子がいる。鉄鋼部品工場で勤続17年のベテラン、勤務歴に相応しく職長を勤め、最近は100人以上の部下を抱える臨時の工程長も任される。灼熱地獄の熱処理工程で、不調が続く炉をだましだまし運用しつつ、厳しい生産ノルマを足りない人手でやりくりしている。
合田と部下の森は、八王子の強盗殺人事件を追っている。マンションで一人暮らしのホステスが殺され、現金などを奪われた。物証が少なく難航する捜査線上に、二人の容疑者が浮かび上がる。
一人は建設労働者の土井幸吉。家族もなく同僚との付き合いもない。勤務は真面目で酒も飲まず女にも縁がない。ただし賭場の常連で借金があった。
もう一人は堀田卓美。元暴力団員で覚醒剤中毒。傷害など前科4犯で、被害者の高校時代の同級生。袖に身柄を押さえている事もあり、捜査本部は堀田がホンボシという線で決まりかかっている。
土井を追った合田と森は、拝島駅で轢死事故を目撃する。男と言い争った若い女がはずみで線路に飛び出し、運悪く進入してきた列車に轢かれたのだ。オタついて逃げた男を、森が追う。現場に残った合田は、白いブラウスと青いスカートが印象的な女、佐野美保子に出会う。「逃げた男は私の主人だが、落ちた女は知らない」と美保子は語る。
不精な読者に、高村薫の筆はいささか厄介だ。舞台背景となる警察や工場の職場風景は、会話に出てくるジャーゴンの使い方も自然で、圧倒的なリアリティを持って迫ってくる。そこで働く人々の姿も、それぞれの立場ごとの考えや利害の違いが見事に現れていて、立体感のある舞台を築き上げる。加えて上記二人の心象は、ふんだんに独白を費やし技巧を凝らして詳細に描写するため、怠惰な読者は、「なんとまあ親切な作者なんだろう」と、ついつい受身の姿勢に陥ってしまう。
が、しかし。恐らくは意図的にだろう、周辺人物から見た主人公達の姿は、一切省かれている。周辺人物の心象風景も、全く出てこない。それらは全て主人公の視点を通じて読者に提示されるので、主人公達の客観的な姿や周辺人物の心象を、読者は自ら積極的に読み解かなければならない。肝心の視点を提供する主人公達が、これまた思い込みが激しく屈折しまくっている連中なんで、誤解と曲解のフィルターが強烈にかかっている。
ありていに言えば、作者は「嘘ですよ」と断わりながら、嘘をついているのだ。このシリーズが腐女子に人気がある理由も、その辺の深読みを要求されるためかもしれない。
例えば合田と達夫の三角関係の頂点をなす、佐野美保子。彼女については、ミステリアスかつ官能的に、合田と達夫の視点を通して執拗に描かれるのだが、彼女自身が心情を明かす場面は、ほとんどない。合田や達夫に気持ちを打ち明ける台詞もあるのだが、あくまでも合田や達夫に語りかける台詞であり、決して独白ではない。
達夫にしても、客観的に見れば、低学歴ながら安定した生活を手に入れた勝ち組なんだよな。なんだよ手帳に100以上の女の電話番号って。すんげえリア充じゃん←妬んでます、はい。
極めつけが合田。逃げた嫁に未練タラタラ、ウジウジと思い悩みヤケ酒を喰らい、美保子に惹かれつつもその想いに戸惑って唖然とする。いかにも情けないオッサンだが、それも全ては彼自身の主観的な本人像。客観的に見れば姿勢の良い長身で高学歴、職務熱心で度胸満点(これはヤケの開き直りでもあるけど)、クールでぶっきらぼうだがそれを自覚する繊細さも併せ持つ、部下思いのツンデレさんだったりする。そういう主観と客観のギャップが、女性ファンの心に響くんだろうなあ。
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