リジー・コリンガム「インド カレー伝」河出書房新社 東郷えりか訳
書名の親しみやすさとは裏腹に、中身はとんでもなく本格的な内容である。「カレー」の成り立ちと流布を廻る、インドとイギリスの社会史・民族史・文化史を漁った、真面目な書物。日頃食べ慣れたカレーライスを期待して注文したら、山盛りのチャパティ満載の本場のターリーが出てきて、なんとかチャパティを片付けたらお替りを盛られた、そんな読書感。
ハードカバーで本文330頁程度、量的にはそう多くない。が、読み通すには相応の覚悟が要る。原注は31頁あり、その多くが出典で占められている事でわかるように、内容はとても真面目な本である。と同時に、各章の節目にレシピを挟んでいる事から、決して専門家向けの学術書というわけではなく、一般の人も読者として想定している。
ムガル帝国の王、虎のバーブル(1483~1530)は中央アジアのウズベキスタン近辺に生まれ、ヒンドゥスタン(北インド)を征服した。当時のムスリムは、食事を快楽とみなし、精力を増す肉食を奨励した。しかしカーストを重んじるヒンドゥスタンの民にとって、食事は医療的・道徳的行為であり、牛肉を食べることは「ひどく卑しい、穢れたことで、想像もつかないほど罪深いこと」だった…タテマエ上は。美食を愛するムガルの王達は、毎日の饗宴に100もの料理を並べた。そのために中央アジア・ペルシア・ヒンドゥスタンなど様々な国の料理人を抱え、彼らが互いに学びあって、ムガル料理を作り上げる。
と、まあ、一つの料理の成り立ちを説明するのに、王朝の成立から、王の持ち込んだイスラム文化と地元ヒンドゥスタン文化の対立と融合、当時の食事風景など、多くの挿話で説明していく。
ポルトガル人が新大陸から唐辛子とトマトとジャガイモを持ち込む。インド人は新しい食材をなかなか取り入れないが、唐辛子は驚異的な早さでインドに浸透する。次にやってきたのがイギリス人だ。荒稼ぎする現地イギリス人=アングロ・インディアンの生活に、インド文化が静かに忍び込む。現地人の料理人が彼らの食卓に供する様々なシチューには、個々の名前があったが、アングロ・インディアンはそれを総称して「カレー」と呼び始める。
インドでは、新鮮さを保つため、一日に使う香辛料を、毎朝挽く。これを標準化・マニュアル化してカレー粉にしたのは、本土のイギリス人だ。それによりカレーはイギリスの家庭に普及し…
などと綺麗にまとめられるほど、カレーの歴史は単純ではない。それが本書の構成に影響しているのか、話がアチコチに飛びまくるので、とにかく読みにくい。具体的なエピソードを紹介して当時の様子を再現する、という形式が文章の大半を占め、全般に著者の考察は控えめである。料理もカレーばかりでなく、チャイに一章を割いているように、インド料理全般を述べている。多くの資料を漁った真面目で誠実な労作であり、扱う内容も多岐に渡る。個々の食材の成立事情・当時の社会構造や人々の価値観・食べる人々の服装や食卓・食器の風景など、多くの具体例を挙げて、こと細かに論じている。
例えば、シルヘット人の物語。アッサムの茶の農園とカルカッタを結ぶ水路に面していたシルヘットの人々は、蒸気船の火夫として雇われた。英語が出来れば甲板で高い給料が稼げたが、出来ない者は機関室で低賃金重労働に喘いだ。外洋船に乗り込みイギリスで脱走した彼らは、イースト・エンドにネットワークを築く。彼らが集うカフェが、イギリスの「カレー」普及に大きく尽力した。
他にも「ガンディは食事に苦労したため、彼が書いたインド人留学生むけのロンドン案内書の半分以上は食事に割かれていた」とか「元ベンガル総督マーカス・サップが地元の業者に持ち込んだソースのレシピは辛すぎたが、業者が自分用に取っておいた分が熟成したら美味しい匂いがした、これがウスターソースのはじまり」など、面白い挿話が沢山収録されている。しかし、編集の工夫が足りないがために、読みやすさがだいぶ削がれている感がある。全体は10章に分かれているが、どうせなら、更に1~5頁程度ごとにわけ、それぞれが連続しつつも独立したコラムとして読める形にすればいいのに、と思う。
末尾近く、イギリスに次いでカレーが普及している国として、日本のカレー事情の紹介がある。「カレーの作り方を登場人物が熱心に議論する漫画」として「美味しんぼ」を挙げてるけど、ここは包丁人味平(1973~1977)を挙げて欲しかったなあ。ミスター味っ子でも宿命のライバルは「カレーの王子様」こと堺一馬だったよね。
と、まあ、文句タラタラではあるが、読了後にカレー専門店に駆け込んだ事は、正直に告白しておく。大変おいしゅうございました。
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