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2008年3月の4件の記事

2008年3月26日 (水)

ID論と環境保護

 時折「毎年○○種もの生物が絶滅しています!」といった論調の文章を見かける。これがどうも自分にはピンとこなかったのだが、もしやこれでは、と思いついた。

 インテリジェント・デザイン論、略してID論というものがある。生物の進化は何らかの知的な存在が恣意的に引き起こした、とする主張だ。案外と支持者は多く、というか進化論の支持者は少なく、ニュースソースによりまちまちだが合衆国市民の4割~7割が進化論を否定している。これが単に生物学の認識の違いだけに留まるなら大きな問題ではない。しかし、実はかなり大きな政治的影響があるんじゃないかと思う。

 先の「毎年○○種もの生物が絶滅しています!」という言葉を考えてみよう。進化論者にとってはたいした問題ではない。昆虫は100万を超える種があると言われているし、近年研究が進んだ線虫も同程度の種がありそうだ。そもそも生物の種なんて分化と絶滅を繰り返すものであり、気候や地形などの環境の変化に従い常に入れ替わっていく。ひとつの種が絶滅したところで、同じ生態学的な位置を別の種が占めるだけの話に過ぎない。新しい種も発生しているだろうし、トータルな種の数はあまり変わっていないはずだ。一言でまとめれば「自然界ではよくあること」となる。

 ところがID論の立場に立つと、絶滅という言葉の持つ重みが全く違ってくる。全ての種は誰かさんが作ったのであり、誰かさん以外に種を創造できる存在はない。誰かさんが再降臨すればともかく、それまで新しい種は発生しない。だとすれば、先の言葉は種の数の一方的な減少を意味する。進化論者にとって種は自然に発生したものだが、ID論者にとっては(とても賢い)誰かさんが作ったものだ。よって種を絶滅させるということは誰かさんを侮辱する行為であり、大変に傲慢で罪深く不敬な行いなのだ。

 これがID論の向こうに突き抜けて創造論となると更にタチが悪い。世界は数千年前に誰かさんが創ったという説だ。たかだか数千年の歴史しかないとすれば氷河期もなく大陸の移動もない。地球は某箱舟以来、地形も変わらず気候も変化してない事になる。今の地球の姿を創ったのが賢い誰かさんだとすれば、その姿を変えるのは大変に傲慢で(以下略)。

 だとすれば欧米の環境保護活動家が異様に活発で攻撃的なのも肯ける。彼らは人類全体の罪をあがなっているのだから。また、地球は温暖化していてその要因は人為的二酸化炭素であるとする主張の陰には、相当数のID論者・創造論者の活躍があるように思う。なぜなら創造論に従えば、現在の気候は誰かさんが注意深く設計したものであり、仮に気候が変化したなら、その要因は人間以外にありえないのだから。

 どうも話がかみ合わないと思ったら根本的なところで認識が違っていた、なんて経験は私にも多い。「先にソレを言ってくれよ」と言いたくなる事もしばしば。お互いに自分の認識が常識だと思っていると、時として痛い目にあう。

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2008年3月 9日 (日)

山本周五郎「おごそかな渇き」新潮文庫 続き

 うはは。馬鹿だ俺。最後の疑問の解は付記を見ればわかる。

 「浮かれてんじゃねーよ、武士は馬の良し悪しじゃない、戦で勝ってナンボだろ、既に関ヶ原で大勝したとはいえ豊臣は健在、いつ戦があるかわかんないんだぞ」と暗に主君を戒めた、って所かな。つまりあの演説はまんざら嘘でもなく、平和ボケしていたずらに華美を誇る風潮への批判でもあるわけで。

 山本氏は好戦的な人ではないけど、慶長という時代背景と半之丞の身分を考えれば戦の備えを優先するのは仕方ないやね。

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山本周五郎「おごそかな渇き」新潮文庫

 短編集。突然、紅梅月毛が読みたくなって借りてきた。既に5~6回は読んだにも関わらず、今回も泣けてしまった。

 時は慶長十年。家康は将軍位を秀忠に譲る祝宴の一環として、伏見城で馬術競技が開く。伊勢桑名の本多家からは家中でも馬術の名手である深谷半之丞が選ばれる。この半之丞、腕は立つが無口で周囲からも一目おかれている。馬術のみならず馬の育成も評判で、下僕の和助の妹・お梶と共に熱心に世話をして、平凡な馬を名馬に育て上げる。関ヶ原では愛馬の紅梅月毛を駆り大手柄を立てたものの、紅梅月毛は戦場ではぐれ行方知らずとなってしまった。

 晴れ舞台ということで家中の馬自慢が己の馬を半之丞に乗ってもらおうと押しかけるが、徳川秀忠にさえ所望された名馬・牡丹を老臣の松下河内が差し出すに到り、誰もが納得して引き上げる。牡丹を曳いて家に戻ると、松下の娘・阿市が牡丹の世話係として下女を連れ押しかけてきた。名家の娘にもかかわらず阿市は甲斐甲斐しく牡丹の世話をする。あでやかで明るい阿市は自然と深谷の家に馴染むが、和助兄妹はなんとなく取り残されてしまう…

 無口で実直な半之丞を廻る、お梶と阿市の恋の鞘当も楽しいけど、やっぱり馬でしょう。最後の一頁がひたすら切ない。

 以降、ネタバレなのでそのつもりで。まあ、ネタが割れても充分に楽しめる作品ではあるけど、一応。

 実は三つ疑問が残ってる。とりあえず今の解釈。

  1. なぜ半之丞は予め言わなかったのか:無口だから…じゃ面白くない(をい)。半之丞の選択は身勝手な我侭であり、決して本多家の為ではない事を自覚している。打ち明けてしまえば彼女も共犯となる。自分の身勝手に彼女を巻き込みたくなかった。
  2. なぜ半之丞は最後に打ち明けたのか:事は終わり巻き込む心配もなし、最も大切なナニを預けたワケで、馬にかこつけ…言うだけヤボだね。
  3. なぜ半之丞は競技で真相を話さなかったのか:これが一番わからない。冒頭の関ヶ原のエピソードも考えれば、あの熱弁は完全な嘘じゃないんだろうけど。家臣の教育不徹底のカドで主君に累が及ぶのを避けたかった、ってのが今の私の解釈。でも、なんか釈然としないんだよね。半之丞は無口がウリなワケで、その彼がゴマカシの為に熱弁を振るうってのは自分でも納得いかない。解説には「軍部にへつらう文壇への風刺」とあるけど、この作品の爽やかさには似合わない気がする。盛り上げるための山本氏の演出ってのも下世話すぎるし。「そりゃ速くはないさ、でも俺はコイツとやってきたんだ、今だって俺とコイツが組めば…」みたいな相棒への想い、なのかなあ。

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2008年3月 3日 (月)

ガチ☆ボーイ

気持ちのいい青春映画。テーマが学生プロレスなので、どちらかというと男性向け。

北海道の某大学の弱小プロレス同好会はメンバーが集まらず解散の危機に瀕している。プロレスといってもガチンコではなく、段取りを決めて「らしい」演技をする、格闘技というよりコメディに近い、安全第一がモットーの、まさしく学生のお遊びサークルだ。

今年も新入生向けにデモンストレーションの試合をするも、入会希望者はなし。そこに一人の男が入会を希望してきた。ひょろっとした長身、何かにつけポラロイド写真を取るクセ、いつまでたっても妙に丁寧でオドオドした態度。司法試験一次合格という秀才の割に試合の段取りの覚えは悪く、先輩相手の試合では本気になってしまう。ところが不思議と彼の試合は観客にウケがよく、試合を重ねる毎に人気者になってゆく。

前田有一氏のサイトのレビューを見て、気になっていた。「伏線が、プロレス試合の中でピタピタと回収され」って、どういうことなんだろうと。見て納得。

とにかく伏線の張り方が巧い。いかにも伏線という感じではなく、何気ない脱力ギャグや日常のサークル活動シーンに埋め込まれ、かつ見る者の印象に残る形で張られている。それらが試合の中で見事に回収され、怒涛の30分が押し寄せる。あの試合、中盤の主人公の台詞をそのまま表現してるんだ。そりゃアツくなるよ。

ラストはもうこれっきゃないでしょ的な感じで見え見えなんだけど、それでもやっぱり泣いてしまう。幼い頃、特撮ヒーロー物の必殺技の炸裂を待ちわびる、あの高揚感に似ている。

アツくて、気持ちがよくて、ちょっとホロ苦い、元気が出る映画。みんな、一生懸命いきてるんだよね。

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