2023年12月 1日 (金)

デヴィッド・グレーバー「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」岩波書店 酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳

本書を書くことは、ある政治的な目的に奉仕することでもある。
  ――序章 ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)現象について

ブルシット・ジョブのばあい、三つの問いを立てることができる。

  1. 個人的な次元。なぜ人びとはブルシット・ジョブをやることに同意し、それに耐えているのか?
  2. 社会的・経済的次元。ブルシット・ジョブの増殖をもたらしている大きな諸力とはどのようなものか?
  3. 文化的・政治的次元。なぜ経済のブルシット化が社会問題とみなされないのか。なぜだれもそれに対応しようとしていないのか。
  ――第5章 なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?

真の完全雇用は強力な「賃金上昇圧力」をもたらすために、ほとんどの政策立案者が実質的にはこの理想の完全なる達成を望まない。
  ――第5章 なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?

アメリカ大統領エイブラハム・リンカーンの1861年の一般教書演説
「資本は、労働の果実に過ぎず、そもそも労働が存在しなければ、その存在もあり得ない。労働は資本に優っているのであって、はるかに敬意を払うべきなのである」
  ――第6章 なぜ、一つの社会としてのわたしたちは、無意味な雇用の増大に反対しないのか?

【どんな本?】

 ブルシット・ジョブ。クソどうでもいい仕事。著者はこう定義する。

最終的な実用的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完全に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうでないと取り繕わなければならないように感じている。
  ――第1章 ブルシット・ジョブとはなにか?

 「シンドいけど稼げない仕事」では、ない。例えばビル清掃は低賃金だが、建物を美しく清潔に保ち、ビル利用者の体と心の健康に役立つ。よってブルシット・ジョブではない。そうではなく、明らかに何の役にも立たない、資源と時間の無駄遣いでしかない、それどころか自分の本業や他人の邪魔にしかならない。でも、世の役に立つフリをしなきゃいけない、そんな仕事だ。往々にしてホワイトカラーに多い。

 IT革命でホワイトカラーの仕事は減っているハズだ。算盤は電卓からExcelになったし。でも、世間じゃ過労死が話題になっている。なぜ労働時間は減らない? おかしくないか? 技術革新で、私たちの仕事は楽になるハズなのに。

 というか、どうもこの世界には妙な法則があるようだ。

他者のためになる労働であればあるほど、受け取る報酬がより少なくなるという一般的原則
  ――第6章 なぜ、一つの社会としてのわたしたちは、無意味な雇用の増大に反対しないのか?

 著者はブルシット・ジョブを主題とした小論文を発表し、その意外な反響に驚いた。著者が思ったよりはるかに多くの人が、自分の仕事はブルシットだと感想を寄せたのだ。そして、もちろん、強烈な反論もあった。

 ブルシット・ジョブに就いていた人の体験談や、反論への著者の応答もまとめ、そもそも働くとは何か、私たちは仕事をどう思っているか、何を仕事に期待しているのか、そんな発想をいつどこで吹き込まれたのかなど、私たちが抱えている常識を根底から掘り起こしつつ、ブルシット・ジョブに現れる私たちの思想と社会の構造の根幹を明らかにし、よりよい社会を夢想する一般向けの啓蒙書。

 あ、当然、岩波書店なんで、そういう思想の偏りはあります。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Bullshit Jobs : A Theory, by David Graeber, 2020。日本語版は2020年7月29日第一刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約364頁に加え、酒井隆史による訳者あとがき22頁。9.5ポイント48字×21行×364頁=約366,912字、400字詰め原稿用紙で約918枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 書名の親し気な印象に反し、意外と文章は硬い。それもそのはず、学者(文化人類学者)の書いた本で、訳者も学者だ。よって訳文も、著者の意図を正確に伝えようと工夫しているが、親しみやすさは犠牲になった。ただ、内容は難しくない。アルバイトであっても働いた経験があれば、「あるある」と身につまされる話も多い。

 マックス・ウェーバーやカール・マルクスなど歴史上の学者や有名人の名前や言葉も出てくるが、知らなくても大丈夫。ちゃんと本文中に説明がある。また、「バイス・プレジデント・フォー・クリエイティヴ・ディベロプメント」みたくカタカナの偉そうな単語もあるけど、「なんか小難しくてご大層だよな」程度に思っていれば充分。だってぶっちゃけハッタリだし。

【構成は?】

 学者の書いた本だけあって、前の章を受けて後の章が展開する形だ。だから、できれば頭から順に読む方がいい。

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  • 序章 ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)現象について
  • 第1章 ブルシット・ジョブとはなにか?
  • 第2章 どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか?
  • 第3章 なぜ、ブルシット・ジョブをしていいる人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか? 精神的暴力について 第1部
  • 第4章 ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか? 精神的暴力について 第2部
  • 第5章 なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?
  • 第6章 なぜ、一つの社会としてのわたしたちは、無意味な雇用の増大に反対しないのか?
  • 第7章 ブルシット・ジョブの政治的影響とはどのようなものか、そしてこの状況に対してなにをなしうるのか?
  • 謝辞/原注/訳者あとがき/参考文献

【感想は?】

 そう、文章はお堅い。だが、笑える所も多い。そういう点で、通勤列車では読めない本だ。物理的にも重いし。

 なんといっても、主題の「ブルシット・ジョブ」を定義する「第1章 ブルシット・ジョブとはなにか?」が長すぎる。学者らしく、定義の厳密さにこだわっているのだ。ここで私は、「著者は真剣に読むよう求めてるんだな」と覚悟を決めた。

 続く第2章でも、とりあえずブルシット・ジョブの分類を試みる。

ブルシット・ジョブを五つに分類する(略)
取り巻き(flunkies)、脅し屋(goons)、尻ぬぐい(duct tapers)、書類穴埋め人(box tickers)、タスクマスター(taskmasters)と呼ぶつもりだ。
  ――第2章 どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか?

 …のだが、実はこの分類、あまし後の章では意味をなさない。せいぜい「取り巻き」や「脅し屋」なんて言葉の説明になっているって程度。まあ、「とりあえず分類する」のが文化人類学のオーソドックスな手法なんだろう。

 なんてお堅い学問の手法に沿って書かれた本だが、文中で大量に紹介している、「ブルシット・ジョブの経験者」たちの話が楽しすぎる。いや本人にとっては笑い事じゃないんだが、たぶん多くの人が経験している(けど大っぴらには話せない)エピソードの連続で、やっぱり笑っちゃうのだ。そうだよね、lynx(→Wikipedia) は暇なホワイトカラーの心強い友だよねw

 加えて、日頃から「そうじゃないかな」と思ってたのが、「やっぱりそうだった」と納得できる挿話も楽しい。例えばWebのバナー広告。あれウザいだけで見る奴なんかいるのか、と思ってたが…

バナー広告の制作販売をしている企業(活動)は、すべて基本的に詐欺だということだ。広告を販売する代理店の保持する調査からは、ウェブ閲覧者は〔広告を〕ほとんど気にも留めず、それらをクリックすることなどほぼ皆無だということがはっきりしているそうだ。(略)
問題はただ顧客の〔自己〕満足のみだった。
  ――第4章 ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか? 精神的暴力について 第2部

 わはは。やっぱりいなかった。しかも、広告代理店も知ってるのがタチが悪い。結局、広告は広告主の自己満足でしかないらしい。

 もっとも、笑っていられるのは他人事だからで、自分が無意味な書類を作ったり無意味な会議に出る立場となると、なんともムカつくものだ。せめて「頭数を揃えるため、要は群集のエキストラ」とハッキリ言われれば納得しようもあるんだが、無駄な広告のために真面目に考えるフリして企画会議で発言せにゃならんとなると…。

 そんな気持ち、ちょっと前なら「もにょる」とか表してたが、その原理や原則を明らかにしてくれるのは嬉しい。

他人のつくった、ごっこ遊びゲームに参加しなければならないということは、やる気を挫くものなのだ。
  ――第3章 なぜ、ブルシット・ジョブをしていいる人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか? 精神的暴力について 第1部

 そう、誰かが「真面目な会議のフリ」を求めてて、それに付き合わされているからムカつくのだ。せめて広告が実際に売り上げを増やしてるならともかく、ペテンだし。

 それでも、高い給料を貰ってるなら嬉しいよね、と私たちは考える。

ひとというものは働かず大金をもらえるのなら無条件に嬉しいものである、ともわたしたちは慣習的に考えているのだ。
  ――第3章 なぜ、ブルシット・ジョブをしていいる人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか? 精神的暴力について 第1部

 が、意外とそうでもない。実際、追い出し部屋(→Wikipedia)なんてのが話題になった。

自由な意思にゆだねられた状況において、有益なことがなにもできないとなると、ひとはそれ以上に憤りをおぼえるものなのです。
  ――第3章 なぜ、ブルシット・ジョブをしていいる人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか? 精神的暴力について 第1部

無意味さはストレスを悪化させる
  ――第4章 ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか? 精神的暴力について 第2部

 まあ、追い出し部屋は「クビを切りたいけど切れない」という、企業の利益に基づいた側面もある。だが、どう考えても誰の利益にもならない、企業の利益にすらならない仕事も多い。それも、著者の予想を超えて多かった。そこで…

わたしの第一の目標は、社会的効用や社会的価値の理論を展開することではなく、私たちの多くが自分の仕事に社会的効用や社会的価値が欠けていると内心考えながら労働している事実のもたらす、心理的、社会的、そして政治的な諸効果を理解することにある。
  ――第2章 どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか?

 ブルシット・ジョブが、その従事者や社会にどんな影響を及ぼすのか。著者はそれを考え、追及する。

 どうも雇用側は、少なくとも日本の企業は、ブルシット・ジョブが従事者に与える影響を判っていたんだろうなあ。だから追い出し部屋なんて手を使った。その効果とは…

ブルシット・ジョブは、ひんぱんに、絶望、抑うつ、自己嫌悪の感覚を惹き起こしている。それらは、人間であることの意味の本質にむけられた精神的暴力のとる諸形態なのである。
  ――第4章 ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか? 精神的暴力について 第2部

 加えて、職場全体の雰囲気も悪くする。

職場の人びとに見られる攻撃性とストレスの度合いは、かれらが取り組んでいる仕事の重要性に反比例する
  ――第4章 ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか? 精神的暴力について 第2部

 ブルシットな職場は、そこで働く者も嫌な奴にしてしまうのだ。案外と、学校でのいじめも、こういう原因、つまり学校で学ぶ事柄に意味を見いだせないから…と思ったが、いじめっ子って、妙に学校が好きなんだよなあ。あれ、なんでなんだろうね。

 まあいい。いずれにせよ、ブルシット・ジョブが増えるのは、ロクなもんじゃない。例えば、最近の映画は委員会方式で資金を調達してる。で、パトロンは映画に何かと口出しする。その結果…

映画愛好家はもちろん、映画を観る人間によってすら映画がつくられることがなくなった
  ――第5章 なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?

 なんて映画ファンには悲しい状況になってしまった。アニメ好きなら、某け〇フレ騒動が記憶に新しい。音楽もそうで、だいぶ昔から日本の音楽番組は…いや、やめとこう。

 なんでこんな世の中になったのか。著者は善行信号(Virtue Signaling)(→Wikipedia)とかを持ち出すが、正直言って私はあまり納得できなかった。たぶん、あまし他人の善行信号が気にならない性格だからかも。いや善行信号を出せる資産と知名度は妬ましいんだが。

 最終章で一応の対応策の叩き台を示すんだが、著者は自信なさげだし、言い訳もしてる。

本書は、特定の解決策を提示するものではない。問題――ほとんどの人びとがその存在に気づきさえしなかった――についての本なのだ。
  ――第7章 ブルシット・ジョブの政治的影響とはどのようなものか、そしてこの状況に対してなにをなしうるのか?

 主題は「問題がある」と指摘することで、解決策はみんなで考えようよ、そういう姿勢だ。もっとも、著者が示す叩き台の根底にある思想が、私が大好きなSF作家ジェイムズ・P・ホーガンの傑作「断絶への航海」と通じるものがあって、密かにニヤニヤしてしまった。SNSで「いいね」を求める気持ちとか、確かにそうだよなあ

 …って、話がズレた。

 最後にもう一つケチをつけよう。巻末の原注が面白すぎる。「パレスチナ問題が解決したら多くのNGOや国連職員が存在価値を失う」とか、「ベルギーは長い政治空白(→Wikipedia)があったが流行りの緊縮財政の悪影響を受けずに済んだ」とか。こういう楽しい挿話は、本文中に書いてくれ。読み逃しちゃうじゃないか。

 岩波書店にふさわしい思想の偏りはあるが、私たちが自分でも気づかなかった思い込みに気づかされるのは、脳みその溝に溜まった澱を洗い流されるようで、なかなか気持ちよかった。無駄な書類仕事などのブルシット・ジョブを多少なりとも抱えている人なら、同士に出会えて「お前とはいい酒が飲めそうだ」な気分になるだろう。

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2023年11月26日 (日)

クレイグ・ウィットロック「アフガニスタン・ペーパーズ 隠蔽された真実、欺かれた勝利」岩波書店 河野純治訳

本書は、アメリカのアフガニスタンでの戦争の(略)どこが間違っていたのか、そして三人の歴代大統領とその政権がどのように真実を語らなかったのかを説明する試みである。
  ――序文

(トランプ)大統領は、秘密主義の強化を、敵を不安にさせておく戦術として、正当化した。しかし、方針の転換には別の目的があった。(略)戦争のことがあまり目に入らないようになれば、戦争がさらに悪化しても、トランプや彼の将軍たちが批判される可能性は低くなる。
  ――19 トランプの番

B-52とF-22はそれぞれ、運用するのに1時間あたり3万2千ドル以上の費用がかかる。しかも弾薬の費用は別である。
  ――20 麻薬国家

(2021年)4月14日、(合衆国大統領)バイデンは(略)2021年9月11日までに――9.11攻撃の20周年――すべてのアメリカ軍をアフガニスタンから撤退させることを約束した。
  ――21 ターリバーンとの対話

【どんな本?】

 2001年9月11日の同時多発テロに対し、合衆国は復讐に燃えた。同年9月14日、議会はアル=カーイダ&支持者への軍事力使用を認める。上院は98対0、下院は421対1。反対したのはカリフォルニア州選出で民主党のバーバラ・リード(→Wikipedia)だけ。

 だが当初の目論見とは異なり、戦いは長引く。盛り返したターリバーンは2021年に首都カーブルを奪取、同年8月30日に米軍は撤退した。

 アフガニスタン復興担当特別監察官(SIGAR)事務局(→Wikipedia)は合衆国の政府機関だ。目的は、米国が将来間違いを繰り返さないため、アフガニスタンにおける政策の失敗の原因を突き止めること。そのため、戦争に関わった数百人にインタビューし、その声を集めた。

 これに加え、開戦当時の国防長官ドナルド・ラムズフェルドが残した多数のメモや、バージニア大学付属機関ミラー・センターが集めたジョージ・W・ブッシュ政権関係者のインタビュー記録を、著者は手に入れる。

 これらの記録から浮かび上がってくるのは、アフガニスタンに対する合衆国政府の杜撰で迷走した政策であり、また合衆国国民への欺瞞に満ちた態度である。

 アフガニスタンで、合衆国は何をどう間違えたのか。もっと早く戦争を終わらせる方法はあったのか。そして、国民にどんな嘘をついたのか。

 ワシントン・ポスト紙の調査報道記者が、大量の資料から政府の欺瞞を暴く、衝撃のドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Afghanistan Papers : A Secret History of the War,by Craig Whitlock, 2021。日本語版は2022年6月24日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約311頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント52字×19行×311頁=約307,268字、400字詰め原稿用紙で約769枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらい。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない…と思うのは、私が911に衝撃を受けた世代だからかも。つまり、911以降の世界のニュースを熱心に見ていた世代なので、出てくる人名や事件に馴染みがあるからだ。若い人にとっては、知らない人や事件が続々と出てくるので、ちと辛いかも。

【構成は?】

 話は時系列順に進むのだが、各章はほ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。ただし、序文だけは読んでおいた方がいいだろう。

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  • 序文/アフガニスタン地図
  • 第1部 誤った勝利の味 2001~2002
    • 1 混乱した任務
    • 2 「悪者は誰だ?」
    • 3 国造りプロジェクト
  • 第2部 大きな動揺 2003~2005
    • 4 アフガニスタンは後回しになる
    • 5 灰の中から軍隊をよみがえらせる
    • 6 超初心者でもわかるイスラム教
    • 7 二枚舌
  • 第3部 ターリバーンの復活 2006~2008
    • 8 嘘と情報操作
    • 9 一貫性のない戦略
    • 10 軍閥
    • 11 アヘンとの戦争
  • 第4部 手を広げすぎたオバマ 2009~2010
    • 12 倍賭け
    • 13 無限の資金の暗い穴
    • 14 友人から敵へ
    • 15 腐敗にとりつかれて
  • 第5部 崩壊 2011~2016
    • 16 真実との戦い
    • 17 内なる敵
    • 18 大いなる幻想
  • 第6部 膠着状態 2017~2021
    • 19 トランプの番
    • 20 麻薬国家
    • 21 ターリバーンとの対話
  • 謝辞/情報源に関する注記/注/訳者あとがき/参考文献/索引(事項索引・人名索引)

【感想は?】

 感触は、呆れるほど「ベスト&ブライテスト」や「ベトナム戦争全史」に似ている。

 もう一つ、「アメリカの卑劣な戦争」とも。その記事で書いたように、「卑劣な戦争」より「間抜けなテロ対策」が相応しいんだけど。この流儀で言えば、本書は「アメリカの失敗だらけのアフガニスタン政略」かな。

 序文にあるように、本書はアフガニスタン戦争の全体を見渡す内容じゃない。だもんで、戦記は期待しないように。そうではなく、米ホワイトハウスのアフガニスタン戦争の政策・戦略がいかに間違いだらけだったか、そしてその間違いと失敗を国民に隠し続けたかを告発する本だ。

 流れは全章がほぼ同じ。米政府が政策を掲げる→現場が実施して失敗する→政府は失敗を隠す。こればっか。だから、ぶっちゃけどこから読んでも、似たようなストーリーが延々と続くだけだ。ブッシュJr,オバマ,トランプとキャラは変わるし、それに伴い政策/戦略の方向性も違ってくるが、お話の流れはほぼ同じで、どんどん深みにはまっていくだけ。

 そもそも、最初から酷かった。CIA長官から国防長官になったロバート・ゲイツ(→Wikipedia)曰く。

「実を言うと、911同時多発テロの時点で、われわれはアル=カーイダのことを、まったく知らなかった」
  ――2 「悪者は誰だ?」

 他ならぬCIAのボスがコレだもんなあ。にも拘わらず、敵はアフガニスタンと決めつけ、軍の派遣を決める。とはいえ、大軍は送らず、少数の軍で軽く蹴散らせると踏んでいた。国造りには関わらないとブッシュJrは語るが、最終的には…

2001年から2020年のあいだに、ワシントンはこれまでのどの国よりもアフガニスタンの国造りに多くを費やし、復興、援助プログラム、アフガニスタン治安部隊に1430憶ドルを割り当てた。インフレ調整後の金額に直すと、これは第二次世界大戦後のマーシャル・プランにおいて、アメリカが西ヨーロッパで費やした金額を上回っている。
  ――3 国造りプロジェクト

 こうなった原因はいろいろあるが、最も呆れるのは先のロバート・ゲイツの言葉が見事に象徴している。つまり、アフガニスタンについて何も知らず、知ろうともせず、何より知る必要があるとすら考えなかった点だ。

 上がこれだから、米軍の将兵も現地について何も知らない。そのため、色々とマズい対応をしながらも、少しづつ学んでゆく。例えば…

全国的な慣習として、部族の長老やアフガニスタン軍の将校たちは、他の男と手をつないで歩きまわることによって、友情と忠誠を示した。
  ――6 超初心者でもわかるイスラム教

 まさしく「俺たちは手を組んでるんだぜ」と態度で示すのだ。欧米人にとっちゃ気色悪いかもしれんが、そういうモンなんだろう。こういう、米国政府や軍が自分たちの文化は地球上で唯一絶対のものだと思い込んでいるらしいのは、アフガニスタン軍の兵士が米軍が用意したトイレを壊しまくったり、食事の様式などの話で痛いぐらい伝わって…いや、和式便所を知らない若い人には通じないかも。

 そんなんだから、肝心のターリバーンについても、ほとんどわかっておらず、軍を派遣してから現地の軍人に尋ねている。

アフガニスタン軍の将軍
「ターリバーンには三種類ある」
一つ目のターリバーンは「過激なテロリスト」だ。
もう一つのグループは「自分たちのためだけに参加」している。
あとの一つは「他の二つのグループの影響を受けた貧しい人々、無知な人々」だ。
  ――8 嘘と情報操作

 私の解釈だが、「過激なテロリスト」がターリバーンの中核だろう。「自分たちのためだけに参加」しているのは、軍閥や族長たちが旗色の良い側についただけ。最後は、文字通り。

 その「自分たちのためだけに参加」しているのが、軍閥。本書で出てくるのはアブドゥルラシード・ドゥースタム(→Wikipedia)ぐらいで、グルブディン・ヘクマティアル(→Wikipedia)はもちろんアフマド・シャー・マスード(→Wikipedia)すら出てこない。基本的に米国政府に焦点を当てた本であって、アフガニスタン情勢を語る本じゃないのだ。

 それはともかく、ドゥースタムの評価は「ホース・ソルジャー」と異なり、マフィアの親分みたいな扱いだ。ドゥースタムに限らず、地元の者にとって軍閥は気まぐれな暴君って感じで、嫌われている。対してターリバーンは、少なくとも法に基づいているだけマシらしい。

ジャーナリスト&米軍民間顧問サラ・チェイズ
「ターリバーンが軍閥を追い出してくれたことに、国民が興奮していたとは、われわれは知らなかった」
  ――10 軍閥

 いずれにせよ、こういった事情を現地の者に虚心に尋ねれば教えてくれるのだ。それどころか、しつこく求められてすらいた。やはりロバート・ゲイツ曰く。

「われわれがカルザイ(アフガニスタン大統領)と大げんかをしたり、カルザイが公の場で怒りを爆発させるときはいつも、その問題について何か月も非公式にわれわれに相談していた」
  ――14 友人から敵へ

 言われたけど聞いちゃいなかったのである。あなたの周りにもいませんか、そういう上司。

 それでも、上司として優れた仕事をしているなら、部下も不満を押し殺すだろう。でも、肝心の政策決定者がすべき仕事、政策決定者だけしかできない仕事がほったらかしだった。

イギリス軍デビッド・リチャーズ中将
「われわれは単一の一貫した長期的アプローチ――適切な戦略――を手に入れようとしていたが、代わりに手に入れたのは、たくさんの戦術だった」
  ――9 一貫性のない戦略

 戦争を始めるには、まず何のために戦争するのか、目的をハッキリさせなきゃいけない。次に具体的な目標を決める。何が実現したら勝利と見なすのか。そのいずれも、政府は明らかにしなかった。というか、本人たちも解ってなかった。そういう事だ。だから、迷走するのも当たり前なのだ。

 だったら、せめて黙っててくれりゃいいのに、何かと口出ししてくるから困る。

「われわれは、まずいアイデアをたたき落すのに、ひじょうに多くの時間を費やした」
  ――20 麻薬国家

 あなたの周りにも…いや、もういいか。

 さて、戦争の方針だ。政策と戦略、目的と目標に加えて、できれば目標達成の指標もあるといい。それがあれば、現在の戦況の良し悪しが分かる。ウクライナ戦争のように、土地の取り合いなら、地図を見ればわかる。でも、フガニスタンの戦争は、元から目的が不明だった。いや、一応の指標を示した人もいるんだけど…

米外交官ジェームズ・ドビンズ
「(戦争の勝敗の)重要な基準は(略)何人のアフガニスタン人が殺されているかです」
「数が増えれば負けている。数が減れば勝っている」
  ――16 真実との戦い

 ところが、この指標に基づいて戦況を語ると、非常にマズい事になる。というのも…

2009年から2011年のあいだに、アメリカ軍がアフガニスタンに増派されると、民間人の年間死亡者数は2412人から3133人に増加した。合計は2012年には減少したが、2013年には増加し、2014年も増加し続け、死者数は3701人に達した。
  ――16 真実との戦い

 一応、米政府の目論見としては、アフガニスタンに中央集権型の民主的政府を作り、米軍が手を引いた後は彼らに任せるつもりだったのだ。ベトナムと同じだね。ところが、肝心のアフガニスタン軍の将兵は…

多くの(アフガニスタン軍)兵士が最初の給料をもらうと姿を消した。(再び)現れる者もいたが、彼らは制服、装備、武器を持っていなかった。追加の現金を得るために売り払っていたのだ。
  ――5 灰の中から軍隊をよみがえらせる

 そもそも読み書きすらできない者が大半だったし、ヤル気もなかったんだろう。実際、逃げて正解だったようだ。

研究者の計算によると、2019年11月までに、6万4千人以上の制服を着たアフガニスタン人(=兵士と警察官)が戦争中に殺されたという――アメリカ軍とNATO軍の死傷者の約18倍である。
  ――17 内なる敵

 亡くなった彼らのために、米政府は何かしたんだろうか。

 明確な政略がない上に、戦略レベルでもベトナムと同じ間違いを犯している。

米外交官リチャード・ホルブルック
「(ベトナム戦争とアフガニスタン戦争の)最も重要な類似点は、どちらの場合も、敵が隣国に安全な聖域を持っていたという事実だ」
  ――12 煤賭け

 中国の人民解放軍は農村に隠れた。ベトコンは北ベトナムを聖域とした。タリバンの聖域はパキスタンだ。そのパキスタン政府、というかISI(パキスタン軍統合情報部)は、米から予算を受け取りつつ、ターリバーンを匿い続けた。その動機を本書は明かしていない。「シークレット・ウォーズ」によると、アフガニスタンからインドの影響を追い出すことらしい。

 まあ、パキスタンにも言い分はあるのだ。彼らは彼らの利害と戦略に基づいて動く。

ISI(パキスタン軍統合情報部)長官アシュファーク・キヤーニー中尉
「われわれは二股をかけている。なぜなら、いつかはあなたたちはまた去っていくからだ」
  ――7 二枚舌

 米は一時的な都合で関わっているが、パキスタンは建国以来の仮想敵インドと今後も睨みあわにゃならん。という本音は押し隠し、カネだけむしり取ってたんだな。

 こういった事情を知らぬまま、軍は政権の方針に従って動く。ブッシュJrは兵を出し惜しみした。まあイラクにリソースを奪われたのもあるが。対してオバマは増派を決めるが、撤退時期も明言した。当然、ターリバーンは考える。「暫く身を潜めてりゃ奴らは帰る」。

 また、ケシの栽培が蔓延したのもヤバかった。焼き払おうとしたが、これも恨まれるだけに終わる。

ウィスコンシン州兵ドミニク・カリエッロ大佐
「ヘルマンド州の人々の収入の90%は、ケシの販売によるものだ。われわれはそれを取り上げようとしている」
「彼らは武器を手に取り、あなたを撃つだろう。なにしろ生計の手段を奪われたのだから」
  ――11 アヘンとの戦争

 「ケシ栽培をやめりゃ補助金出すよ」政策も打ち出したが…この辺の顛末は、現地住民の賢さに舌を巻いてしまう。学はなくても、したたかなのだ。

 他にもオバマ政権はカネをバラ撒いて現地住民を懐柔しようとするが…

アメリカとカナダの軍隊が村人に月90ドルから100ドルを支払って灌漑用水路を掃除させた。
(略)この地域の教師の収入ははるかに少なく、月に60ドルから80ドルしかなかった。
「それで、まず学校の教師が全員仕事を辞めて、溝堀りに加わった」
  ――13 無限の資金の暗い穴

 うん、まあ、そうなるか。おまけにバラ撒いたカネが元で、現地には腐敗が蔓延してしまう。例えば…

腐敗の唯一最大の発生源は、アメリカ軍の広大な供給網だった。国防総省は、アフガニスタンおよび国際的な請負業者に金を支払って、毎月トラック六千台から八千台の(略)物資を戦争地帯に届けていた。(略)
トラック業者は軍閥指導者、警察署長、ターリバーン司令官に多額の賄賂を支払い、地域を安全に通過できるように保証してもらった。
  ――15 腐敗にとりつかれて

 パキスタンのカラチ港からアフガニスタンの各地まで、多くの物資をトラックで運んだのだ。そういや「戦場の掟」で、イラクじゃ「なぜかトレーラー・トラックの運転手はパキスタン人が多」かった。その理由は、アフガニスタン戦争で従事した運転手がイラクに出稼ぎに出たから、なんだろうか。

 それはともかく、米が出したカネは最終的にターリバーンの懐を潤してたんだから、なんとも情けない。

 ってな具合に、ズルズルと長引く戦争に、911当時は怒りに燃えてた米市民も飽きが来る。

2014年12月のワシントン・ポストとABCニュースの合同調査によると、この戦争は戦う価値があると考えているのは国民の38%だけになっていた。紛争の開始時には国民の90%が戦争を支持していたのにである。
  ――18 大いなる幻想

 市民とは、なんとも無責任で気まぐれなものだ。もっとも、だからこそ戦争をやめられたんだが。

 他にも、頻繁な人事異動や部隊の入れ替えで、やっと現地の事情に通じた者が育ったのに帰国して、新しく来た奴は何も知らないとか、最初の事情説明じゃアラビア語を教えられたとか、間抜けな話がてんこもり。米国ってのは、軍は強いのに政府は戦争が下手だよなあ、とつくづく感じる本だった。それでも、SIGAR みたいな組織を作り、今後の政策に活かそうとする姿勢は羨ましくもあるんだよね。

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 いろいろ挙げたいんだが、敢えて記事中に出てくる本は外した。

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2023年11月12日 (日)

ニコラス・マネー「酵母 文明を発酵させる菌の話」草思社 田沢恭子訳

太古の時代、人類は酵母とどんなふうに依存しあっていたか、歴史の中で微生物と人間が互いをどう導いてきたか、そして21世紀に入り、両者の関係がいかに発展しているか。本書はこれらのテーマについて語る。
  ――第1章 はじめに 酵母入門

ヒトゲノムは酵母ゲノムよりも大きいが、そのうちタンパク質に翻訳されるのは2%にすぎないのだ。
ヒトはおよそ1万9千個の遺伝子をもつが、ジャンクDNAが圧倒的に多い。
  ――第4章 フランケン酵母 細胞

タマネギはヒトの5倍のDNAをもつ
  ――第4章 フランケン酵母 細胞

カリフォルニア州にあるボルト・スレッズという会社は、クモの遺伝子を導入した酵母を発酵槽内で育ててクモの糸を作らせ、衣料品製造用の合成シルク繊維を取り出している。
  ――第5章 大草原の小さな酵母 バイオテクノロジー

【どんな本?】

 酵母は働き者だ。穀物や果実のデンプンや糖分からアルコールを生み出し、小麦粉を膨らませて柔らかいパンにする。ヒトが狩猟採集生活から農耕中心の定住生活に移った原因は酒だと主張する説もあり、だとすれば文明の発達の足掛かりを作ったのは酵母ということになる。

 その酵母とは、どんなシロモノなのか。どんな所に棲んでいて、どう増え、どんな性質があるのか。パンが膨らむ時、パン生地の中では何が起きているのか。酒とパンの他には、どう利用されているのか。最近の遺伝子科学/工学の進歩は、酵母の研究/利用に、どんな変化をもたらしているのか。

 イギリス生まれでマイアミ大学の生物学教授を務める著者が、持ち前の菌類への愛を炸裂させた、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Rise of Yeast: How the Sugar Fungus Shaped Civilization, by Nicholas P. Money, 2018。日本語版は2022年3月1日第1刷発酵もとい発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約233頁に加え訳者あとがき2頁。9.5ポイント41字×17行×233頁=約162,401字、400字詰め原稿用紙で約407枚。文庫ならやや薄めの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。生物学、それも真菌をテーマとした本だが、中学卒業程度の理科の素養があれば充分に読みこなせるだろう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけをつまみ食いしてもいい。ただし、でっきれば「第1章 はじめに 酵母入門」だけは最初に読んでおこう。酵母の基本的な知識が書いてあるので、他の章の基礎となる部分だ。

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  • 第1章 はじめに 酵母入門
    酵母の発見/化学的に見た定義/酵母遺伝子の革命/発酵という魔術/最先端研究のモデル/バイオエネルギーへの貢献/人体にもたくさん存在する
  • 第2章 エデンの酵母 飲み物
    野生の酒宴/酔っぱらったサル/最初のアルコール依存症/最古の醸造/酵母と人類の遺伝子/移動する酵母/ハエも酔っぱらう
  • 第3章 生地はまた膨らむ 食べ物
    パンができるプロセス/酵母製法の発展/酵母の産業化/チョコとコーヒー/酵母そのものを食べる/食用酵母の驚くべき展開/マーマイトと宗教
  • 第4章 フランケン酵母 細胞
    酵母と発酵の構造を理解する/遺伝子レベルで調べる/不要なDNAがたくさん?/酵母の結晶/酵母を改造する
  • 第5章 大草原の小さな酵母 バイオテクノロジー
    バイオ燃料の生産風景/コスト評価/サトウキビを使う/バイオ燃料用に改良される酵母/廃棄物を食べる酵母がいれば/マラリア、糖尿病との意外な関係/ドラッグへの悪用
  • 第6章 荒野の酵母 酵母の多様性
    ミラー酵母/残忍な仲間たち/粘液の痕跡に潜む酵母/水中や高温下にもいる/ノーベル賞と酵母/ワインに欠かせない分裂酵母
  • 第7章 怒りの酵母 健康と病気
    サッカロミセス感染症/文豪も入れ込んだ発酵乳/人体内でアルコールが生成される!?/炎症性腸疾患との関係/喘息と酵母/膣内酵母/重篤な症状を引き起こす酵母/頭皮のフケにも酵母あり
  • 訳者あとがき/図版一覧/原注/用語集

【感想は?】

 著者は生物学それも菌の学者ながら、一般向けの解説書の著作が多い。そのためか、素人向けの説明はなかなか巧みだ。

 先に書いたように、各章はほぼ独立している。とはいえ、「第1章 はじめに 酵母入門」だけは、最初に読むのを勧める。タイトル通り、以降の章の基礎知識を語る部分だからだ。

 酒飲みはみんな知っているだろう。酒の醸造は微妙な手際が要求される。これがよく分かるのが19頁の図3。醸造中に、酵母が何をするかを描いた図だ。発酵は2段階で進む。最初の段階では糖をピルビン酸に分解し、副産物として二酸化炭素CO2を出す。ビールの泡や、パンが膨らむ理由はコレか。

 それはともかく、二段階目が難しい。酸素があれば更に分解を進め、ピルビン酸を水と二酸化炭素にしてしまう。だが酸欠になると、ピルビン酸をアセトアルデヒドを経由してエタノールつまりアルコールに変える。適度に酸素つか空気を遮るのが大事なんだな。しかもアルコールは他の菌を殺すので、生き残るのは酵母だけ。賢い。

 もっとも、アルコール濃度が10%~15%を超えると、酵母も死んじゃうんだけど。酒造りにとっては、実に都合がいい生態だ。

 そのためか、ヒトと酒の付き合いも長い歴史がある。アフリカの十万五千年前の石器からヤシ酒の痕跡が見つかってる。また8600~8200年前の中国の陶器片からも、米か蜂蜜か果実から発酵飲料をつくってた証拠がある。文明は酒と共にあったらしい。とすると…

文明はアルコールへの愛に駆り立てられたと言われるが、これは醸造家に原料を与えることが穀物農業とそれに伴う定住の目的だったとする説にもとづいている。
  ――第2章 エデンの酵母 飲み物

 なんて説にも説得力がありそうな。だって酒を造るには、しばらく一カ所に留まる必要があるし。

 それはともかく、酒とパンに関わるだけあって、酵母は産業界からも熱い注目を浴びているらしく、学者にも潤沢に資金が流れているようだ。その証拠に…

真核生物で全ゲノムが明らかになったのは酵母が初めてだった。(略)
ヘモフィルスのゲノムを構成するA,T,C,Gは180万個だが、酵母のゲノムを記す文字は1200万個を上回る。
  ――第4章 フランケン酵母 細胞

 章のタイトルで分かるように、ここでは酵母の遺伝子分析や改変の話が中心だ。ネタは最新科学だが、やってる事は意外と地味な単純作業の繰り返しが多い。例えば「6000個の遺伝子のうち1個を欠いた数千株をすべて作成する」とか。各遺伝子が何をしているのか、しらみつぶしに調べたんですね。

 にも拘わらず、「じつは遺伝子の10個につき1個は依然として機能が判明していない」から、生命ってのはわからない。つか、IT系技術者でファイルフォーマット解析とかやった経験がある人は、遺伝子を一つづつ無効化する手法を「あるあるw」とか思うんじゃなかろか。最先端の研究も、現場は地味な作業の積み重ねだったりする。だからこそ、量を確保する予算が大事なんだな。

 もちろん酵母の産業利用もやってて、その一つがバイオ燃料。だってアルコールを作るんだし。ただ困った邪魔者がいて、それが乳酸菌ってのは意外だった。納豆菌も嫌われるんだろうなあ。

 その乳酸菌が名を挙げた挿話も楽しい。主人公はロシアの生物学者イリヤ・メチニコフ(→Wikipedia)。19世紀末、ロシアじゃ発酵したウマの乳で作る飲み物クミスが流行り、彼はこれに興味を持つ。パリのパスツール研究所に移った彼は、同僚からブルガリアのヨーグルトが長生きの秘訣と聞いて売り込みを始める。ブルガリア・ヨーグルトの仕掛け人はロシア人だったのか。

 酒を醸し、パンを膨らませ、私たちの暮らしを豊かにしてくれた酵母。世界各地で酒が造られていることでも分かるように、酵母自体は別に珍しいものではなく、実はどこにでもいる。だが、その正体が真菌類のサッカロミセス・セレビシエであり、豆が連なったような形だと知る人は少ないだろう。

 身近な酵母を通し、菌の知識を広めようとする著者の熱意と愛情が滲み出た、親しみやすい科学解説書だ。科学に興味がある人に加え、呑兵衛にもお薦めの一冊。ただし出来ればシラフで読んでほしい。

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2023年11月 6日 (月)

SFマガジン2023年12月号

黒板に視線を戻す。都市がもっとも築かれやすい場所の決定的要因の過箇条書きリストが、二つの三角形が相似であることの判定基準の一覧に置き換わっていた。
  ――グレッグ・イーガン「堅実性」山岸真訳

 376頁の標準サイズ。

 特集というか、表紙で目立つのは3つ。スタニスワフ・レム原作・マンガ森泉岳士「ソラリス」,グレッグ・イーガン「堅実性」山岸真訳,第11回ハヤカワSFコンテスト受賞作発表。あと映画「攻殻機動隊 SAC 2045 最後の人間」公開記念の記事も特集でいいんでない?

 小説は10本。うち連載5本,読み切り4本に加え、第11回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作の矢野アロウ「ホライズン・ゲート 事象の狩人」冒頭。

 連載5本は、神林長平「戦闘妖精・雪風 第五部」第10回,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第50回,飛博隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第20回,吉上亮「ヴェルト」第一部第三章,夢枕獏「小角の城」第72回。

 読み切り4本+1本は、グレッグ・イーガン「堅実性」山岸真訳,小野美由紀「母と皮膚」,十三不塔「八は凶数、死して九天」後編,草上仁「本性」と矢野アロウ「ホライズン・ゲート 事象の狩人」冒頭。

 連載小説。

 神林長平「戦闘妖精・雪風 第五部」第10回。基地に帰投した雪風と深井零大尉と田村伊歩大尉を、桂城彰少尉とブッカー少佐が迎えた。桂城が雪風の前席に座りATDSを調べると、人語解析システムが活発に動いている。雪風を下りた零と伊歩を桂城が見送ると、小さな電子音がして…

 今回は桂城少尉に焦点が当たる回。当初、田村大尉とは相性が悪そうだな、と思っていたが、なんかうまくやれそうなのが意外w その桂城に雪風が話しかける手法も、実に雪風らしい。深井零・田村伊歩・桂城彰そして雪風が、それぞれにチームになろうとしているのが感慨深い。にしても雪風、人間なら何歳ぐらいなんだろ? 思考速度で計算すると高齢だが、外部との刺激のやりとりで考えると幼いんだよね。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第50回。シルヴィアとの食事は成功した。だが、これ以上のハンターたちへの踏み込みは慎重に進める形でイースターズ・オフィスの意見は一致する。その後、イースターはウフコックに告げる。再度ぼ検診が要る、体の一部に異常が見つかった、と。集団訴訟の準備も着々と進み…

 ウフコックの検診場面はかなりショック。今回のお話の中心は集団訴訟の準備。クローバー教授が用意した証人、エリアス・グリフィンとジェラルド・オールコック医師、それぞれにクセが強くキャラが立ってる。

 飛博隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第20回。ラーネアはニムチェンの部屋へ行き、ニムチェンが絵を描くのを見ている。ニムチェンが横に線を引くだけで、絵は塗り替わっていく。やがて現れるのは、ランゴーニがひとり住む本島。その本島に、ナツメとコオルは貨物船で向かう。その周囲は石化した天使が囲っていて…

 ニムチェンの動く絵、というか画布の秘密に唖然。そんな画布があったら、使ってみたいような怖いような。いや絵心のない者にとっては、有難い気がする←をい ところがお話は、そんあ呑気な展開じゃなくなって。

 吉上亮「ヴェルト」第一部第三章。プラトンは、脱獄し亡命するようソクラテスの説得を続ける。だが、ソクラテスは穏やかな態度ながら決意は揺らがず、「神霊が囁くんだ」とプラトンに告げる。幸か不幸か、聖船使節は予定をはるかに過ぎても戻らず…

 記録された史実に依るなら、ソクラテスの命はない。少なくとも、Wikipedia で調べた限りでは。これまでなんとも煮え切らない態度だったクリトンの思惑は、いかにも老練な実務家っぽいんだが、ソクラテスは気に入らないだろうなあ。

 読み切り4本+1本。

 グレッグ・イーガン「堅実性」山岸真訳。突然、黒板に書いてあるモノが変わる。教師もクラスメイトも、見慣れぬ者ばかり。ノートはあるが、中は自分の文字じゃない。13歳のオマールは戸惑いながら、世界がどうなったのか考える。人もモノも入れ替わった。似ているけど、違う人/モノに。しかも、入れ替わりは一回だけでなく…

 イーガンだが、難しい数学も科学も出てこない、ある意味50年代SFの延長にある作品。自分のやった事は、自分に似た、だが違う者に引き継がれる。周囲の人々は次々と入れ替わる。そんな状況で、人はどう振る舞うのか。社会は、文明は、維持できるのか。インフラというと電気や水道が思い浮かぶが、現代ではスーパーやコンビニもインフラで、そういう機能を維持している人への敬意が増す。

 小野美由紀「母と皮膚」。神経伝達繊維を織り込んだセンサリースーツを着込んで、ツキは海に潜る。かつて母が暮らした島。センサリースーツは皮膚感覚をそのまま遠隔地へ届ける。天上約350kmの宇宙に浮かぶコンドミニアムにいる母に。現地で雇ったガイドは不愛想で…

 センサリースーツ、いいなあ。アレな使い方も思い浮かぶけど、バンジージャンプとかも面白そう。宇宙ステーションがあるなら、無重力も体験したい。最後の四行で驚いた。懐が深いなワコール。

 十三不塔「八は凶数、死して九天」後編。紫禁城の地下で、死の遊戯が始まる。集まったのは四人。未来を覗ける陳魚門とバート・レイノルズ、韓信将軍に扮した男、そして女ながら科挙で状元(最終試験で第一等)に輝いた傅善祥(→Wikipedia)。遊戯は双六と陳魚門の雀汀牌を組み合わせたもので…

 さすがに麻雀そのもので決着、とはいかないか。まあ、あれだけ複雑なルールを、現場でいきなり説明して理解しろったって無茶だもんなあ。でも、リーチっぽいのやチーがあったりして、馴染み深さと斬新さが混じりあう、不思議な感覚が味わえる。にしても、カンのルールが凶悪すぎw

 草上仁「本性」。星際会議で、哺乳類代表のガダー公使がダイノソア代表のホダル大使をチクチクとつつく。多様な種族間の駆け引きで、相手の過去の仕出かしを持ち出して、マウントを取ろうとするのも、もはや恒例の外交手順となっている。ガダー公使は、なんと考古学調査隊が発掘した遺跡の出土品を例にとり…

 外交官どうしの陰険なやり取りが楽しい作品。なにせ早川書房の地下金庫に多量の未発表原稿が眠っていると噂されている著者だ。それだけに、今回のガザの紛争を紀元前の歴史から掘り返す論調を揶揄するつもりはないだろう。でも、そう読めてしまうのは、SFの普遍性なんだろうか。あ、もちろん、短編の名手だけあって、綺麗にオチてます。

 矢野アロウ「ホライズン・ゲート 事象の狩人」冒頭。惑星カントアイネの砂漠ヒルギスで射手=狩人として育ったシンイーは、国際連合軍にスカウトされる。仕事は地平面探査基地ホライズン・スケープから耐重力探査船に乗り込み、パメラ人と共に巨大ブラックホールのダーク・エイジを探査すること。もちろん、お目当ての探し物はちゃんとあって…

 出だし、シンイーが砂漠の夜明けを迎える場面が素晴らしい。匂いが呼び覚ます気分という肉体的・本能的な反応と、その匂いの原因を解析して論理を紡ぐ理性的・科学的な思考を、たった9行で端的に結び付けている。感覚を重んじる文学=アートと、事実を元に論理的な思考を重ねる科学。その両者に橋を架けるSFならではの可能性を鮮やかに示す、卓越した場面…

 と、思ってたら、なんてこったい。この仕掛け、まんまとやられたぜ。

 本誌掲載の冒頭だけだと、狩猟を稼業とする部族社会に育ったシンイーの描写が多く、バディとなるパメラ人の登場場面は少ないが、天才射手少女(だった)シンイーのキャラも、バリバリに立ってる。いやすぐにムニャムニャ…。本当に新人なんだろうか。

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2023年10月29日 (日)

ローレンス・C・スミス「川と人類の文明史」草思社 藤崎百合訳

川から人間が得られる基本的な利益には5種類ある。アクセス、自然資本、テリトリー、健康な暮らし、力を及ぼす手段である。
  ――プロローグ

国際移住機関(IOM)は、「Missing Migrations Project(死亡もしくは行方不明の移民に関するプロジェクト)」という移民の死者数などの世界的データベースを作る政府間組織だが、このIOMによると、移民の死因でもっとも多いのが溺死である。
  ――第2章 国境の川

黄河は、毎年10憶トン以上の堆積物を海まで運ぶ、まさしく自然の脅威である。これは世界最大のアマゾン川が運ぶ土砂の量にほぼ匹敵する。年間流量は、アマゾン川のたった1%にも満たないというのに。
  ――第4章 破壊と復興

新しい発見が促されるのは、多くの場合、モデルと現実の観測値との間に食い違いがあるときだ。
  ――第8章 川とビッグデータ

現在、世界に何百万とある淡水湖のうち、水位をモニターされているのは1%にも満たない。
  ――第8章 川とビッグデータ

【どんな本?】

 古代の四大文明は、みな大河のほとりにある。今でも、ロンドンはテムズ川,パリはセーヌ川,カイロはナイル川,ニューヨークはハドソン川など、名だたる大都市は川と共に語られる。河川の恵みは人類社会の発展に欠かせない。

 と同時に、ハリケーン・カトリーナが示すように川は巨大な災害の原因にもなった。また、エチオピアがナイル川に築いた巨大ダムは、下流のスーダンとエジプトに大論争を巻き起こした。これはメコン川も同じで、ベトナムやカンボジアは中国と慎重な協議を重ねている。巨大技術を手に入れた人類は、河川との関係を変えつつある。

 都市の発展の基盤であり、それだけに争いの原因ともなった河川。人類は河川とどのように付き合い、お互いにどんな影響を及ぼし合ってきたのか。両者の関係は、環境をどう変えてきたのか。そして今世紀に入って、両者の関係はどう変わりつつあるのか。

 地球・環境・惑星科学教授である著者が、河川にまつわる近現代史を辿り、またダムや水質そしてウォーターフロントの開発など現代のトピックを取り上げ、河川と人類の歴史を手繰り現在を俯瞰し未来の展望を語る、一般向けのノンフィクション。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Rivers of Power : How a Natural Force Raised Kingdoms, Destroyed Civilizations, and Shapes Our World, by Laurence C. Smith, 2020。日本語版は2023年2月27日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約405頁に加え、訳者あとがき4頁。9.5ポイント43字×18行×405頁=約313,470字、400字詰め原稿用紙で約784枚。文庫なら厚い一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくないが、ご想像の通り私たちに馴染みのない河川の名前が続々と出てくる。メコン川ぐらいは分かるが、トゥオルミ川とか知らないって。地図帳に出てないし。もいうことで、読みこなそうと思うなら GoogleMap などが欠かせない。いや私は読み飛ばしたけど。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • プロローグ
  • 第1章 川と文明
    ナイル川の氾濫を予測/為政者たちの権力の源泉/「川の間の土地」に生まれた最古の都市/チグリス・ユーフラテスの方舟/サラスヴァティ―川の消滅/大禹の帰還/「水利社会」がもたらしたもの/知識、それはハビ神の乳房から始まった/「水の管理」を定めたハンムラビ法典/川の所有権をめぐる歴史/水車の力/新世界の発展と川の役割/ジョージ・ワシントンの着眼点/アメリカの運命を決めた土地取引
  • 第2章 国境の川
    移民の死因でもっとも多い「溺死」/青い境界線/川を国境にするメリット/国の大きさと形/「水戦争」の21世紀/マンデラはなぜ隣国を襲撃したのか/「ウォータータワー」がもたらす支配力/アメリカ司法長官ハーモンの過ち/越境河川を共同管理するためのルール/メコン川をめぐる緊張
  • 第3章 戦争の話
    イスラム国の支配流域/あの川を越えて/分断の大きな代償/「南軍のジブラルタル」攻防戦/中国の「屈辱の世紀」/金属の川/イギリス空軍のダム爆破計画/独ソ戦の趨勢を決めた川/闘牛士のマント/ベトナムでの「牛乳配達」/メコンデルタの戦略的価値
  • 第4章 破壊と復興
    ハリケーンの爪痕/大洪水の後に起こること/アメリカの政治地図を変えた洪水/抗日に利用された「中国の悲しみ」/黄河決壊から生まれた共産中国/アメリカ社会を変えた大洪水
  • 第5章 巨大プロジェクト
    「大エチオピア・ルネサンスダム(GERD)」計画の衝撃/大規模ダム建設の20世紀/橋が紡いできた歴史/人口の川/ロサンゼルスに水を引いたアイルランド人技師/水不足に苦しむ40億人/インドが挑む河川連結プロジェクト/大いなる取引
  • 第6章 豚骨スープ
    問題のある水/アメリカの環境保護、半世紀の曲折/中国の河長制/拡大するデッドゾーン/河川に流れ込むさまざまな医薬品/グリーンランドのリビエラ/ピーク・ウォーター
  • 第7章 新たな挑戦
    絶滅危惧種の回帰/ダム撤去のメリット/土砂への渇望/ダムの被害を軽減する方策/未来の水車/おおくなちゅうごくの小さな水力発電/繊細な味わいの雷魚の煮込み/最先端のサケ/侵入種対策としての養殖業/河川利用におけるイノベーションの萌芽/危険な大都市の新たな洪水対策/暗い砂漠のハイウェイと、その先にあるホテル・カリフォルニア
  • 第8章 川とビッグデータ
    河川データの爆発的増加/川の目的と存在理由/「たゆまぬ努力」と「炎と氷」の対決/地球の記録者たち/3Dメガネをかけよう/ビッグデータと世界の水系の出会い/モデルの力
  • 第9章 再発見される川
    地球上で最高の釣りの穴場/加速する人類の「自然離れ」/自然と脳の関係/都市部の河川に関するトレンド/激変するニューヨークの河川沿岸/川を起点とする世界的な都市再生/多数派となった都市居住者/川が人類にもたらしたもの
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献・インタビュー

【感想は?】

 書名には「文明史」とある。確かに歴史のエピソードも出てくるが、現代のトピックの方が印象に残る。

 とまれ、現代の世界はいきなりできたワケじゃない。歴史の積み重ねがあって、現代のような形になったのだ。それを象徴するのが、現在の都市と河川の関係だ。例えば…

今日のほとんどの大都市は、中心部を貫いて流れる川によって二分されている。
  ――第5章 巨大プロジェクト

 ロンドンにはテムズ川が、パリにはセーヌ川が、バグダッドにはティグリス川が流れている。歴史ある大都市は、たいてい河川のほとりで発展したのだ。自動車と自動車道が発達した現代ではピンとこないだろうが、かつては河川がヒトとモノの重要な幹線だったのだ。

ごく最近まで、人々が内陸部を移動し探索するための主な方法は、川を辿ることだった。
  ――第1章 川と文明

(南北戦争の)1861年当時、アメリカの幹線路は河川と鉄道であって、中でもミシシッピ川とその支流はスーパーハイウェイとして北米の内陸部を自国にも他国にもつないでいた。
  ――第3章 戦争の話

 この章ではアメリが合衆国の発展にミシシッピ川とその流域が果たした役割を描いているが、それはさておき。かような歴史を辿り、かつ現代の都市化傾向の結果として…

世界人口のほぼ2/3(63%)が、大河川から20km以内に住んでいる。また、世界の大都市(人口100万人以上1000万人未満)の約84%が大河川沿いにある。世界のメガシティ(人口1000万人以上)だと、その割合は93%にのぼる。
  ――第9章 再発見される川

 ある意味、歴史上かつてないほど、人類と河川の関係は深くなっている。これは為政者も解っているらしく、様々な形で政策あるいは戦略として表れてくる。物騒な話では、自称イスラム国だ。

ISISにとって、川という形のこれらの回廊を支配することは、明らかに当初からの重要な目的だった。地理的に見ると、地域でも特に人口が集中している地区と豊かな灌漑農地は、川の周辺に広がっている。
  ――第3章 戦争の話

 確かに、あの辺じゃ川の水は貴重だろうしなあ。

 など、既にある河川をそのまま使うだけでなく、人工的に水路を作り、または既存の水路の流れを変えることで、社会を発展させられるのは、歴史が証明している。

運河とは、輸送の価値観を大きく覆す技術的進歩であり、運河によってヨーロッパの工業化とアメリカの西部への拡大が推し勧められたのだ。
  ――第5章 巨大プロジェクト

 ここではインドの水路整備プロジェクトも稀有壮大で驚くが、中国がメコン川上流にダムを造る計画は少々キナ臭かったり。大河はたいてい複数の国を通るので、どうしても争いのタネになりがちなのだ。

 もっとも、そのダムも、最近は色々と様子が違う。中国が力を入れているのは巨大ダムばかりでなく、小さな発電所も沢山造っているらしい。

典型的な(マイクロ水力発電の)設備の場合、渓流からトンネルやパイプなどの導水路へと分水し、下方に設置した小さなタービンに水を流し込んで、家一軒から数軒で使うのに十分な量を発電する。
  ――第7章 新たな挑戦

 少し前に話題になった水質汚染の対策に、河を仕切る河長制の採用など、政府が強権を持つ共産制らしい思い切った政策だろう。ハマれば迅速で強いんだよね、一党独裁は。ハズれた時の悲劇も大きいけど。

 その悲劇の代表が、洪水。最近は日本でも温暖化の影響か、台風による洪水が増えてたり。

現在生存している人類の2/3近くが大きな川の近くに住んでいるので、洪水は慢性的な危機であり、気が滅入るほど頻繁に人命や資産が奪われている。
  ――第4章 破壊と復興

 ダムを造る目的は幾つかあるが、その一つは洪水を防ぐこと。ダムは川を流れる水の量を調整するだけでなく、川の性質も変えてゆく。

河川の水が動きのない貯水池に入ると、含まれていた土砂の大部分が沈殿して貯水池の底に溜まる。その結果、ダム下流に放出されるのは、土砂がきれいに取り除かれた水となる。川は自分の河道の堆積物を自分で食らう状態になり、河道は削られて、深く、広くなる。河道が浸食されて拡大すると、氾濫の時期でも水が堤防を越えないようになる。
  ――第7章 新たな挑戦

 と引用すると、ダムを賛美しているようだが、本書の文脈はいささか違う。確かに住宅地の氾濫は困るが、氾濫が必要な場所もあるのだ。その一つが湿原。多様な生物の生存環境である湿原が、ダムによって失われるのは嬉しくない。近年の環境への関心の高まりか、アメリカではこんな動きも出てきている。

2019年現在までに、アメリカだけでも1600基近くのダムが取り壊された。
  ――第7章 新たな挑戦

 古いダムはダム湖の底に土砂が溜まって、貯水池としての役割が果たせなくなった、みたいな経営上の事情もあるんだけど。その土砂がいきなり下流に流れたら大惨事になりそうなモンだが、そこは少しづつ流すとか別の水路に流すとか、幾つかの対策法があるらしい。日本は、どうなんだろうねえ。流れのきつい川が多いから、事情は違うのかも。

 いずれにせよ、ダムがなくなる事で下流の環境も変わり、川魚も戻ってくる。このあたりの描写は、川を生き物のように捉える著者の視点が温かい。

 そんな著者の、科学者としての本性は、終盤で露わになる。近年の人工衛星やロボット/ドローンを用いた観測で、世界中の淡水のデータが大量に集まりつつある状況を伝え、読者をグリーンランドなどへと連れてゆく。

 中でも私の印象に残ったのが、川の源流を探るうちに見えてきた、奇妙な一致だ。

場所や地形、気候、植生とは関係なく、水源から最初に現れる水流の幅が平均で32cm(±8cm)だったのだ。
  ――第8章 川とビッグデータ

 正直、本書の記述は途中の説明をスッ飛ばし過ぎでよく分からないんだが、これが地球温暖化の原因、つまり温暖化ガスの増加に深く関係しているらしい。

 全体を通し川というネタは一貫しているが、その調理法は章により色とりどり。歴史から社会・国際問題、軍略的な意味や戦場としての川、都市住民の憩いの場であるリバ―フロント、そして農業用水&漁場として巧みにメコン川を使うカンボジアなど、バラエティ豊かな川の表情を伝える、川のファンブックだ。

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