2018年7月18日 (水)

スティーブン・ジョンソン「世界をつくった6つの革命の物語 新・人類進化史」朝日新聞出版 大田直子訳

本書のテーマのひとつは、この不思議な影響の連鎖、「ハチドリ効果」である。ある分野のイノベーション、またはイノベーション群が、最終的に、まるでちがうように思われる領域に変化を引き起こす。
  ――序章 ロボット歴史学者とハチドリの羽

グーテンベルクの発明から100年とたたないうちに、ヨーロッパ全土で多くの眼鏡メーカーが繁盛し、眼鏡はふつうの人がふつうに身に着ける――新石器時代の衣服の発明以来――最初の先進技術になった。
  ――第1章 ガラス

アイデアというものは根本的にほかのアイデアとのネットワークだからである。
  ――第2章 冷たさ

都市の成長と活力はつねに、人々が密集するとできる人間の排泄物の流れを管理できるかどうかにかかっている。
  ――第4章 清潔

リースはずっと、共同住宅改革――および都市貧困に対する戦略全般――の問題は、結局、想像力の問題ではないかと思っていた。
  ――第6章 光

「このプロセスの本質は代数や分析ではなく算術と数字のはずだと思っている人が多い。これはまちがいだ。この機関は数字で表された量を、まるで文字などの一般的符号であるかのように、配列して組み合わせることができる」
  ――第7章 タイムトラベラー

【どんな本?】

 私たちの暮らしは、様々な技術に支えられている。日の光は取り入れるが風や雨は遮るガラス。食品を長持ちさせる冷蔵庫。ニュースを伝えるラジオ。安心して飲める水。正確な時を刻む時計。夜を照らす電灯。そして、このブログを読み書きするコンピュータ。

 いずれも今の私たちにとっては当たり前のものだが、それの土台となる技術は、今とは全く異なる目的のために開発され、予想外の出会いと紆余曲折を経て、現在の形へと至ったものだ。

 ガラス・冷たさ・音・清潔・時間・光そして演算装置の七つの技術の誕生と成長の歴史を辿り、ヒトの知識と技術が社会にもたらす意外な効果を解き明かす、一般向けの技術史読本。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は How We Got to Now : Six Innovations That Made the Modern World, by Steven Johnson, 2014。日本語版は2016年8月30日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約310頁。9.5ポイント43字×17行×310頁=約226,610字、400字詰め原稿用紙で約567枚。文庫本なら標準的な厚さの一冊分。

 文章はこなれている。内容も特に難しくない。たまに馴染みのない化学物質の名前が出てくるが、「そういうモノがある」程度に思っていれば充分で、理科が苦手でも大丈夫。どちらかというと科学より歴史の本なので、常識程度に世界史を知っていれば更に楽しめる。

【構成は?】

 各章は穏やかに繋がっているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。ただ、全体を通して一貫したメッセージもあり、それは頭から読んだ方が伝わりやすい。

  • 序章 ロボット歴史学者とハチドリの羽
    ハチドリの羽はどうやってデザインされたのか?/世界を読み解く「ロングズーム」
  • 第1章 ガラス
    ツタンカーメンのコガネムシ/ガラスの島/グーテンベルクと眼鏡/顕微鏡からテレビへ/ガラスで編まれたインターネット/鏡とルネサンス/ハワイ島のタイムマシン/ガラスは人間を待っていた
  • 第2章 冷たさ
    ボストンの氷をカリブに運べ/氷、おがくず、空っぽの船/冷たさの価値/氷によってできた街/人工の冷たさをつくる/イヌイットの瞬間冷凍/エアコンの誕生と人口移動/冷却革命
  • 第3章 音
    古代洞窟の歌/音をつかまえ、再生する/ベル研究所とエジソン研究所/勘ちがいから生まれた真空管/真空管アンプ、大衆、ヒトラー、ジミヘン/命を救う音、終わらせる音
  • 第4章 清潔
    汚すぎたシカゴ/ありえない衛生観念/塩素革命/清潔さとアレルギー/きれいすぎて飲めない水
  • 第5章 時間
    ガリレオと揺れる祭壇ランプ/時間に見張られる世界/ふぞろいな時間たち/太陽より正確な原子時計/一万年の時を刻む時計
  • 第6章 光
    鯨油ロウソク/エジソンと“魔法”の電球/“天才”への誤解/ピラミッドで見いだされた光/スラム街に希望を与えたフラッシュ/100リットルのネオン/バーコードの“殺人光線”/人口の“太陽”
  • 第7章 タイムトラベラー
    数学に魅せられた伯爵夫人/180年前の“コンピューター”/隣接可能領域の新しい扉
  • 謝辞/原注/参考文献/クレジット

【感想は?】

 「風か吹けば桶屋が儲かる」の技術史版。

 新しい技術が出てきた時、「それが何の役に立つの?」と見下そうとする人がいる。そういう人を言いくるめるのに、この本はとても役に立つ。

 それが最もよく出ているのが、「第1章 ガラス」だ。あなたの部屋の窓にはまっている、あのガラスだ。

 話は古代エジプトのツタンカーメンのスカラベから始まり、1204年のコンスタンティノープル陥落へと飛ぶ。オスマン軍から逃げたガラス職人たちは、ヴェネチアに引っ越す。彼らの技術は金になるが、火を扱うので火事が怖い。そこで首長はガラス職人を街区から追い出し、ムラーノ島に集めた。

 これが現在のシリコンバレーと同じ効果をもたらした。職人同士が技を競い、新しい工夫を交換し合って、ヴェネチア・グラスのブランドを打ち立てる。中でも秀でているのが、アンジェロ・バロヴィエールの功績だ。彼は「とびきり透明なガラス」を創り上げた。

それまでのガラスは、何かしら色がついていた。教会のステンド・グラスがカラフルなのは、ワザとじゃない。透明なガラスがないので、そうするしかなかったのだ。

 時代は飛んで15世紀。グーテンベルクが印刷機を発明する。これが、人々に意外な発見をもたらす。「なんかこの本、読みにくいなあ」。

 昔から遠視の人はいた。ただ、細かい字なんか読まないから、気が付かなかった。そこに安い本がやってきて、識字率もあがる。否応なしに、多くの人が自分が遠視だと気づかされたのだ。

 これで喜んだのが、眼鏡業界。透明なガラスがレンズを実用化したのはいいが、それまでは細々とした商売だった。だって字なんか読めるのは、修道院の学者さんぐらいだし。

 ところが印刷機の発明で、レンズの市場が一気に広がる。やがてレンズを組み合わせた顕微鏡が生まれ、コッホが細菌を見つけ出す。この発見が現代医学に、どれほどの貢献した事か。やがてレンズはカメラや携帯電話に搭載され、またグラスファイバーは断熱材や航空機、果ては光回線に…

 透明なガラスは別の変化ももたらす。職人はガラスの裏にスズと水銀の合金を貼った。鏡の誕生である。私たちは、やっと自分の姿をハッキリと見られるようになったのだ。これは絵画の世界に革命をもたらす。最初は自画像の流行だが、また遠近法も生み出してしまう。

 コンスタンチノープルの陥落から、遠近法の誕生や細菌の発見を予測できる者が、果たしてどれぐらい居ることやら。一つの技術が世界にどんな影響をもたらすのか、誰にもわからないのだ。

 とかの、巧くいった技術の歴史も面白いが、発明者の勘違いも面白い。

 例えば、かの有名なトーマス・エジソンとアレキサンダー・グラハム・ベル。蓄音機のエジソンと電話のベルだ。両者が最初に目論んだ目的が、見事にスレ違っている。

 エジソンは、蓄音機を手紙の代わりとして考えていた。声を吹き込んだ巻物を相手に郵便で送れば、メッセージを送れる。ボイスメールだね。そしてベルは、電話によるコンサートの実況中継を目論んでいた。今ならケーブルテレビの生中継に当たるんだろうか。

 ところが現実には、電話が個人相手へのメッセージ伝達に、録音機材が不特定多数相手の放送に使われている。開発者の言葉を鵜呑みにしちゃいけません。ティム・バーナーズ=リーだって、出会い系やXVIDEOS、ロシアによるアメリカ大統領選への介入までは予測できなかっただろう。

 同様に戸惑っているのが、真空管の父リー・ド・フォレスト。真空管はやがてラジオを生み出し、そこから流れてくるのは南部の黒人が生み出したジャズ。

「あなたがたは私の子どもであるラジオ放送に、何をしてくれたのだ?ラグライムだの、スイングだの、ブギウギだのといったぼろを着せて、このこの品位を落としている」
  ――第3章 音

 やがて真空管はエレクトリック・ギターを生み出す。アンプを通すまで「空気の振動」が存在しない、異端の楽器だ。新世代のミュージシャンたちは真空管に過大な負荷をかけると奇妙な効果が起きることを見つける。ヘビメタには不可欠なディストーション・サウンドの誕生だ。

 どうでもいいいが、この次にある「ハウリング」は、ギタリストの間じゃ「フィードバック」と呼ばれてる。

 などと、一つの技術や製品が生まれるまでの紆余曲折は、実に意外性に満ちていて楽しい。と同時に、一つのアイデアや技術が、社会にもたらす影響の予測の難しさもよくわかる。また、終盤では、アイデアを生み出す源泉について、面白い考察もしている。

 楽しく読みやすく意外性に満ちて、小ネタも満載。ほんと、技術史の本ってのは面白いなあ。

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2018年7月16日 (月)

エリザベス・ベア「スチーム・ガール」創元SF文庫 赤尾秀子訳

ピーター・バントルには絶対に、一泡吹かせてやる。
  ――p38

「わたしはね、我慢できないんですよ、いいたいことをはっきりいえない女は」
  ――p79

いまここにいる人たちは、お互いいやな思いをしないよう、みんな仮面をつけているのかも
  ――p101

「襲撃はこれが初めてではない」
  ――p304

【どんな本?】

 アメリカの新鋭SF作家エリザベス・ベアによる、西部劇風味の百合アクション娯楽SF長編。

 19世紀終盤のアメリカ、ゴールドラッシュに沸く西部の町ラピッド・シティ。カレン・メメリーは16歳。ホテル・モンシェリに住み込みで働く「縫い子」だ。主人はマダム・ダムナブル、縫い子を大切に扱ってくれるが、決して甘やかしはしない。辣腕で抜け目なく、商売柄か町の有力者にも顔が利く。

 雨が降る冬の夜、モンシェリに二人の女が逃げ込んできた。一人はメリー・リー、チャイナタウンの有名人で縫い子を助ける運動をしている。もう一人はプリヤ、インド人で歳はカレンと同じぐらい。二人とも傷だらけだ。

 すぐに追っ手もきた。率いるのはピーター・バンドル、マダムと同じく娼館で稼いでいる。でも女の扱いは荒い上に、時には見世物にする嫌な奴だ。おまけにアチコチに手を回し、街の支配を目論んでいる。今夜はどうにか追い返したが、奴が持つ変な手袋には不思議な力がある。

 気の荒い連中が集う西部を舞台に、正体不明の連続殺人鬼・それを追う(副)保安官とその助手・陰謀を目論む悪党・追われる娘・活動家の中国人などが入り乱れ、女の子が大暴れするアクション小説。

 2017年10月20日初版という出版時期の不利にも関わらず、SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2018年版」のベストSF2017海外篇の20位にランクインした。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は KAREN MEMORY, by Elizabeth Bear, 2015。日本語版は2017年10月20日初版。私が読んだのは2017年11月117日の再版。勢いありますねえ。文庫本で縦一段組み、本文約415頁に加え訳者あとがき4頁。8.5ポイント42字×18行×415頁=313,740字、400字詰め原稿用紙で約785枚。文庫本としては厚め。

 文章はこなれている。内容も特に難しくない。一応はSFだが、特に難しい理屈は出てこないので、理科が苦手でも大丈夫。それより大事なのは、アメリカの歴史と西部劇の素養。当時の人々の暮らしぶりや、開拓使の有名人の名前が出てくるので、詳しい人には嬉しいクスグリが沢山詰まってる。

【感想は?】

 裏表紙にはスチームパンクとあるが、私は西部劇風味のプリキュアと言いたい。

 なんたって、舞台がモロに西部劇だし。時は19世紀終盤、南北戦争の記憶も新しい頃。場所は西海岸の(架空の)ラピッド・シティ、ゴールドラッシュでにぎわう港町だ。

 一攫千金を狙う荒くれどもが集い、町は賑わっている。新しい国でもあり、南北戦争の傷跡も深く、連邦政府の威光は遠い西部にまでは届かない。そのため、それぞれの町は自治に任せる羽目になる。まっとうな者が治めているならいいが、悪党が権力を握ったら…

 そんな具合だから、お尋ね者が潜り込むには都合がいい。ネズミが潜り込むなら、ネコも追いかけてくる。この話だとネズミは正体不明の連続殺人鬼、ネコは副保安官バス・リーヴズとその助手トモアトゥーア。雰囲気は猫というより狼だけど。

ちなみに副保安官って肩書はあまり偉くなさそうだが、バス・リーヴズで調べると、全然違う。ローン・レンジャーのモデルとなった人で、凄腕の連邦保安官だ。今でいうFBI捜査官だろう。日本の刑事ドラマなら、本庁から派遣されたエリート刑事にあたる。

 そんな西部劇の見どころはガン・ファイト…と言いたいところだが、ここは幾つかヒネってあって。

 中でもマニアックなのが、馬。主人公のカレンが馬に特別な想いを抱いていて、バス・リーヴズが連れた馬に彼女が出会う場面が、一つの読みどころ。彼女が馬をどんな目で見ているのか、どんな気持ちを抱いているのか、ひしひしと伝わってくる。

 また、当時の人々の暮らしを細かく書いているのも、地味ながら楽しいところ。海が近いからシーフードも多いし、チャイナタウンがあるから中華風の食材もある。蒸しパンときたかw 「縫い子」なんて言葉でわかるように、身に着ける物も生地や柄はもちろん、靴の履き方まで実に細かく書いてある。

 とかのマニアックな描写だけでなく、有名な人もチラホラ。先のバス・リーヴズに始まり、カラミティ・ジェーン(→Wikipedia)やアニー・オークレイ(→Wikipedia)など、どこかで聞いた事のある名前を散りばめてある。当然、本好き向けのクスグリもあって…

 と、西部の雰囲気が満載ながら、今風に捻ってあるのがおわかりだろうか。

 バス・リーヴズは黒人。相棒のトモアトゥーアはコマンチェ。メリー・リーは中国系の女。プリヤもインドの少女。語り手のカレンも少女だし、カレンと共にバンドルに挑むモンシェリの面々も色とりどり。

 いずれも、従来の西部劇では無視されてきた人々だ。荒くれどもに踏みつけられ、食い物にされてきた立場の人々を、主人公カレンの目線で描いているのが、この作品のもう一つの特徴。私はクリスピンが好きだなあ。いや別に髪型に親近感が沸いたわけじゃないぞ。違うったら。

 そんな中で、かぐわしく漂う百合の香りが、これまたたまんない。何せ時代が時代だけに、世相はそういう関係を歓迎しない。それだけに、カレンとプリヤもためらいがちに心を寄せ合ってゆく。いいねえ、青春だねえ。

 だけじゃなく、「女のこだって暴れたい!」のがプリキュア。初代ならカレンがキュアブラック、プリヤがキュアホワイトかな。特に中盤から終盤にかけて、カレンが大暴れするから楽しみにしよう。

 スペースオペラの原点、ホースオペラ=西部劇を題材としながらも、忘れられがちな人々を中心に配し、少しだけ「あったかもしれない技術」を交えながら、百合風味を利かせた楽しく爽快な娯楽アクション作品だった。

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2018年7月12日 (木)

マイケル・S・ガザニガ「脳のなかの倫理 脳倫理学序説」紀伊国屋書店 梶山あゆみ訳

私は脳神経倫理学をこう定義したい――病気、正常、死、生活習慣、生活哲学といった、人々の健康や幸福にかかわる問題を、土台となる脳メカニズムについての知識に基づいて考察する分野である、と。
  ――はじめに

胚をどの時点から人とみなすべきか
  ――1章 胚はいつから人になるのか

音楽家の体性感覚野を見ると、特定の指に対応する領域が大きくなっていて、どの指の領域が大きくなるかは楽器の種類によって異なる。
  ――4章 脳を鍛える

どうやら脳では、何かの課題をはじめて行うときにはたくさんの脳細胞(ニューロン)が使われるのに、技能が身につくにつれて、関与するニューロンの数がしだいに少なくなっていくらしい。
  ――4章 脳を鍛える

リタリンという薬は、多動症の子供の学業成績をよくするだけでなく、正常な子供に対しても同じ効果を発揮する。多動症でもそうでなくても、リタリンを飲めばSAT(大学進学適性試験)の点数が100点以上アップすると言われている。
  ――5章 脳を薬で賢くする

「ハリーがやったのではありません。ハリーの脳がやったのです。ハリーに行為の責任はありません」
  ――6章 私の脳がやらせたのだ

科学者と伝道者を比べた研究によると、新しいデータを突きつけられたとき、自分の考えをなかなか改められないのは科学者のほうだとの興味深い研究結果もある。
  ――9章 信じたがる脳

「三つの考え方はそれぞれ異なる脳領域を重視しているとみなせそうだ。カント(功利主義)は前頭葉。ミル(義務論)は、前頭前野と、大脳辺縁系と、感覚野。アリストテレス(徳倫理)はすべてを適切に連携させながら働かせる」
  ――10章 人類共通の倫理に向けて

人間は状況に対して自動的に反応している。脳が反応を生み出しているのだ。その反応を感じたとき、私たちは自分が絶対の真実に従って反応していると信じるに至る。
  ――10章 人類共通の倫理に向けて

【どんな本?】

 ES細胞の研究はどこまで許されるべきか。老いて認知症となった人の安楽死を認めてよいのか。自らの子の遺伝子改造はどうか。アスリートのドーピングが悪なら、試験前にコーヒーで脳にカツを入れるのはいいのか。P・K・ディックの小説「マイノリティ・レポート」のように、犯罪傾向の強い者の監視は許されるのか。記憶はどこまで信用できるのか。信念や信仰心はどこから来るのか。

 2001年から米国の「大統領生命倫理評議会」のメンバーとなった神経科学者が、fMRIやPETなどの技術が明らかにしたヒトの脳の性質を踏まえ、科学と倫理が交わる領域に生まれる様々な問題を取り上げて吟味する、一般向けの科学と倫理の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Ethical Brain, by Michael S. Gazzaniga, 2005。日本語版は2006年2月2日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約229頁に加え、訳者あとがき4頁。9.5ポイント44字×17行×2299頁=約171,292字、400字詰め原稿用紙で約429枚。文庫本なら少し薄めの一冊分ぐらいの文字数。

 文章は比較的にこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。「前頭葉」や「灰白質」など脳の部位や要素の名前が出てくるが、具体的な場所や形は気にしなくていい。本気で脳神経学者になるつもりなら話は別だが、興味本位で読む分には、「脳にはそういう名前の場所がある」ぐらいに思っていれば、充分に楽しめる。

【構成は?】

 各章のつながりは穏やかなので、気になった所だけを拾い読みしても楽しめるだろう。

  • 謝辞/はじめに
  • 第1部 脳神経科学からみた生命倫理
    • 1章 胚はいつから人になるのか
    • 2章 老いゆく脳
  • 第2部 脳の強化
    • 3章 よりよい脳は遺伝から
    • 4章 脳を鍛える
    • 5章 脳を薬で賢くする
  • 第3部 自由意志、責任能力、司法
    • 6章 私の脳がやらせたのだ
    • 7章 反社会的な思想とプライバシーの権利
    • 8章 脳には正確な自伝が書けない
  • 第4部 道徳的な信念と人類共通の倫理
    • 9章 信じたがる脳
    • 10章 人類共通の倫理に向けて
  • 訳者あとがき/原注

【感想は?】

 つぎの言葉にピンときたらお薦め。

  • オリヴァー・サックス
  • V・S・ラマチャンドラン
  • デーヴ・グロスマン
  • ジョナサン・ハイト
  • ダニエル・C・デネット
  • ロバート・B・チャルディーニ
  • マイケル・サンデル
  • ミラーニューロン
  • ブレイン・マシン・インターフェース

 「脳倫理学」と書くと何やら難しそうだが、取り上げるテーマは多くの人の興味をそそる。曰く…

  • ヒトの受精卵を使うES細胞の研究は、どこまで許されるべきか?
  • 認知症を患った者の尊厳死は許されていいのか?
  • 遺伝子改造で「賢い子」を作るのは?
  • アスリートの本番のドーピングは不許可だが、練習中のドーピングは?
  • ドーピングが不許可なら、賢くなる薬はどうなの?
  • 脳が原因で暴力的な者に、刑事責任を問えるのか?
  • fMRIなど脳医学の先端技術を、法廷に持ち込むべきか?
  • 記憶はどこまで信用できるのか?「のどまで出かかってるのに出てこない」のはなぜ?
  • 「信念」は、どうやって生まれる?
  • 道徳は生来のものか、学んで身に着けたのか。

 それぞれの問題につき、誰もが意見を持っている。だが、親しい人と話し合うのは難しい。営業さんにとって政治と宗教と野球の話がタブーであるように、この手の話はみんな頑固に自分の考えを曲げようとしない。だから、下手に話題にすると、人間関係まで壊しかねない。

 人間、いったん口に出した意見を変えるのは難しい。なんか意地になっちゃうし。その点、本はいい。書いてあることが気に入ればパクればいいし、気に入らなければ無視すればいい。本で考えが変わったら、読む前から知っていたような顔をしたってバレなきゃ大丈夫。

 なんかズルいと思うかもしれないが、ヒトの脳なんて実はかなりいい加減なシロモノなんだと、この本を読めばわかる。裁判にしたところで、目撃証言はあまりアテにならないと、統計と事例で証明してくれる。加えて記憶の正確さと、証言者の自信は、ほとんど関係ないなんて、ショッキングな事実も。

 ばかりか、ある程度、記憶は作れるのだ。

空想や作り話だとわかっている情報の場合も、「のちにそれを現実のものとして[被験者が]記憶する妨げにならない」ことが明らかになっている。それどころか、誤った情報を繰り返し提示するだけで、その情報が真実に間違いないものとして記憶される確率は高くなる。
  ――8章 脳には正確な自伝が書けない

 と、「嘘も百回言えば本当になる」は、あながち間違いでもないらしい事。これが積もれば偏見を助長する。ネットでデマが出回っている今、これは深刻な問題なのかも。

 こういう、技術と法廷の問題に関して、私はちょっと疑問を持った。

 というのも。fMRIで、ある程度は相手に対する好悪の感情を調べられるとか。アメリカじゃ弁護士は証人に対して使いたいらしい。O・J・シンプソン裁判など、人種差別が大きな問題となっているアメリカだ。これで証人の人種偏見の有無を調べ、被告に有利な証拠としたい。

 ただしこの技術、データの解釈が難しい。嫌な感情を抱いたのは分かるが、ソレが人種差別なのか、嫌いな奴に似ているからなのかは、わからない。そもそも技術の信頼性もアレだし。

 で、だ。

 この技術、判事の差別意識の有無を調べるため、判事に対して使いたいと言ったら、判事はどう答えるだろう? 裁判員に選ばれた時、あなたはこの技術による判定を、受けてもいいと答えますか?

 先に書いたように、V・S・ラマチャンドランやダニエル・C・デネットなど、似たようなテーマの本は多い。それだけに、どこかで読んだようなネタもよく見かける。ミラーニューロンが、その代表だろう。が、やはりあった、意外な盲点が。

 中でも恥ずかしいのが、これ。

認知症とは、認知機能の低下をもたらすさまざまな疾患や損傷に対する総称だ。認知症の原因としては、過度の飲酒、喫煙、慢性的ストレス、脳外傷、脳卒中のほか、ハンチントン舞踏病、パーキンソン病、アルツハイマー病などの脳疾患が考えられる。
  ――2章 老いゆく脳

 認知症って、一つの病気を示すのかと思ったら、全然違った。幾つもの病気の症状をまとめて認知症と呼ぶのか。全然知らなかった。いやあ、恥ずかしい。

 他にも「ドーピングが駄目なら、試験前にコーヒーで頭をシャッキリさせるのはいいのか?」とか、男女の出生比が偏ってる国の一覧(ちなみにアゼルバイジャン・アルメニア・グルジアが1:1.2)とか、表情を読むATMとか、小ネタは満載。

 私が特に興味を持ったのは音楽家の話で。ミュージシャンには左利きが異様に少ない。私が知っているのは、ジミ・ヘンドリクスとポール・マッカートニーと秋山澪(←をい)ぐらいだ。ところが意外な事に、「幼いうちに訓練を始めた音楽家は、非音楽家より手の器用さに左右差が少ない」とか。

 つまりは両手利きが多いのだ。そういえばリンゴ・スターも本来は左利きだって噂もあるなあ。左利き用の楽器は手に入りにくいんで、右利き用の楽器を使っているうちに馴染んじゃったってケースが多いんだろうか。

 まあいい。それぞれのテーマについて、著者なりの考えも書いている。が、あまり押しつけがましくはなく、逆に「あなたはどう思います?」と問いかける感じで、ブログのネタ帳としても便利かもしれない。

 原書の出版が2005年といささか古いが、ネタそのものの面白さは色あせていない。むしろ、この本では空想だったことの幾つかは、既に実現していて、更にエキサイティングになっている。自分に、正義に、そして科学に興味がある人にお薦め。

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2018年7月10日 (火)

菅浩江「五人姉妹」ハヤカワ文庫JA

「でも……みんな嘘」
  ――ホールド・ミー・タイト

「介護ロボットといいっても、介護をするほうじゃない。<中枢>は介護されるロボットを開発したんだ」
  ――KAIGOの夜

お祭りだ。秋祭りだ。五穀豊穣を寿いでみんなが幸せになる、華やかなお祭りだ。
  ――秋祭り

昔を今になすよしもがな
  ――賤の小田巻

【どんな本?】

 ソフトで口当たりの良い文章にのせ、今から少しだけ進んだ科学技術をガジェットとして使い、それが照らし出すヒトの心の屈折や鬱屈を容赦なく描き出す、菅浩江ならではの甘いながらも強烈な毒が詰まった短編集。

 SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2003年版」のベストSF2002国内篇14位。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2002年1月に早川書房より単行本刊行。2005年1月15日にハヤカワ文庫JAより文庫版発行。文庫本で縦一段組み、本文約339頁に加え、加納朋子の解説「祈りにも似て」8頁を収録。9ポイント39字×17行×339頁=約224,757字、400字詰め原稿用紙で約562枚。文庫本としては標準的な分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。いや実は所々に凝った先端技術のネタも混じってるんだけど、ほとんど気にならないように甘い衣に包んであるのが、この人の特徴。なので、別にわからなくても小説としては全く問題ないです。

【収録作は?】

五人姉妹
 園川グループは、医療品も手掛ける。社長の一人娘の葉那子は、社の新製品である成長型の人工臓器を埋め込まれて育つ。もしもの時のために、生体臓器のバックアップとして、四人のクローンも育てられていた。父の死に伴い、葉那子は姉妹たちと初めて会い、会話を交わす。
 同じ遺伝子を受け継ぎながらも、個性豊かに育った園川葉那子・吉田美登里・小坂萌・海保美喜・国木田湖乃実の五人姉妹。それぞれに思惑と鬱屈、そして父への想いを抱えながら、何を語るのか。私は美登里さんが好きだなあ。
ホールド・ミー・タイト
 松田向陽美はアラサー。好きな仕事だが上司とは折り合いが悪い。職場では四人の部下がいる。電脳空間では、性別を偽ってホストのまねごとをしている。イケメンに化けて、女の子たちを楽しませるのだ。幸いにして評判はいい。
 逆パターンはよくある話で、出会い系でオッサンがサクラをやったり。お互い同性だとツボを心得ているんだけど、引きどころが難しいそうだなあ。それより私は水木さんみたくバーテンをやってみたい。だって粋で渋くてカッコいいし。ある意味、憧れの職業だよね、バーテン。
KAIGOの夜
 世界は<大患>から立ち直り始め、多少は余裕ができたのか、<中枢>は一年前に個性尊重令を出した。フリーライターのユウジに連れられ、ケンは取材へと向かう。<中枢>は介護「される」ロボットを開発したという。そのロボットの所有者に会いにゆく。
 敢えて手間暇かけて面倒をみるってのは、楽しみの一つかもしれない。「たまごっち」や「プリンセス・メーカー」など、育成ゲームはあるけど、看取りゲームってのはさすがに知らないなあ。敢えて言えば「俺の屍を越えてゆけ」が…いや、だいぶ違うか。育てゲームは先に希望が見えるけど、看取るのは行き止まりなだけに、本質が露わになるのかも。とは別に、オチはロジャー・ゼラズニイの傑作を思わせたり。
お代は見てのお帰り
 バート・カークランドは、十歳の息子アーサーを連れ、ラグランジュ3にある博物館惑星<アフロディーテ>を仕事で訪れた。今は大型企画として大道芸人フェスティバルが開催中。風船芸人,ジャグラー,ダンサー,マジシャンなどが芸を披露するが、アーサーは顔をしかめ…
 「またSFなんてくだらない物ばかり読んで!」と、親からお小言食らって育ったSF者には身に染みる出だし。が、そこにもう一ひねり入ってるあたりが、面白いところ。一時期は大道芸ってあまり見なくなったけど、最近は駅前で歌う若者を見かけるようになった。やっぱり生の歌ってワクワクするよね。
夜を駆けるドギー
 別に大きなトラブルを抱えてるわけじゃない。でも家でも学校でも、どうもシックリこない。目立たぬよう日々をやり過ごしている。ネットではコープス=死体と名乗り、腕利きのHANZと組んでサイトを立ち上げた。テーマはドギー、犬型のマシン・ペットだ。
 「逝ってよし」など、あの頃の2ちゃんの雰囲気を、こんな風に見せつけるのは酷いw コープスのイタさもあって、今となってはムズ痒くてのたうちまわりたくなるw どころか、このブログの昔の記事もなかなかアレなんだが、それを気にしたら負けだw
秋祭り
 巨大なドームに覆われ、土壌も気候も完全に制御された、大規模な農業プラント。作業の大半は機械化されているが、立地が辺鄙なため、後継者が足りない。募集に応じた林絵衣子と高津ムサシは、木田に案内されて見学を続ける。今日は年に一度の秋祭りだ。
 イマドキのスーパー・マーケットは、作物の旬が全くわからない。さすがにスイカや柿は季節によるけど、キャベツやタマネギはいつ行っても売ってるし。改めて考えると、昔の農業ってのは、凄まじく賭け金のデカいギャンブルだよなあ。なんたって一年の年収、どころか下手すっと命が賭かってるんだから。
賤の小田巻
 AIターミナル。老人用の終身保養施設。入所者は頭蓋手術を受け、常時AIにサポートされる。AIは老人たちに心地よい仮想現実を与え、代償として人格パターンを学ぶ。入江雅史の父親、入江燦太郎は大衆演劇の人気役者だったが、座を解散してAIターミナルへ入所した。最後の演目は「賤の小田巻」。
 老いて肌には皴がより、それでも舞台の上では女形として若い娘を演じ続けた燦太郎と、それに反発し芸の道を離れた雅史。ありもしない楽園を入所者に見せ、また訪問者には居もしない若い姿の入所者を見せるAIターミナル。存在しない娘を舞台に現出させる役者。そういえば、作家も、見てきたような嘘を吐く商売だなあ。でもって、読者は「もっと騙してくれ」とせがんでたり。
箱の中の猫
 ISS。国際宇宙ステーション。90分で地上400kmを周回する、宇宙開発の拠点。守村優佳の恋人は、そこにいる。十日に一度、普久原淳夫から通信が入る。遠距離恋愛とはいえ、方向が高さとなると、はるかに遠い。エリートでありながら、淳夫は優佳の仕事、保育士に敬意を払い…
 なんと Wikipedia には「宇宙に行った動物」なんて記事もある。みんな実験用で、さすがに猫はいない。やっぱり猫は実験に向かないよねえ。もちろんネタはシュレーディンガーの猫なんだけど、「箱を開ける」の解釈が見事。
子供の領分
 僕はマサシ。記憶喪失で、十歳ぐらい。山奥の孤児院にいる。訪問者は月に一度、ドレイファス医師が来るだけ。一緒に住んでいるのは五人。妊娠中のマリ先生、11歳で喘息持ちのアキヒコ、14歳でお姫様気取りのカナエ、8歳でガキ大将のコウジロウ、5歳でバレリーナに憧れるリィリィ。
 どっかで聞いた事のあるタイトルだと思ったら、ドビュッシーの曲だった(→Youtube)。リィリィはともかく、他の三人はなかなかに鼻持ちならないクソガキ揃い。が、読み終えて改めてそれぞれの性格を見ていくと、うーむ。マサシから見ると、そう見えるんだろうなあ。

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2018年7月 8日 (日)

ダン・アッカーマン「テトリス・エフェクト 世界を惑わせたゲーム」白揚社 小林啓倫訳

「これ以上テトリスを手元に置いておけない!」
  ――6 拡がるクチコミ

「これはソ連からやって来た、最初の知的財産なんですよ」
  ――8 ミラーソフトへ

オリジナルのエレクトロニカ60版テトリスが開発されてからというもの、新しいバージョンが生み出される際には、みなゼロから開発しなければならなかった。オリジナル版のテトリスも、そしいてゲラシモフ版、ハンガリー版も、そのたびに新しいコードが書かれたのである。
  ――9 ロシア人がやってくる

テトリスは単純だ。あまりに単純すぎる。
  ――12 テトリス、ラスベガスをのみこむ

このロシア人たちは、ゲームカートリッジとは何か、そして日本の家庭用ゲーム機がどのようなものかも理解していないのか。
  ――16 大きな賭け

「モニター、ディスクドライブ、キーボード、オペレーティングシステムで構成される」
  ――18 チキンで会いましょう

(エド・)ログの秘密は、彼が対数によるチューニングに精通しているところにあった。難しさを倍にしたい場合、たんに速度を倍にするのではだめなことを、彼は見抜いていた。
  ――19 ふたつのテトリスの物語

【どんな本?】

 みんな知ってる大ヒット・ゲーム、テトリス。

 落ちてくるブロックを横にズラし、または回して、隙間なく詰めこむ。ブロックは7種類、いずれも4つの正方形を組み合わせたもの。ルールは簡単、操作も単純。ストーリーもキャラクターもなく、敵も味方もいない。感情を揺さぶる要素は何もないはずの、幾何学的なパズルゲーム。

 にも関わらず、テトリスは史上空前の大ヒットとなり、私たちの貴重な時間を食いつぶし、みんなを寝不足に追いやった。ばかりでなく、ぷよぷよなど幾つもの後継者を生み出し、「落ちゲー」というジャンルまで開拓してしまう。

 そのテトリスは、どんな環境で、どのように生まれたのか。いかにして増殖し、マシンの違いを乗り越えて変異・適応し、国家の壁をすり抜け、世界中にパンデミックを引き起こしたのか。

 1970年代から1990年代までのコンピューター情勢、冷戦末期の緊張漂う国際関係、魑魅魍魎が徘徊する戦国時代のゲーム市場、当時のソ連の意外な素顔、コネと度胸と計算とハッタリが渦巻くビジネス・シーン、プログラマー同士の絆、そしてテトリスとゲームボーイにまつわる秘話など、刺激的なネタをたっぷり詰めこみ、驚きと興奮と郷愁に満ちた傑作ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The TETRIS EFFECT : The Game That Hypnotized the World, by Dan Ackerman, 2016。日本語版は2017年10月17日第一版第一刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約343頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント45字×18行×343頁=約277,830字、400字詰め原稿用紙で約695枚。文庫本ならやや厚めの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくないが、テトリス登場当時の興奮を知っている年齢だと、更に楽しめる。中でも最も楽しめるのは、アセンブラで直接にハードウェアを叩くようなプログラムを書いている人だろう。

【構成は?】

 ほぼ時系列に沿って話が進むので、できれば頭から読んだ方がいい。あと、できれば登場人物一覧が欲しかった。重要そうな人物が登場する場面には、栞を挟むか付箋をつけるなどしておくといい。

  • Part 1
    • 1 グレイト・レース
    • 2 アレクセイ・レオニードビッチ・パジトノフ
    • 3 アメリカへ
    • 4 最初のブロック
    • 5 ザ・ブラックオニキス
    • 6 拡がるクチコミ
  • BONUS LEVEL 1 これがテトリスをやっているときのあなたの脳だ
  • Part 2
    • 7 鉄のカーテンの向こうから
    • 8 ミラーソフトへ
    • 9 ロシア人がやってくる
    • 10 「悪魔の罠」
    • 11 ELORGへようこそ
    • 12 テトリス、ラスベガスをのみこむ
  • BONUS LEVEL 2 テトリスは永遠に
  • Part 3
    • 13 防弾の契約
    • 14 秘密のプラン
    • 15 迫りくる嵐
    • 16 大きな賭け
    • 17 詰め寄るライバルたち
    • 18 チキンで会いましょう
    • 19 ふたつのテトリスの物語
  • BONUS LEVEL 3 認知ワクチン
  • エピローグ 最後のブロック
  • 謝辞/訳者あとがき

【感想は?】

 驚き呆れ焦り同感し懐かしみ感嘆し…と、気持ちを揺さぶられっぱなし。

 テトリスがソ連出身なのは有名だ。ただ、何の目的で、どんな経緯で造られたのか、となると、様々な憶測がある。曰く数学の教育用、AI研究、果ては…

「あまりに時間を費やしてしまうので、テトリスはアメリカの生産性を下げるために、悪の帝国で開発された悪魔の罠ではないかと怪しんでしまうほどだ」
  ――10 「悪魔の罠」

 と、陰謀説まであった。当然ながら、本書ではその真相も明らかになる。その過程で描かれる、当時のコンピューター情勢は、ロートル・プログラマーにとって、涙が止まらない懐かしさ。今でこそプログラミングは手軽に始められるが、1970年代はコンピューターに触れるってだけで特権階級だった。

1970年代初頭にコンピューターを自由に使うことができたというのは、紙の卒業証書より価値のあるものだったのである。
  ――3 アメリカへ

 ここで言うコンピューターは、懐かしきパンチガードでジョブを流すメインフレームである。現代の若いプログラマには意外に思えるだろうが、当時のプログラマはコンピューターに直接触れる事はできなかった。それはオペレーターという別の職種の方々の権限であって…

 などと年寄りが昔話を始めるとキリがない。

 それでも西側はマシな方で、ソ連をはじめとする東側は更にアレだ。それでもハッカー気質な人は洋の東西を問わず生まれてくる。最初の開発者アレクセイ・レオニードビッチ・パジトノフもそうだし、IBM-PCに移植したワジム・ゲラシモフもお仲間で、まさしく類は友を呼ぶ見本。

 ここで描かれるソ連のプログラマ同士の付き合いは、ネクタイ族が幅を利かせる前の古き良きエンジニアの楽園を思わせる。確かに政治的な締め付けこそ厳しいものの、契約だ権利だなどのウザい邪魔物から隔離され、面白いものはみんなで分け合うのだ。改めて考えると、これって共産主義の理想だよなあw

 かような環境はエンジニアにとって心地よいばかりでなく、テトリスの繁殖にも有利に働く。そう、繁殖である。バジトノフの職場を席巻したテトリスは、モスクワ市街へと漏れ出し、赤い首都も易々と陥落させ、国境をも超えて進撃を始め…

 と、テトリスが次々と人類を虜にしてゆくあたりは、その旺盛な感染力に舌を巻くばかり。だが、やがて鉄のカーテンが立ちふさがり…

 このカーテンを突き破ろうとする、西側のゲーム業界人の苦闘も、この本の大事な柱。なにせ相手は共産圏、こっちの常識は全く通じない上に、そもそも誰を相手にすればいいのかさえ分からない。ここで掟破りの大暴れを見せる任天堂の回し者、ヘンク・ロジャースの活躍はまるきしニンジャだ。

 何せ鉄のカーテンの向こう。

何かを尋ねるといいうのは(とくに1980年代のモズクワで政府機関について探るのは)、疑わしい行為なのだ。なんであれ、それを知らないのなら、おまえは知るべき人間なのではない――地元の人々はそう考えていたのである。
  ――1 グレイト・レース

 なんて所に、ロクなコネもなければ相手も知らず、体一つで突撃をかましたハンクの冒険は、ビジネスの成功物語としてもワクワクする。彼がELORG相手に繰り広げる大立ち回りは、秀吉の毛利攻めのような知恵と努力と誠意の物語だったり。また、ここでロジャースのバックとなる任天堂の体質も、日本人としてはちょっと誇らしかったり。

 また、テトリスそのものの数学的な性質や、ゲーム史の中でテトリスが打ち立てた数々の記録、そしてテトリスがヒトの精神に及ぼす影響も…

2014年に行われた研究によれば、テトリスをプレイすることで、喫煙者や飲酒者の欲求が約24%減少した。
  ――テトリス・メモ22

 なんて嬉しい話や、もしかしたらPTSDの治療に役立つかも、なんてネタまであって、ゲーム・マニアにはたまらない一冊だ。プログラマに、ゲーム・マニアに、冷戦時代のソ連に興味がある人に、ビジネスで一旗あげたい人に。読み始めたら止まらない、刺激と興奮に満ちたドキュメンタリーの傑作だ。

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