2018年2月22日 (木)

景戒「日本霊異記」平凡社ライブラリー 原田敏明・高橋貢訳

少しばかり聞き伝えたところをしるし、日本国現報善悪霊異記と名づけて、上中下の三巻に分け、後世に伝える。
  ――上巻の序文

吉志火麻呂は武蔵国多磨郡鴨里の人、母は日下部真刀自である。聖武天皇の世に火麻呂は大伴某に指名されて、九州防備の防人にいくことになった。防人の年限は三年である。母は子について行ってともに暮らし、妻は国にとどまって家を守った。
  ――中巻 極悪の子が妻を愛し、母を殺そうと謀って、たちどころに悪い死に方をした話 第三

奈良の都に一人の僧がいた。名前は分からない。僧はいつも方広経を誦して、俗人の生活をして、銭を貸すことによって妻子を養っていた。
  ――下巻 方広経を誦した僧が海に沈んで溺れなかった話 第四

【どんな本?】

 平安時代初期の僧・景戒が、聞き知った話を書き記したとされる、仏教の説話集。主に飛鳥・奈良時代を中心に、因果応報・勧善懲悪のストーリーで、仏教の信心を説く話が多い。が、中には、雷を捕えた・狐の嫁を娶ったなど、ちょっとした怪異譚も採録している。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 解説によると、成立は平安時代初期、嵯峨天皇の治世、810~824年ごろ。著者は「奈良右京の薬師寺の僧、景戒」と序文にある。正式な書名は「日本国現報善悪霊異記」。上巻35話,中巻42話,下巻39話の計3巻116話から成る。

 この版の現代語訳は1967年8月東洋文庫より刊行。これを平凡社ライブラリーに収録、2000年1月24日に初版第1刷発行。文庫本で縦一段組み、本文約296頁に加え、両訳者による解説20頁。9ポイント41字×15行×296頁=約182,040字、400字詰め原稿用紙で約456枚。文庫本では普通の厚さ。

 現代語訳だけを収録している。文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。成立は平安時代だが、飛鳥・奈良時代を舞台とした話が多い。なので中学校で学ぶ程度の日本史の素養はあった方がいい。

【感想は?】

 仏教の説話集だ。ただし庶民向け。なので、これを読んでも当時の仏教の教義はほとんどわからない。

 「信心しなさい」とは言うものの、じゃ信心って何?となると、かなりあやふや。殺生はイカン、ってのはわかるが、それ以外は仏像を拝めとか写経しろとか、とにかく熱心にやれってだけ。

 特にワケがわからんのは中巻「法師を打って現に悪病にかかり、死んだ話 第三十五」。「仏法を守る神はどうしていないいのか」なんて台詞が出てくる。当時は僧侶でも仏様と神様をハッキリ区別してなかったんだろう。

 そんな中でもちと都合よすぎだろ、と思うのは僧の扱い。乞食坊主であろうとも、僧をいじめたりののしったりしたら祟るぞ、だの、僧は魚を食べても構わないんだとかは、当時の仏教僧の特権意識がよく出ている。

 とまれ、そんな説教臭い所は置いて、怪異譚として読むと、それなりに収穫がある。

 なんたって、いきなり「雷を捕えた話」だ。たった三頁だが、話の展開がやたら早く、雷神は二度も捕まってる。残念ながら雷神の姿については何も書いていないので、虎のパンツをはいてたかどうかはわからないw

 次の「狐を妻として子を生ませた話」も、2頁と少しで話が終わる。男が嫁さんをナンパする場面も、実にスピーディ。正体がわかっても最後まで嫁さんラブラブな男が可愛い。昔からケモナーはいたんだなあ。お話の展開から、もしかしたら雪女の原型かも。

 異種婚姻譚だと、他には蛇が娘につきまとう話が幾つか。お話の中だと狐は雌で蛇は雄なのは、何か理由があるんだろうか。

 世界各地の神話・伝説と似てたり、共通点のある話もある。第三の「雷の好意で授けてもらった強力の子の話」では、生まれた子に蛇が巻き付いている。確かヘラクレスも雷神ゼウスの子で、赤ん坊の時に蛇を殺してるから、何か関係があるのかも。

 処女懐胎も幾つかあるけど、イマイチ有難みは少ない。

 比較的にマシなのは下巻「女が石を産み、神としてまつった話」第三十一。処女が孕み、三年ほどして二つの石を産む。実はこの石、神様の子で…とはあるが、特に何か有り難い事も起きず、アッサリ話は終わってしまう。「結石じゃね?」とか突っ込んじゃいけません。

 そんな中でも、やはり大きいと感じるのが中国の影響。死んで閻魔様に会い、話を聞いて蘇るってパターンがアチコチにある。これらは微妙に聊斎志異と雰囲気が似てて、たぶん大陸から流れてきた話なんだろう。

 ここでは「頭は牛、体は人間の形をした」云々ってキャラも出てくる。まるきし鬼だ。が、この話では鬼とは書いていない。他の話で鬼は出てくるんで、当時の鬼は今と違う姿をしていたのかも。

 また、「○○は××の人である」ってな書き出しも、中国の古典の定型を持ってきたんだろうなあ。

 おおらかだよね、と思うのは下巻「愛欲の心が生じ、吉祥天女の像をしたって、不思議なことがあった話」第十三。ある男が吉祥天女の像に惚れ、お勤めの度に「あなたみたいな美女を下さい」と熱心に祈ったところ…。このままエロマンガに使えそうな話だ。つまりアレって美少女フィギュアなのね。

 時代は変わっても人は同じと感じるのは、最後の一つ前、下巻「災いと善との前兆があって、後でそれが現れた話」第三十八。これは他と毛色が違って、著者の景戒自身が登場し、いろいろとボヤいてる。「わたしが身を受けること、ただ五尺あまり」とか嘆いてて、昔から背の高い男がモテたんだなあ。

 ここでは「爪はじき」なんて言葉も出てくるんだが、意味が現代と全く違っちゃってるのも、ちょっと趣があったり。また、景戒も僧ではあるけど嫁さんも子供もいて、戒律は江戸時代とだいぶ違う様子。

 とか、変なネタばかりを拾って紹介したけど、基本的には勧善懲悪な仏教の説話です、はい。

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2018年2月21日 (水)

マーチン・ファン・クレフェルト「戦争文化論 上・下」原書房 石津朋之監訳 2

作家にとって実体験は作品を書く上で大変貴重なものだと言われている。その一方で、歴史家にはよくあることだが、作家に戦争体験があるかどうかということと、読者に戦争がどんなものかわからせる能力との間に直接的なつながりがないことは、驚くべき事実である。
  ――第10章 文学と戦争

世論とは、大砲の餌食となる雑兵を提供しなければならない人々の意見という意味である。
  ――第11章 芸術と戦争

2001年、アメリカ合衆国で交通事故により死亡した人の数は、9.11アメリカ同時多発テロ事件の犠牲者の15倍だった。
  ――第16章 ヒトはどこへ向かうのか?

彼ら(=第二次世界大戦を研究した歴史家たち)の結論は、責任者である上級司令官を除いて、指揮官の性格は勝敗には大して関係なかったということである。軍公認のさまざまな公刊戦争史の結論も同じである。
  ――第16章 ヒトはどこへ向かうのか?

軍は何のために存在しているのかという本質を忘れ、「軍を飾る」ことを優先させると、その国の存在は危うくなる。
  ――第18章 魂のない機械

何はさておき、男たちが戦争文化を作った重要な理由には、女性に自分たちの武威を強く印象付けたいということもあった。
  ――第20章 フェミニズム

 マーチン・ファン・クレフェルト「戦争文化論 上・下」原書房 石津朋之監訳 1 から続く。

【諸君 私は戦争が好きだ】

 「ヒトは損得勘定で戦争するんじゃない、好きでやってる」。そういうおぞましい現実を読者に突きつけるのが、この本だ。

 実際、戦争は強い印象を残す。学校で学んだ歴史でも、覚えているのはほとんど戦争ばかりだ。平和な時代は記憶に残らないし、映画やドラマにもなりにくい。これは学者も同じらしく…

世界ではじめて歴史書が著されたときから、戦争はつねに大きな割合を占め、しばしばその中心となっている。
  ――第9章 歴史と戦争

19世紀ドイツの歴史学者ハインリヒ・フォン・トライチュケ(→Wikipedia)
「平和な時期があると歴史書に空白のページができてしまう」
  ――第9章 歴史と戦争

 なんて事を言ってる。

 そしてヒトは戦争を文化へと育ててきた。上巻では、平時における戦争文化、戦争の始まり・戦闘中・終戦に見られる文化、戦後の戦争文化を語る。下巻では、まず第二次世界大戦以降の戦争文化を、そして戦争文化を失ったケースを考察する。

 これらを博覧強記な著者が、古今東西の例をひいて裏付けしてゆく。

 特に上巻に出てくる具体例は、一般の人にとっては退屈だろうが、軍ヲタにとってはなかなか美味しい素材だったり。なんか不自然に日本の例が多いような気がするが、これは読者サービスなんだろうか。まるで日本人がどうしようもない戦闘民族みたいじゃないかw

【そして現在】

 主に歴史上の記述が多い上巻に対し、下巻では現在の話が多い。それだけ生臭くもあり、生々しくもあり。

 大きな趨勢としては、大国間の衝突が減った反面、国家の体をなしていない組織との戦いが増えた。大国間の衝突が減った理由が、これまたみもふたもない。

核兵器の拡散が、大国間における大規模戦争がほぼなくなった理由、おそらく唯一の理由であることは間違いない。
  ――第15章 常識が通用しない

 お互い核の恐怖で手を出せなくなった、というわけ。確かにそういう部分はあるんだが、これがいつまでも続くって保証はないんだよなあ。

 対して内戦や紛争など、国家ではない組織が関わる戦争が増えた理由も…

我々が目にしているものは、新しい形の混乱が生じているということではなく、昔もあった混乱への回帰である。
  ――第15章 常識が通用しない

 と、ここでもクレフェルト教授は容赦ない。実際、今のシリアの混乱も、「知恵の七柱」あたりを読むと、あの辺は昔からそうだったんだね、と納得しちゃったり。

【各国の事情】

 では戦争文化がなければどうなるか。ここで怖いのは「第17章 野蛮な集団」。例として挙げているのがユーゴスラヴィア内戦だ。これについては「ボスニア内戦」の迫力が凄い。つまりはチンピラや山賊の跳梁跋扈だ。

 続く「第18章 魂のない機械」では、ドイツ連邦国防軍の事情が、日本の自衛隊とカブって、何かと複雑な気分になる。軍は必要だけど、悪役であるナチス時代を思い出させるモノやコトはマズい。ってんで、旗や記章のデザインに苦労してたり。

 その後の「第19章 気概をなくした男たち」では、ユダヤ人の例を挙げてるんだが、ここはどうにも説得力がない。というのも、イスラエル独立以降のイスラエル国防軍の実績を見れば、彼らが無類の戦士集団としか思えないし。

 ちなみにイスラエルの核についてもムニャムニャしてるが、結論としては「皆さんのご想像通り」らしい。

【物言い】

 ただし、一つ文句を言いたい所が。

 「第16章 ヒトはどこへ向かうのか?」で、1945年以降に出版された戦争の記録として、三つを挙げている。第一は各国軍による公刊戦争史や歴史家による通史。次に兵站・諜報・経済など、戦闘以外の分野を絡めたもの。そして第三が、前線の兵に焦点をあてたもの。

 この第三について、「1990年代後半まで待たなければならなかった」としてアントニー・ビーヴァーの「スターリングラード」と「ベルリン陥落」を挙げている。

 これに文句を言いたい。ジャーナリストの著作を無視しないでくれ、と。コーネリアス・ライアンの「史上最大の作戦」,ジョン・トーランドの「バルジ大作戦」,そしてラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエールの「パリは燃えているか?」「おおエルサレム!」。

 1950年代末~1970年代の出版物だが、前線の兵や戦場にいた市民の目を通し、戦争の実態を立体的に再現しようとする力作だ。トーランド以外は歴史家じゃないが、一級品の資料だろう。

【最後に】

 とか文句を言っちゃいるが、歯に衣着せぬ論説は恐ろしくもあり、痛快でもあり。一見、戦争を賛美しているかのように思えるかもしれないが、決してそれほど単純な本じゃない。

 戦争を厭い平和を守りたいと思う人ほど、この本を読む価値がある。この本が正しければ、民主主義は戦争を防げない。ヒトが戦争を好むのなら、民意で動く民主主義国家こそ危ないのだ。

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2018年2月20日 (火)

マーチン・ファン・クレフェルト「戦争文化論 上・下」原書房 石津朋之監訳 1

(第二次世界大戦の)ドイツ軍にとって連合国が要求する無条件降伏は新奇な話であり、ドイツ軍兵士の多くは銃殺されるのではないかと恐れた。だが、アメリカ軍にとってこれは(南北戦争のユリシーズ・)グラントの例に倣ったに過ぎない。
  ――第7章 戦争のルール

ほとんどの部族社会は、自分たちが土地を「所有している」とは考えていない。どちらかと言えば土地に自分たちが所有されていると考えている。
  ――第7章 戦争のルール

【どんな本?】

 カール・フォン・クラウゼヴィッツは戦争論(→Wikipedia)で主張した。「戦争は政治の延長だ」と。特定地域や資源の支配権などで、幾つかの国家間の交渉が話し合いで決着がつかない時に、軍事力即ち暴力によって強引に解決しようとするのが戦争の原因である、と。つまりは血も涙もない損得勘定だ。

 だが、歴史上の戦争の記述や現実の軍隊、そして私たちの暮らしの中にも、この理屈には合わない事柄がたくさんある。

 例えば、戦争物の物語では、戦士たちの壮麗な姿が描かれる。剣や鎧はピカピカに磨かれ、盾には華麗な装飾が施される。騎士が乗る馬すら、刺繍を施された被り物をしている。洋の東西を問わず、戦場に赴く戦士たちは華々しく着飾る。

 一般にプロが用いる道具は武骨で不愛想なものだ。自動車整備工が使うドライバーやスパナ、大工が使う鋸やカンナ、板前が使う包丁。きれいに磨かれてはいても、握りに余計な装飾はつけない。では、なぜ戦士たちは無駄に着飾るのだろうか? どうせ血や泥で汚れるのに。

 これが物語の中だけなら、お話を盛り上げる演出で片づけられるかもしれない。だが、21世紀の現代においても、奇妙な事柄は沢山ある。例えば北朝鮮の軍事パレードだ。

 行進する兵は、膝を曲げず足をピンと伸ばしている。見世物としては面白いが、彼らはサーカスじゃない。実際の戦闘で、あんなケッタイな歩き方をするわけじゃあるまい。では、何のために彼らは奇妙な歩き方をするのだろう?

 名著「補給戦」を著したイスラエルの歴史家マーチン・ファン・クレフェルトが、クラウゼヴィッツの戦争論に毅然と異を唱え、豊富な資料を元に戦争の原因や軍の性質と存在意義を考察し、現代における戦争や将来の展望を示す、21世紀の戦争論。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Culture of War, by Martin van Creveld, 2008。日本語版は2010年9月7日第1刷。単行本ハードカバー縦一段組みで上下巻、本文それぞれ約371頁+243頁=614頁に加え、監訳者の石津朋之による解説「人類は戦争に魅了されている? 戦争と文化」が豪華25頁。

 9.5ポイント43字×18行×(371頁+243頁)=475,236字、400字詰め原稿用紙で約1,189枚。文庫本なら厚めの上下巻か薄めの上中下巻ぐらいの大容量。

 「補給戦」に比べると、文章はかなりこなれている。が、相変わらず内容は高度だ。主に西洋を中心とした歴史上の有名な戦いに加え、旧約聖書や「イリアス」など古典文学の引用も多く、読みこなすには相当の教養を要求される。

【構成は?】

 原則として前の章を受けて後の章が展開する形なので、素直に頭から読もう。先に書いたように、読みこなすには歴史と古典の素養が要るけど、わからない所は読み飛ばそう。というか、私は読み飛ばした。でも大丈夫。それでも著者の主張は充分に伝わってくる。

  •   上巻
  • 日本語版への序文
  • はじめに
  • 第一部 戦争に備える
    • 第1章 ウォーペイントからタイガースーツまで
    • 第2章 ブーメランから城塞まで
    • 第3章 軍人を養成する
    • 第4章 戦争のゲーム性
  • 第二部 戦争と戦闘において
    • 第5章 口火となる言葉(行動)
    • 第6章 戦闘の楽しみ
    • 第7章 戦争のルール
    • 第8章 戦争を終わらせる
  • 第三部 戦争を記念する
    • 第9章 歴史と戦争
    • 第10章 文学と戦争
    • 第11章 芸術と戦争
    • 第12章 戦争記念碑
  •   下巻
  • 第四部 戦争のない世界?
    • 第13章 平和だった時期はほとんどない
    • 第14章 大規模戦争の消滅
    • 第15章 常識が通用しない
    • 第16章 ヒトはどこへ向かうのか?
  • 第五部 戦争文化を持たぬ世界
    • 第17章 野蛮な集団
    • 第18章 魂のない機械
    • 第19章 気概をなくした男たち
    • 第20章 フェミニズム
  • 結び 大きなパラドックス
  • 謝辞
  • 解説 「人類は戦争に魅了されている? 戦争と文化」石津朋之
  • 原注/索引

【感想は?】

 クレフェルト教授、全方位に喧嘩売りまくり。

 なんたって、冒頭の「はじめに」から、この世界じゃ最も有名なクラウゼヴィッツ「戦争論」の引用から始まるんだが…

理論的に考えれば、戦争は目的を達成する一つの手段である。野蛮ではあるが、ある集団の利益を図ることを意図して、その集団と対立する人々を殺し、傷つけ、あるいは他の手段で無力化する合理的な活動である。

 うんうん、そんな事を言ってたよね、と思ったら、これに続くのが…

だが、この考えは見当違いもはなはだしい。

 と、天下のクラウゼヴィッツ御大に開始ゴング早々、右ストレートをブチ込むのだ。でも油断しちゃいけない。「おおスゲぇ、痛快だぜ」などと喜んでると、いきなり振り向いて軍人や軍ヲタにケリを放ってくる。

他の文化同様、戦争に関わる文化の大部分は「無用の」行為、飾り、あらゆる虚飾である。
  ――はじめに

 ヲタクは道楽でやってるんだから無用と言われても仕方がない、というか道楽なんて本来そういうものだが、国を守るため命を懸けている職業軍人まで虚飾と言い切る度胸はたいしたもの。

 とか書くと、ただの過激派みたいだが、なにせ博覧強記のクレフェルト教授だ。ある意味そこらの過激派よりよほど過激な事を言ってる本なんだが、その土台となる知識と教養の広さ、そこから生み出される思索の深さは、ニワカとはいえ軍ヲタの私が持つ違和感や矛盾を容赦なく突いてくる。

 私は戦争に反対だ。だが、戦争関係の本や映画や大好きだ。そういう矛盾を抱えているのは、私だけじゃない。例えば映画監督のスティーヴン・スピルバーグ。リベラルな彼だが、映画「プライベート・ライアン」では、彼の突き抜けた軍ヲタぶりを見せつけた。

 本や映画ばかりではない。ゲームだって、戦争物・戦闘物は花盛りだ。というか、バトルのないゲームの方が少ないだろう。では、ゲームとは何か。

遊ぶとき、我々は一つのゲームに没頭している。ゲームは何か他の目的のためではなくやりたいからやる活動、と定義されるかもしれない。
  ――第4章 戦争のゲーム性

 そう、ゲームは楽しいのだ。これがモニタの中に留まっていればともかく、現実世界にまで飛び出すと、更に楽しみが増すのはポケモンGOが証明している。まあポケモンなら平和なもので、稀に不届きな輩が自動車の運転中に遊んで事故を起こすぐらいで済んでいる。

 事故で亡くなっている人もいるのに不謹慎な、と思う人もいるだろうが、現実はもっとおぞましい。というのも、湾岸戦争やイラク戦争では、多くの人がテレビの画面に釘付けになった。夜空を飛び交う曳光弾の下では、数百・数千・数万の人々が命を失っているのに。

 なぜ私たちは、戦争の中継に夢中になってかじりつくのか。

 そして、先に書いたように、戦士たちは着飾る。往々にして、それは実用性を遥かに超え、どころか戦いの邪魔になるまで装飾は発達する。

伝説によると19世紀末、イギリス海軍の連中は砲を野蛮なものとみなしていた。発射すると戦艦の塗装にひびが入るからというのがその理由だった。
  ――第2章 ブーメランから城塞まで

 「俺の可愛い○○が傷つくから戦争を止めろ」と叫ぶのは、無責任な軍ヲタだけではないらしい。こういった装飾には、ハッタリの意味もある、と著者も語っている。確かにみすぼらしい格好をしていると、カッコいい者に気おされる部分は確かにある。が、それだけじゃない。

 こういった疑問に、著者は恐ろしい解を示す。

戦争は究極のゲームなのだ。
  ――第4章 戦争のゲーム性

 と。そしてゲームとは、「やりたいからやる活動」だ。私たちは戦争をしたいのだ。平野耕太の漫画「HELLSING」の少佐は、私たちの本音を語っているのだ。遠くで眺めているだけならともかく、実際に従軍したら違うだろうって? うんにゃ。

戦争はごめんだと口で言いながらも、「すごく楽しかった」、「戦争したい」と心から思っているもう一人の自分がいるのだ。
  ――第6章 戦闘の楽しみ

 そう語る従軍経験者も多い。私たちは、戦争が好き、どころではない、大好きなのだ。他の何にも代えがたいほどに。

 次の記事に続きます。

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2018年2月15日 (木)

SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2018年版」早川書房

とくに影響を受けたのは『ポル・ポト ある悪夢の歴史』という九百ページ近い伝記で…
  ――『ゲームの王国』刊行記念イベント採録
   暴力の歴史から未来のゲームへ 小川哲×山形浩生×大森望

もともと文学は使えるものは何でも使うのであって、別にSFを手本にしたとかSFから刺激を受けたわけではない。しょせんは題材の問題にすぎず、(略)彼が目ざすテーマを表現する手段として、そうした道具立てを用いているだけだ。
  ――牧眞司 海外文学

誤った学説はイメージの宝庫であり、SF的想像力を刺激する。
  ――長山靖生 文芸ノンフィクション

社屋の破壊が定期的に観測される出版社です。度し難い。
  ――このSFを読んでほしい! 竹書房

 SFファンへの、ちょっと早いバレンタイン・プレゼント。

 やはり目玉は、昨年のSF関係出版物の人気投票、「ベストSF2017 国内篇/海外篇」。前回に続き今回も30位までを発表。

 加えて、ライトノベルSF/国内・海外ファンタジイ/国内・海外ホラー/国内・海外ミステリ/海外文学/文芸ノンフィクション/科学ノンフィクション/SFコミック/SF映画/SFアニメ/SFゲームなど、各ジャンルのお薦め作品ベスト10。

 更に「2018年のわたし」として、人気作家が今年の活動を予告するほか、各出版社もSF関連書籍の出版予定を知らせてくれる。あんましアテにならないけどw いや「ブルー・マーズ」が本当に出るとは思わなかった。もちろん私のイチオシです、はい。地味だけど星敬氏の「2017年度SF関連図書目録」も労作。

 ベストSFは、やっぱり見逃してたのが沢山あるなあ。赤野工作「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」とか松崎有理「5まで数える」とかG・ウィロー・ウィルソン「無限の書」とかオマル・エル=アッカド「アメリカン・ウォー」とか。

 この人気投票の特徴は、各投票者の投票内容トコメントまで発表している点。実はこれも侮れない鉱脈で。フランシス・ハーディング「嘘の木」とか藤原辰史「トラクターの世界史」とか、すんげえ気になる。にしても西村一は潔いなあw

 今回の特集っぽいのは、小川哲とクリストファー・プリースト。

 小川哲、やっぱし「ポル・ポト ある悪夢の歴史」を読んでたか。凄いよね、あれ。あとフランソワ・ポンショー「カンボジア・ゼロ年」も面白そう。クリストファー・プリーストはブックガイド。「逆転世界」は、読んだ後しばらく世界が歪んで見えたなあ。それぐらいイメージが強烈だった。

 出版予定では、アトリエサードのアルジス・バドリス「無頼の月」って、去年も…それとジョン・ブラナー「ザンジバーに立つ」は…いえ、なんでもないです。河出書房新社、谷甲州「星を創るものたち」の続編、期待してます。東京創元社、アン・レッキー「叛逆航路」シリーズはまだ続くのか!

 「九百個の零號琴」とか「んなぁ~」とか唸りつつ、今日はここまで。

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2018年2月14日 (水)

分類か属性か

 その昔、「ライトノベルの定義ってなんだろう」って記事を書いた。

 瀬尾つかさの「約束の方舟」とか、ライトノベルかSFか悩むよね、って話。結論は、そもそもラジオボタン的にどっちかにしろってのが無茶で、チェックボックス式に考えた方がよくね?みたいな話だった。

 が、もちっと深く考えると、これもちと違うような気がする。改めて図で示してみよう。

 最初の発想はこうだ。

ライトノベル
SF
それ以外

 ライトノベルなら、SFではない。SFなら、ライトノベルではない。そうやって「分類」しましょうって発想。でも、小説って、一つの作品が様々の属性を持ってるよね。ってんで、私の提案はこれ。

ライトノベル
SF
その他

 その作品は、どんな属性を持っているかで考えようよ、ってこと。これなら、一つの作品が、「ライトノベルかつSF」でありえる。おお、悩みが消えた! と一旦は納得したんだが、改めて考えると、こっちの方が近いんじゃなかろか。

ラノベ:
SF  :
その他

 一つの作品は、様々な属性を持っている。そして、属性により、多い少ないがある。でもチェックボックスじゃ、属性の多寡が著せない。そこでスライドバーだ。これなら、より正確に「約束の方舟」を表せる。ラッキー。

 ってな具合に、世の中じゃ二者選択とか三者選択とかあるけど、現実にはスライドバー的に表した方が適切だよね、みたいなのは他にもあって。

 例えば理系/文系だ。こんな感じだと、世の人は思っている。

理系
文系

 理系なら、文系ではない。文系なら、理系ではない。でも、この理屈が当てはまらない人もいる。

 有名な所では、ロボット三原則で有名なアイザック・アシモフだ。化学者だから理系? でもエッセイでは、歴史など文系の蘊蓄も楽しい。加えて、娯楽作家として、読者を楽しませるのも巧みだ。これは芸能・芸術系とでもしよう。とすると、アシモフはこんな感じじゃなかろうか。

理:
文:
芸:

 理系方面は専門の学者だから最高レベルだ。また小説やエッセイの売り上げを見れば、芸能・芸術系でも最高と言っていい。流石に歴史関係じゃ専業の歴史学者には敵わないだろうが、そこらの素人とはレベルが違う。とすると、この辺が妥当だろう。

 対して私は…いやどうでもいいじゃないですか、あはは←をい。

 なんにせよ、こう考えていくと、理系/文系なんてのは、あましアテにならない概念なんじゃなかろか、と思えたり。

 やっぱり怪しいのが、保守/リベラルなんて分け方。ジョナサン・ハイトは「社会はなぜ左と右にわかれるのか」で、こんな主張している。

 政治思想の違いは、倫理、つまり「何が正義か」の判断基準によるものだ。これは感覚的なもので、理屈で答えを導き出してるんじゃない。反応速度の速さがその証拠だ。この倫理感覚は、少なくとも六つの要素から成る。各要素の感度により 保守/リベラル/リバタリアン の三種に分かれる。

保守の人は、忠誠や権威を重んじ、神聖さを大切にする。

ケア/危険:
公正/欺瞞:
忠誠/背信:
権威/転覆:
神聖/堕落:
自由/抑圧:

リベラルは、傷ついた者を守り、公正であろうとする。

ケア/危険:
公正/欺瞞:
忠誠/背信:
権威/転覆:
神聖/堕落:
自由/抑圧:

リバタリアンは、自由こそ正義と感じる。

ケア/危険:
公正/欺瞞:
忠誠/背信:
権威/転覆:
神聖/堕落:
自由/抑圧:

 こんな風に、私たちは右と左なんて単純に分けちゃうけど、実際には様々な要素が絡んでるんだよ、とジョナサン・ハイトは主張してるわけだ。シリアで暴れてた山賊とかは、「神聖/堕落」が強いんだろう、とか考えると、なんか腑に落ちるし、結構いいセンいってる発想だと思う。

 と、そんな風に、単純に二つに分けてたシロモノが、実は幾つかの要素のせめぎ合いだった、みたいな話は、他にもあるんじゃないかな、と思ったり。

 とか偉そうに言ってるけど、実は HTML でスライドバーを書けると知ったので、やってみたかっただけなんです←をい

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