2020年7月16日 (木)

藤井太洋「ハロー・ワールド」講談社

「神なるドローン様、今度はわたしにルンバを降らせてください――神様」
  ――行き先は特異点

ライブ中継には遅延が絶対に必要だ。
  ――五色革命

中国政府が変わったのではない。
ツィッターが変わったのだ。
  ――巨像の肩に乗って

「こんな暮らしをしていますから、どこの国でも使える通貨があるといいですよね」
  ――めぐみの雨が降る

【どんな本?】

 「Gene Mapper - full Build -」で鮮烈なデビューを飾った藤井太洋が、得意とする最新ITテクノロジー、それもオープンソース系を中心に、オープンソースならではのテクノロジーが世界に及ぼす影響を、至近未来を舞台に描く連作短編集。

 ITエンジニアの文椎泰洋は、講習会で知り合った仲間と共に、iPhone 用の広告ブロックアプリ<ブランケン>を開発し公開した。最初はあまり反応がなかったのだが、ある時から急に利用者が増える。調べてみると、その大半がインドネシアだった。特にインドネシア独特の機能はつけていない。奇妙に思い更に調べ続けると…

 SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2019年版」のベストSF2019国内篇で第4位。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2018年10月16日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約273頁。9ポイント43字×19行×273頁=約223,041字、400字詰め原稿用紙で約558枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章はこなれていて読みやすい。内容は、さすがに Swift や GIrHub などIT系の単語が続々と出てくる。が、その大半は「知っている人を唸らせる」ためで、わからなくても大きな影響はない。とりあえずスマートフォンが使えれば話のすじは追える。最近噂になった台湾のIT担当の唐鳳(オードリー・タン)大臣のニュースを読んで何が書いてあるか見当がつくなら充分だろう。iPhone と iPad と MacBook の区別がつけば更によし。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 初出。

ハロー・ワールド / 「小説現代」2016年3月号
 文椎泰洋はIT系のなんでも屋と自任している。得意先との折衝から機材の確保、多少の開発まで一通りこなすが、どれも一流とは言えない。講習会で知り合った開発者の郭瀬敦・販売管理の汪静英と共に、iPhone 用の広告ブロックアプリ<ブランケン>を作り公開する。当初はほぼ無反応だったが、いきなりインドネシアで利用者が増えた。別にインドネシア独特の機能はついていないのだが…
 ドラマなどで活躍するプログラマは凄い勢いでキーボードを叩くけど、実際は…。こういった現場の様子や、iPhone 用の開発環境とか、その手の読者を唸らせる描写はさすが。多国語対応のあたりから、IT産業が既に世界の経済を変えつつある様子がヒシヒシと伝わってくる。当然、それは民間だけでなく…。この記事を書く前にPCを立ち上げたら、いきなり Edge のアップデート通知が出てきて、やたらビビってしまった。
行き先は特異点 / 「小説現代」2016年11月号
 文椎泰洋はアメリカにいる。上司の幾田廉士に命じられ、ラスベガスに行く途中だ。目的は買収した会社のドローン製品<メガネウラ>を届けること。カーナビに従いフォードを運転していたが、なぜかキャンプ場に迷い込む。おまけに、Google が実験中の自動運転車に追突されてしまう。幸いスピードは出ていなかったし、相手のドライバーのジンジュは友好的だ。警察を呼んだがしばらく時間がかかる。暇つぶしに<メガネウラ>の試験飛行をすると…
 これまた Google や Uber が変えつつある、私たちの仕事環境を切実に感じさせる作品。昔の製造業じゃ盛んにQCとかやってたけど、今はそれどころじゃないんだよなあ。そんなトラブルさえビジネスに利用する幾田廉士の逞しさには感服してしまう。ベンチャー企業を経営するには、それぐらいのしたたかさが必要なんだろう。台湾の唐鳳IT担当大臣と日本の政治家の知識の差を騒ぐ日本のマスコミで、GitHub をチェックしてる記者は果たしているんだろうか?
五色革命 / 「小説現代」2017年4月号
 出張でタイに来た文椎泰洋は、帰国の日にバンコクのホテルで足止めを食らう。恒例のデモが予定より早く始まり、しかも規模が大きいのだ。デモの主催団体は一つじゃない。農民たちは赤、市民連合は青、新興仏教のオレンジ、軍の緑。それぞれ主張も違う。同じホテルに缶詰めになった客たちと話し込んでいた泰洋に、乱入してきた者たちが詰め寄ってきた。
 年中行事のようにクーデターが起きるタイ、それもバンコクの現状を伝える作品。先代のラーマ九世は国民から絶大な支持を受けていたが、今のラーマ十世はムニャムニャ。そんなタイのデモの裏事情や、外国人の立場の描写も生々しい。こういう「あまり知られていない国際事情」を、市民の視点で巧みに盛り込むあたりは、故船戸与一を彷彿とさせる。
巨像の肩に乗って / 「小説現代」2017年8月号
 中国政府は金盾でインターネットを検閲している。そんな中国に対し、Google や Facebook は撤退するなど対応に苦慮している。その中国政府にツィッターが折れた。これに刺激された文椎泰洋は、ツイッターに似たサービス<マストドン>(→WIkipedia)の改造版<オクスペッカー>を作り始める。暗号化して当局が追跡できないようにするのだ。
 某事件に対する著者の怒りが静かに伝わってくる作品。ほんと、もったいない。アレを巧く育てれば、国際的な力関係を大きく変えられたのに。その原因がメンツと無理解によるのもってのが、実に馬鹿々々しい。もっとも、本作品に登場するのは某事件と異なる部署なんだけど、ソッチはどうなんだろうねえ。もっと酷いんじゃないかと思うんだが。
めぐみの雨が降る
 文椎泰洋は、マレーシアのクアラルンプールにいる。仮想通貨のセミナーに呼ばれたのだ。空港へと向かう空き時間に、呉紅東と名乗る男に話しかけられる。先の<オクスペッカー>で泰洋に注目したらしい。最初は穏やかだった呉だが、中国の公安当局からのクレームの話題になると…
 ホットな話題になっている仮想通貨をテーマに、長編小説を数編書けるようなネタを惜しげもなくギッシリと詰めこんだ贅沢な作品。たかが90頁にも満たない作品なのに、次から次へと著者ならではの知識と発想が披露され、読んでいると知恵熱が出そうになる。改めて「そもそも通貨って何だろう?」と、深く考え込んでしまった。

 日本のマスコミはもちろん、CNNやBBCのニュースだけじゃわからない国際事情に焦点を当て、市民の視点でわかりやすく描くあたりは、故船戸与一を思わせる作品が多い。加えて、ITテクノロジーがもたらす豊かさと、それに伴い変わっていく世界、そしてかつてインターネットが抱かせた自由への幻想が現在はどうなっているかを冷静に見つめる目は、著者ならではのものながら、その底に流れるテクノロジーとj人間への信頼は、J.P.ホーガンのファンに強く訴えるものがある。「今はとても熱い時代なんだよ」と読者に伝える、力強い物語だ。

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2020年7月13日 (月)

デイビッド・モントゴメリー「土・牛・微生物 文明の衰退を食い止める微生物の話」築地書館 片岡夏美訳

土壌劣化の問題は、人類が直面する差し迫った危機の中で、もっとも認識されずにいるが、同時にきわめて解決しやすいものでもある。(略)その秘訣は、彼らが収穫量を維持し、あるいは増やしながら利益を向上させていることにあるのだ。
  ――序章

小規模で多様性の高い農場は、工業化された単一栽培の大規模なものより、面積当たりの収穫量が多いのだ。(略)1992年のアメリカ農業センサスの報告によれば、小規模な農場はエーカーあたり、大規模な農場の二倍もの生産高をあげている。
  ――第2章 現代農業の神話

「家畜がいないわけじゃない。顕微鏡でないと見えないんだ」
  ――第6章 緑の肥料

(集約放牧で成功したゲイブ・)ブラウンは、自分のやり方では財政が多様であるため、人のためにも土地のためにもいいのだと確信している。
  ――第9章 過放牧神話の真実

鍵となる概念の転換は、短期間の集約放牧のあとに長い回復期間を置くという組み合わせだ。
  ――第9章 過放牧神話の真実

熱帯地方はバイオマス生産の速度では最高だが、分解の速度ももっとも速い。したがって有機物の蓄積が難しい。
  ――第10章 見えない家畜の群れ

産業革命から20世紀の終わりまでに大気に加えられたすべての炭素の1/4~1/3は、耕起によって増えたものだ。
  ――第11章 炭素を増やす農業

…現在は中国が世界のリン生産のほぼ半分を占めている。
  ――第12章 閉じられる円環

【どんな本?】

 「土の文明史」で、著者は警告した。「土が荒れれば文明は滅ぶ、土を守れ」と。実際、合衆国はダストボウル(→Wikipedia)で痛い目を見た。

 だが、守るだけではジリ貧だ。世界の人口増加はしばらく続く。だから食糧生産も増やさなきゃいけない。新しい農地を開拓するだけでなく、既に荒れた農地を蘇らせる方法はないのか?

 ある、と著者は言う。環境保全型農業だ。その名前から、ナニやらいかがわしい臭いを嗅ぎつける人も多いだろう。実際、その手法は従来の農業の常識を覆している。そこで、論より証拠とばかりに著者は合衆国・ガーナ・コスタリカなど世界を巡り、環境保全型農業に切り替えて稼ぎを増やしている農家を訪ね歩く。

 環境保全型農業とは何か。それはどんな方法で、どんな効果があるのか。そこにはどんなメカニズムが働いているのか。なぜ稼げるのか。誰が得をして誰が損をするのか。そんなに美味しい方法なら、なぜすべての農家が採用しないのか。

 環境保全・科学・経済・政治など、多角的な視点で環境保全型農業の推進を訴える、一般向けの啓蒙書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Growing a Revolution : Bringing Our Soil Back to Life, by David R. Montgomery, 2017。日本語版は2018年9月7日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約314頁に加え、訳者あとがき3頁。9ポイント49字×19行×314頁=約292,334字、400字詰め原稿用紙で約731枚。文庫なら厚い一冊分ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。敢えて言えば、農家への補助・保険制度がよくわからなかった。また、あくまでも一般向けの解説書であって、本業の農家向けではない。原理・原則は何度も繰り返し触れているが、実際の手法は個々の農家の事情により異なるため、このままでは使えない。もっとも、日本では、似たような事を既にやっている農家も多いと思う。

【構成は?】

 全体として一つの物語になるように組み立てているので、できれば頭から素直に読もう。

  • 序章
  • 第1章 肥沃な廃墟 人はいかにして土を失ったのか?
    人類最悪の発明 犂/自然と働く道/新たな革命 土壌の健康を求める農法
  • 第2章 現代農業の神話 有機物と微生物から考える
    神話の真実 化学製品は世界を養うか?/遺伝子組み換え作物が招いたいたちごっこ
  • 第3章 地下経済の根っこ 腐植と微生物が植物を育てる
    回帰の原則 菌根菌の役割に気づいた農学者/土の中の生命 根の回りで起きていること/微生物がにぎわう健康な土
  • 第4章 最古の問題 土壌侵食との戦い
    高いコストと衰えゆく土/土壌有機物はなぜ半減したのか?/くり返す土壌喪失 古代ギリシャと新大陸/土が文明を左右する
  • 第5章 文明の象徴を手放すとき 不耕起と有機の融合
    新たな道 環境保全型農業の三原則/ダスト・ボウルへの道 犂がもたらした大砂嵐/誰もが無料で採用できる解決策/零細農家を救った被覆植物/普遍的で単純な土壌管理の原則/深く根を張る作物を求めて/新しい多年生作物
  • 第6章 緑の肥料 被覆作物で土壌回復
    実物大の実験農場/雑草が生える余地をなくす方法/自給自足の肥料/輪作で害虫管理/ハイテク不耕起農業/農業システムを改善するための単純な原則
  • 第7章 解決策の構築 アフリカの不耕起伝道師
    自給農家向け不耕起センター/ミスター・マルチ/農民たちの日曜学校/渇水から作物を守る/森の土壌を再現する/食糧ジャングルの成案力/金は食べられない/土地の特徴を生かす研究
  • 第8章 有機農業のジレンマ 何が普及を阻むのか?
    有機不耕起農法は可能か?/有機農業のメリット 経済・環境・土のメリット/「有機っぽい」農業のすすめ/「農業はなくてはならない」/菌根菌と土壌団粒 グロマリンの働き/再生可能な農法へ
  • 第9章 過放牧神話の真実 ウシと土壌の健康
    四種の畑/よりよいやり方/低コストの再生可能農業/雑草をベーコンに 有畜農業/水の浸透と昆作の関係/過放牧の効果/ウシが温暖化を食い止める
  • 第10章 見えない家畜の群れ 土壌微生物を利用する
    微生物を生かすバイオ炭/コンポストティー/コーヒー農家を変えた微生物接種/さび病と土壌微生物/食べ物の森 経済と生物の恩恵/バイオ炭に棲む地下の家畜/希望の光
  • 第11章 炭素を増やす農業 表土を「作る」
    炭素を土中へ/根菜が高める土壌栄養素/農場破産の原因/成功の鍵は多様性/世界が注目する農場/庭に見る土壌の回復
  • 第12章 閉じられる円環 アジアの農業に学ぶ
    排泄物を肥料に/バイオソリッド 現代の栄養循環/都市農業を活性化させる/終わりのない再生
  • 第13章 第五の革命
    生物多様性と持続可能な農業/農法転換の鍵/土を取り戻す新しい哲学
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献/索引

【感想は?】

 いきなり、けっこう無茶を言ってくる。不耕起、つまり「耕すな」だ。アタマ大丈夫かおい。マリファナで頭ヤラれたんじゃねえの? だが、読み進めると、それなりに理に適っているように思えてくる。実は単に不耕起ってだけじゃない。三つを組み合わせなきゃいけないのだ。

環境保全型農業は三つの単純な原理の上に成り立つ農業体系だ。
1.土壌の攪乱を最小限にする。
2.被覆作物を栽培するか作物残渣を残して土壌が常に覆われているようにする。
3.多様な作物を輪作する。
  ――第5章 文明の象徴を手放すとき

 これらの目的は、土を作ることにある。肥えた土を作り保つこと。それが環境保全型農業のキモだ。実際、昔から、農地は質で価値が違った。肥えた土地は高価で痩せた土地は誰も欲しがらない。なら肥えさせりゃいいじゃん、そういう理屈だ。けど、そんな事、本当にできるの?

 やはり昔から、農家は肥えた土地と痩せた土地を見分けがついた。ドイツの化学者ユストゥス・フォン・リービッヒが、これに科学的のお墨付きを与える。リービッヒの最小律(→Wikipedia)だ。植物の育成に必要な養分は三つ、窒素・リン酸・カリウムだ、と。なら足りない養分を補えばいいってんで出来たのが化学肥料。フリッツ・ハーバーさん、カール・ボッシュさんありがとう。あなたがたは人類を救った(→「大気を変える錬金術」)

 …はずだったが、結果はダストボウルだ。どうしてこうなった? 土が死んだからだ。むき出しの土地は死ぬ。だから被覆作物で覆え。同じ作物を作り続けると土地が痩せる。そこで多様な作物の輪作で防げ。

 って、ちと急ぎ過ぎた。実は本書もリービッヒの最小律を認めている。ただ、三要素の補い方が違う。ここで意外な元素に目を向ける。炭素だ。ほおっておいても、植物は土に炭素を注ぎ込む。また枯れた茎や落ち葉も土に炭素を供給する。これの何が嬉しいか、というと…

植物は土壌中に、みずから作った炭素を豊富に含むさまざまな分子を放出する。それは光合成による生産物の1/3以上を占めることもある。こうした滲出液は主に、土壌微生物には魅力的な餌となるタンパク質と炭水化物(糖)でできている。
  ――第3章 地下経済の根っこ

有機物含有量が1%から3%に増えると、土壌の保水力は時には二倍になり、一方で浸水した土壌中の病原体が好む嫌気的な条件ができるのを防ぐのに役立つ。
  ――第6章 緑の肥料

 土がフカフカになって、水を保ちやすくなるんですね。だけじゃない。マメ類に寄生する根粒菌は窒素を固定して土を肥やすのが知られている。根粒菌だけじゃなくて、他にも様々な菌があって、リンやカリウムも補ってくれるのだ。

「土壌がなければ植物はありえないし、植物がなければ土壌もありえない。ミッシング・リンクは菌類だった」
  ――第8章 有機農業のジレンマ

 ただし、菌類が増えるには炭素、つまり有機物が必要なんです。

炭素は、施肥設計に欠かせないものとして計画されることはない。農家と研究者は通常、窒素、リン、カリウム、ことによるとカルシウム、硫黄、亜鉛に重点を置く。植物は土壌炭素を直接吸収しないからだ。だが炭素は、植物のマイクロバイオーム、つまり根圏に生息する錬金術師のような微生物の集団の餌になる。
  ――第11章 炭素を増やす農業

 と、大雑把な理屈はそうだし、具体例も本書にたくさん出ている。ただし、理屈を現実に当てはめるのは難しい。農家だって食ってかなきゃいけない。そもそも、農業はバクチだ。米作農家でコメが取れなかったら年収を失う。農家が頑固なのも当たり前なのだ。あなた、一年間も無収入でやってけます? だから、どうしても今までやってこれた方法にすがるのも仕方がない。ところが、昆作だと自前の保険が効くのだ。

農家が輪作、群集、昆作を使って多様な作物を育てているとき、それは自家製の保険のようなものなのだ。もしある作物がだめになっても、別のものに頼ることができる。
  ――第7章 解決策の構築

 それでも、少しづつ環境保全型農業は広がっている。その原動力が…

私が訪れた地域で、環境保全型農業の受け入れがうまくいくための共通要素は、農家に採用を促進する実験農場が重視されていたことだった。
  ――第13章 第五の革命

 小難しい理屈を並べる奴より、実際に稼いでいる人の方が説得力がある、と。そりゃそうだ。もっとも、それだけじゃなく、環境保全型農業で安定して稼ぐのは難しいのだ。

私がインタビューした人の例に漏れず、(オハイオ州立大学のラッタン・)ラルは、この方法を実行する際、慣行農法から低投入不耕起栽培への移行に二、三年を要すると注意を促した。
  ――第11章 炭素を増やす農業

 と、切り替えに時間と費用がかかる。だけじゃなく、土の状態・気候・市場などで、具体的な作物や栽培法が違うため、広く深い知識と経験が必要ななのだ。

(ガーナ不耕起農業センター所長コフィ・)ボアは作物の収穫後の地面の状態と市場の状況――作物が熟する時期に売れるもの――に応じて決定を下す。(略)浅根の作物のあとに深根のものを栽培したほうがよい。バイオマス生産量の低い作物のあとに高いものを栽培したほうがよい。栄養を吸収する作物のあとに栄養を固定するものを栽培したほうがよい。
  ――第7章 解決策の構築

単純なレシピがあれば有機農業はもっと受け入れやすいんだが
  ――第8章 有機農業のジレンマ

多くの地域で、環境保全型農業を地域の条件と作物に適応させる知識が欠けていることが、その採用の主な障害となっている。
  ――第13章 第五の革命

 昔のSFじゃ、世代型宇宙船の食糧は水耕栽培が供給していたけど、植物ってのは、それほど単純じゃないらしい。とまれ、実は複雑な生態系が実りを支えている、みたいな話なので、異星に植民して開拓する話とかに膨らませることはできそう。なんてSFな妄想は置くとしても、大気中の炭素を減らす案もあって、いろいろと夢が広がる本だった。

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2020年7月 9日 (木)

SFマガジン2020年8月号

「家の改築材料をホームセンターで買い揃え、山積みの角材を前に途方に暮れてるんだ」
  ――高木ケイ「親しくすれ違うための三つ目の方法」

わたしたちは信じられるものになにかを捧げているときにこそ、一番気持ちがよくなるのだから。
  ――麦原遼「それでもわたしは永遠に働きたい」

「桜塚展開2次の項には花が咲く」
  ――大滝瓶太「花ざかりの方程式」

虚構世界においてのエントロピーとは、いったいなんだろうか?
  ――草野原々「また春が来る」

「雪風を狙うやつはたとえ相手が人間だろうと、敵だ」
  ――神林長平「戦闘妖精・雪風 第四部 アグレッサーズ 第一話」

「<ピグマリオン>はあなたの脳機能をマッピングして、なんらかの現実的意味をその世界に反映させています。あなたはそのなかで見たことをとおして、自分の心の働きを再起的に知ることになります」  ――春暮康一「ピグマリオン」前編

「牛たちの敵は脳の奥深くにある。人間と同じく、電気信号の自閉的な連鎖が作り出す架空の敵に怯えている。具体的でないから、余計に恐ろしい」  ――津久井五月「牛の王」

 376頁の標準サイズ。

 特集は「日本SF第七世代へ」。

 小説は豪華14本。

 まず英語圏SF受賞作特集で8本。高木ケイ「親しくすれ違うための三つ目の方法」,麦原遼「それでもわたしは永遠に働きたい」,大滝瓶太「花ざかりの方程式」,草野原々「また春が来る」,三方行成「おくみと足軽」,春暮康一「ピグマリオン」前編,津久井五月「牛の王」,樋口恭介「Executing Init and Fini」。

 連載は6本。神林長平「戦闘妖精・雪風 第四部 アグレッサーズ 第一話」,飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第4回,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第31回,,劉慈欣「クーリエ」泊功訳,藤井太洋「マン・カインド」第12回,夢枕獏「小角の城」第60回。

 高木ケイ「親しくすれ違うための三つ目の方法」。大学生の僕は、ノンフィクションの取材のためインディアナのセカンドポイントに毎週通っている。母方の祖父は、出身地のここでUFOを目撃した。他にもUFOの目撃者・接触者・その血縁などが集まる組織の人々と会い、また大量の資料を集めたが、肝心のノンフィクションは遅々として進まない。

 もしかしたら三島由紀夫の「美しい星」のパロディかなと思ったが、主人公のUFOマニアたちへのまなざしはかなり温かい。あと主人公の生い立ちとかはスティーブン・スピルバーグの映画「未知との遭遇」や「E.T.」かな? 資料ばっかり集まって…って所は、とっても身に染みる。ブックマークはやたら充実するけど、肝心のモノはいつまでたっても構想すらまとまらなかったり。

 麦原遼「それでもわたしは永遠に働きたい」。平均寿命48歳、みんなクスリづけで路地にたむろする地元を出て、わたしは働くことにした。今は労働と呼ばない。朗働と呼ぶ。フィットネスクラブで運動しながら、脳を法人に預ける。仕事が終わると、勤務中の記憶はすべて消える。一日の最大勤務時間は10時間まで。運動不足や仕事のスランプで悩むことはない。

 新型コロナの騒ぎでリモートワークが増えた今、なかなかに切実な設定。「いや宅急便の配送とか、体がないと困る仕事も多いよね?」と一瞬思ったが、その懸念は序盤で解決しているのであった。もっとも副作用もあって、この描き方が実に巧い。組織の中で専門的な仕事をしている人は、自分の仕事の内容を他人に説明するのに苦労するんだよなあ…とか思ってたら、話はどんどんエスカレートして…

 大滝瓶太「花ざかりの方程式」。数学者の桜塚八雲の最後の論文「稀薄期待におけるナビエ・ストークス方程式に寄生した植物の存在とその一般性」は、数学界で話題を呼ぶ。トンデモではない。厳しい査読を通り、由緒正しい専門誌に掲載された論文だ。しかも、この論文を理解した者は、その植物が見える。

 「死圏」は「カート・ヴォネガット全短編1 バターより銃」で読めます。ナビエ・ストークス方程式(→Wikipedia)は「正しいけど使えない」ので有名な流体力学の式。解が判ってりゃ解けるんだけど、だったら解く必要ないじゃん、と。だもんで、普通は変数の幾つかを定数に置き換え簡略化して使います。いや私も判ってないんだけど。ってな難しいネタと、ヴォネガットのおバカな短編を組み合わせた短編。

 草野原々「また春が来る」。作家にも四季がある。冬のあいだ眠っていた作家たちも、春が来ると目覚めて仕事をはじめる。作家の仕事は虚構世界を作ることだ。作りはじめの虚構世界は、エントロピーが低い。解釈の幅が狭く、読解の余地が少ない。世界も小さく、キャラクターの動きも制限されている。

 …と、そんな風に、草野ワールドは育っていくのです。なぜか女の子しかいない世界が多いけどw まあ中には読者が勝手に世界を広げちゃう場合もあって、というか「最後にして最初のアイドル」はまさしくソレな気がw

 三方行成「おくみと足軽」。本陣の娘おくみは十歳。彼女は大名行列が好きだった。大名は大きい。宿場のどんな建物より大きい。そんな大名の行列は、とても美しい。去年は大名を見るため宿場のはずれにある樹にのぼった。なにせ大名は大きい。下から見上げても、てっぺんは見えない。だから高い松に登れば、甲羅のてっぺんにある御駕籠が見えるだろうと思ったのだが…

 言われてみれば、当時の庶民にとって大名行列は一種のパレードみたいなモンで、楽しみにしてる人もいたんだろうなあ…なんて予想は、当たらずとも遠からず? もっとも増設腕とか四脚亀形とか、なんか妙な言葉が紛れ込んでくるんだけどw 確かに、そんあ大名行列なら、今だって子供たちに大人気だろうなあw

 春暮康一「ピグマリオン」前編。22歳の南野啓介は、<ピグマリオン>手術を受ける。その機能の一つは、自分の精神世界を客観視すること。感情や思い込みを排し、現実の姿を見ることができる。もう一つは、脳内にAIで理想の人格を作り出すこと。AIは利用者にアドバイスを送る。アドバイスを受けいれるに従い、利用者の人格はAIに近くなる。すなわち、理想の自分に近づいてゆく。

 最初の機能は、いわば精神の鏡ですね。見たいような、見たくないような。「お前、また逃げてるな」とか言われたらムカつくし。とはいえ、もう一つの機能は嬉しいよね。忘れっぽかったり、面倒くさいこと・苦手なことを、ついつい後回しにしちゃうクセがあると、やっぱ欲しくなるなあ。

 津久井五月「牛の王」。アンソニー・ルドラは、マイクロマシン通信理論の祖だ。彼がカシミールに設立した研究所から、多くの研究者が巣立ち、技術と産業を発展させた。2054年、ライ・クリモトは、久しぶりに師を訪れる。半年前、師は一番弟子のテレーズ・アンヌ・マリーを喪った。テレーズの研究を継いでほしい、そう師はクリモトに告げる。

 長編の冒頭部分。そうか、紅茶はそういうことか。確かにマイクロマシンで通信するのは難しい。細菌や白血球とかは化学物質で情報をやりとりしてるみたいだけど、それで巧くいってるってのも、ちと信じがたい話。とはいえ犬とかも臭いでなわばりを判別してるから、案外と化学物質の情報量は大きいのかも。

 樋口恭介「Executing Init and Fini」。初めて会ったとき、フィニーはバロウズと名づけた大きな鎖鎌を持っていた。彼女は文字を狩る。

 バロウズはたぶんウィリアム・バロウズ(→Wikipedia)を示すんだろうなあ、ぐらいしかわからなかった。

 神林長平「戦闘妖精・雪風 第四部 アグレッサーズ 第一話」。クーリィ准将の予想通り、地球から戦闘機部隊がFAFにやってきた。ただし正式な地球連合軍ではない。中心はオーストラリア空軍で、日本海軍航空部隊が支援する形だ。これには地球の政治情勢が関わっている。そのため、発足したアグレッサー部隊の二名、深井大尉と桂城少尉は、ブッカー少佐から政治情勢のレクチャーを受けていた。

 わはは。桂城はともかく、深井零に政治情勢を分からせるってのは、無茶やろ…と思ったら、やっぱり無茶だったw しかも、今回は珍しく零が感情剥き出しの長台詞があったり。もっとも、その感情の向かう先がソッチなあたりは、やっぱり零だよなあw

 飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第4回。啄星高校に転校してきた印南棗を中心に、山下祐・儀間圏輔・杉原香里の四人は、天使化が始まった早坂篤子を襲う。時は始業前、場所は高校の自転車置き場。篤子の体は砂のようなものに侵食されつつある。

 今回はド派手なバトル回。なにせ舞台は数値海岸なだけに、戦闘の様子もこの世界ならでは。特に篤子が<手>で反撃するあたりは、凄まじくデンジャラス。にしても三次元空間を官能素で満たすには、いったいどれだけのメモリと演算能力が必要なんだろう、とか考えるとキリがない。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第31回。バロットらイースターズ・オフィスが、やっと得たハンターたちとの会合の場。ローレン大学で学んだ経験を活かし、バロットは敢えて沈黙を武器とする。彼らからウフコックの情報を引き出すために。ウフコックを救い出すために。

 前回に引き続き、会話に強い緊張感が漂う回。確かに交渉時に沈黙は怖いよなあ。と同時に、ちょっとした「しぐさ」からも多くの情報を引き出そうとする、タフでしたたかなバロットが拝める回。そんなバロットに対し、身内抱えた危機を微塵も感じさせず静かに対応するハンターもクールだ。

 劉慈欣「クーリエ」泊功訳。若い頃の彼は、特許局に勤めながら屋根裏部屋で暮らしていた。今は老いて、ブリンストンで静かに暮らしているが、悩みは尽きない。うっとうしい悩みから逃げるように、バイオリンを弾くのだった。ここしばらく、一人の青年が彼のバイオリンを聴いているのに気づく。

 7頁の掌編。好きな人なら、老いたバイオリニストの正体は最初の方でピンとくるかも。とまれ、青年が彼を訪れた目的には、著者の想いというか願いがこもってると思う。

 藤井太洋「マン・カインド」第12回。いよいよ終盤に差し掛かった模様。最後の数行は、盛んにデモが行われている現在のアメリカを考えると、なかなかにヤバくて怖くなる。本当にそうなったら、どうなるんだろう?

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2020年7月 3日 (金)

佐藤岳詩「メタ倫理学入門 道徳のそもそもを考える」勁草書房

メタ倫理学においては、そもそも規範倫理学が前提としている様々なことが疑問に付される。たとえば「正しいこと」など本当に存在するのだろうか。そもそも「正しい」とはどういう意味なのだろうか。私たちはなぜ「正しいこと」をしなければならないのだろうか、などである。
  ――第1章 メタ倫理学とは何か

道徳について何かを問うても、答えなど見つからない。偉そうなことを言っている人も、結局は自分の感情を表現しているだけだ、と表現型情緒主義者は述べる。
  ――第7章 道徳判断を下すとは自分の態度を表すことである

非実在論―非認知主義―表出主義的な世界観は、道徳を自分たちの中から生み出されて、私たち自身を導くものとして捉えた。他方で、実在論―認知主義―記述主義的な世界観は、道徳を世界に実在する真理と考え、それが見えれば私たちは自らそれに向かって歩みを進めるものと捉えた。
  ――第8章 道徳判断を下すとは事実を認知することである

まっとうな心をもった人であれば、そうした場面に遭遇したときに、そうしなければならないことがわかるし、それでいい。そう直感主義は考える。
  ――第9章 そもそも私たちは道徳的に善く振る舞わねばならないのか

【どんな本?】

 倫理学は大雑把に三つの分野がある。規範倫理学、応用倫理学、メタ倫理学だ。

 規範倫理学は、善悪の基準を求める。最大多数の最大幸福を求める功利主義、善き性質を身に着けるのが大事とする徳倫理学などだ。

 応用倫理学は、私たちが直面している切実で生々しい問題を扱う。脳死臓器移植の是非、IT技術者などの規範を決める専門職倫理学、環境問題を考える環境倫理学などだ。

 対してメタ倫理学は、規範倫理学の根拠に疑問を呈する。

 そもそも善悪の基準は存在するのか? そもそも善悪とは何なのか? そもそも善悪について語る必要はあるのか?

 そう、メタ倫理学の特徴は「そもそも」にある。規範倫理学が礎としている基本的な事柄に対し、「そもそも、○○って何なの?」と疑い、何らかの解を示す。それがメタ倫理学だ。

 ただし、今のところ、メタ倫理学に決定的な解は出ていない。幾つもの流派が分かれては合流して新しい流派を生み、喧々囂々の戦国時代にある。

 そこで本書は、メタ倫理学の入門書として、メタ倫理学の全体を見渡す「地図」を目指している。

 メタ倫理学は、どんな問題を扱うのか。それぞれの問題に対し、どんな説や流派があるのか。流派の間では、どんな議論が交わされているのか。そして、そもそもメタ倫理学とは何なのか。

 敢えて個々の流派の深みに踏み入る事を避け、あくまでもメタ倫理学全体を俯瞰する立場で著した、素人向けのメタ倫理学の入門書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2017年8月20日第1版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約325頁に加え、あとがき8頁。9ポイント52字×20行×325頁=約338,000字、400字詰め原稿用紙で約845枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらいの分量。

 つまりは哲学の本なので、どうしてもややこしい表現が多いのは覚悟しよう。ただし、できる限り分かりやすくするために、著者は工夫を凝らしている。なるべく身近で具体的な例を示す、部や章の最初と最後に「まとめ」を入れる、箇条書きを使う、などだ。また、本文頁に脚注を入れ、頁をめくらずに済むようにしているのも嬉しい。

 表紙の漫画っぽいイラストや、手に取りやすいソフトカバーの製本など、ややこしい事柄をできる限りわかりやすく伝え、読者をメタ倫理学の泥沼に引きずり込もうとする、著者の熱意と陰謀が伝わってくる本だ。

【構成は?】

 最初に全体を俯瞰して、続く章で個々の話を述べる形だ。なので、なるべく素直に頭から読もう。

  • はじめに
  • Ⅰ 道徳のそもそもをめぐって
  • 第1章 メタ倫理学とは何か
    • 1 倫理学とは何か
    • 2 倫理学の分類
    • 3 メタ倫理学はなんの役に立つのか
    • 4 メタ倫理学では何が問われるのか
    • 5 本書の構成
  • 第2章 メタ倫理学にはどんな立場があるか
    • 1 客観主義と主観主義
    • 2 道徳的相対主義
    • 3 客観主義と主観主義のまとめ
  • Ⅱ 道徳の存在をめぐって
  • 第3章 「正しいこと」なんて存在しない 道徳の非実在論
    • 1 道徳の存在論
    • 2 錯誤理論 道徳の言説はすべて誤り
    • 3 道徳の存在しない世界で
    • 4 道徳非実在論のまとめ
  • 第4章  「正しいこと」は自然に客観的に存在する 道徳実在論 1)自然主義
    • 1 実在論の考え方と二つの方向性
    • 2 素朴な自然主義 意味論的自然主義 もっともシンプルな自然主義
    • 3 還元主義的自然主義 道徳を他の自然的なものに置き換える
    • 4 非還元主義的自然主義 道徳は他と置き換えられない自然的なもの
    • 5 自然主義全般の問題点
    • 6 自然主義的実在論のまとめ
  • 第5章 「正しいこと」は不自然であろうと存在する 道徳的実在論 2)非自然主義的実在論
    • 1 神命節
    • 2 強固な実在論
    • 3 理由の実在論
    • 4 非自然主義的実在論のまとめ
  • 第6章 そもそも白黒つけようとしすぎじゃないのか 第三の立場と静寂主義
    • 1 準実在論 道徳は実在しないが、実在とみなして構わない
    • 2 感受性理論 道徳の実在は私たちの感受性を必要とする
    • 3 手続き的実在論 道徳は適切な手続きを通して実在する
    • 4 静寂主義 そもそも実在は問題じゃない
    • 5 第三の立場および第Ⅱ部のまとめ
  • Ⅲ 道徳の力をめぐって
  • 第7章 道徳判断を下すとは自分の態度を表すことである 表出主義
    • 1 道徳的な問いに答えること
    • 2 表出主義
    • 3 表現型情緒主義 道徳判断とは私たちの情緒の表現である
    • 4 説得型情緒主義 道徳判断とは説得の道具である
    • 5 指令主義 道徳判断とは勤めであり指令である
    • 6 規範表出主義 道徳判断とは私たちが受け入れている規範の表出である
    • 7 表出主義のまとめ
  • 第8章 道徳判断を下すとは事実を認知することである 認知主義
    • 1 認知主義
    • 2 内在主義と外在主義
    • 3 ヒューム主義 信念と欲求は分離されねばならないか
    • 4 認知は動機づけを与えうるか
    • 5 道徳判断の説明のまとめ
  • 第9章 そもそも私たちは道徳的に善く振る舞わねばならないのか
    • 1 Why be Moral 問題
    • 2 道徳的に善く振る舞うべき理由などない
    • 3 道徳的に善く振る舞うべき理由はある プリチャードのジレンマ
    • 4 道徳的価値に基づく理由
    • 5 最終的価値に基づく理由 理性主義
    • 6 そもそも理由なんていらなかった? 直感主義、再び
    • 7 Why be Moral 問題および第Ⅲ部のまとめ
  • おわりに
  • あとがき/文献一覧/事項索引/人名索引

【感想は?】

 そう、この本は地図だ。惑星「メタ倫理学」の地図だ。

 きっとあなたは、メタ倫理学なんか知らない。聞いたこともないだろう。だが、この本のどこかに、あなたは居る。

 なぜなら、あなたは善悪を判断できるからだ。何が正しくて何が正しくないかを分かっているからだ。いや、時として分からなくなることがあるかも知れない。というか、普通に生きてりゃ「どうすりゃいいのか」と悩むことは必ずある。

 それでも、悩んだ挙句に、あなたは何らかの解を出す。つまりは、あなたなりに「正しさ」の基準を持っているのだ。

 ただし、往々にして、人によって「正しさ」の基準は違う。体罰や夫婦別性などでは、激しい議論が沸き起こる。賛否いずれの側も、自分が正しいと思っている。では、「正しい」って、何なんだろう?

 その解は、人によって違う。違うけど、みんな自分なりの解を持っている。それはつまり、誰もが惑星メタ倫理学上のどこかに居るってことだ。

 そういう点で、この本は万民向けの本だ。あなたはメタ倫理学上において、必ず何らかの意見を持っている。ただ、自分の意見がどう呼ばれているか知らないだけだ。

 この本の面白さのひとつが、ソレだ。自分の居場所がわかる。自分だけじゃない、あなたとは意見が異なる人の居場所もわかる。もっとも、居場所がわかるだけで、なぜ違うのか、どっちが正しいのかまでは判らないけど。その辺は中立的というか、議論を紹介するに留めているのが、この本のもう一つの特徴だろう。

 ちなみに私は非実在論―非認知主義―表出主義らしい。これを突き詰めると、ある意味ヤバい考え方になる。なにせ…

非実在論の立場によれば、道徳的な事実や性質といったものは、いっさい存在しない。
  ――第3章 「正しいこと」なんて存在しない 

 と、解釈の仕方によっては、とんでもねえ思想って事になりかねない。なんたって、極論すれば「正義なんてない」って思想なのだから。少なくとも、アブラハムの神を真剣に信じている人からすれば、不道徳きわまりない奴に見えるだろう。つか、こんな事を全世界に向けて書いて大丈夫なのか俺。まあ、そういう発想は生理的に受け入れられないって人向けに、こういう論も紹介している。

その説明があまりにも、私たちの直感からかけ離れたものであるとすれば、それはそれで理論としては問題含みである。
  ――第5章 「正しいこと」は不自然であろうと存在する

 理屈はどうあれ、結論が納得できないなら、やっぱ間違ってるんじゃね? と、そういう事だ。ソレはソレで、世の中の仕組みと合ってるだろう。賢い人がいくら精緻な理屈を述べようと、国民の多くが反対する制度や法律は、たいてい成立しないし。

 などと、「こんな問題があります」「それについてはこんな論があります」「対してこんな反論もあります」と話を進め、なんか賢くなった気分にさせた後で、一気にちゃぶ台返しを食らわすから、この本は油断できない。

この考え方(静寂主義)によれば、そもそも私たちは道徳的な事実の実在をめぐって議論する必要はなく、そのような形而上的な議論については静寂を保つべきである。それはなぜかと言えば、道徳的な事実が存在しようとしまいと、私たちの日常には何の影響もなく、何の道徳的問題も解決されないからである。
  ――第6章 そもそも白黒つけようとしすぎじゃないのか

 をいw 今までの議論は何だったんだw せっかく頑張ってややこしい理屈を読み解いたのにw

 私の感想としては、どの主義も「有り/無し」のデジタル思考に囚われすぎというか、ヒトの心を単純化しすぎというか、そんな風に感じた。

 例えば、この本では、大雑把に二つの対立陣営を紹介している。非実在論―非認知主義―表出主義的と、実在論―認知主義―記述主義だ。これキッパリ切り分けられるんじゃなくて、たいていの人は双方を含んでいて、その割合が人によって違うし、時と場合と状況によっても割合が変わるんだろう、とか。

 また、今のところメタ倫理学は理屈から現象を検証しようとしてるけど、逆に現象から理屈を導き出そうとしてる行動経済学とかと交流が盛んになったら、なんかとんでもねえ化け物が出てきそうな気がする。

 と、自分の位置を確かめるって読み方をしてもいいし、自分には理解できない立場、例えば人種差別主義者の立ち位置を想定してみてもいい。または「哲学者ってのは何をやってるのか」を覗き見する楽しみもある。ややこしくて面倒くさいけど、ソレはソレで面白そうな仕事だよなあ、と思ったり。少なくとも、倫理学にハッキリした解は(少なくとも今のところは)出ていないのだ、ってのだけでも分かれば、この本を読んだ価値は充分にある。

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2020年6月30日 (火)

ルーシャス・シェパード「タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短編集」竹書房文庫 内田昌行訳

「グリオールが自分の存在を知らせようとしてるときには、ちゃんと注意を払わないと不幸に見舞われるんだよ」
  ――タボリンの鱗

「わたしたちはいつだって彼を見くびってきた」
  ――タボリンの鱗

「ヤーラは猿みたいに頭がおかしいんじゃない。蛇みたいに頭がおかしいんだ」
  ――スカル

【どんな本?】

 ルーシャス・シェパードはアメリカ合衆国のSF/ファンタジイ作家で、中南米を舞台とした作品が多い。この本は「竜のグリオールに絵を描いた男」に続くグリオール・シリーズの作品集で、「タボリンの鱗」と「スカル」の二編を収める。

 グリオールは邪悪で長命な竜で、巨大な体は1800mにも及ぶ。かつて魔法使いがグリオールと戦い、かろうじて眠りにつかせた。眠るグリオールの周囲には町ができる。1853年にメリック・キャタネイが竜にとどめをさす計画を持ち込む。竜の体に絵を描き、絵の具の毒で殺そう、と。30年をかけて計画は実施された。だが、竜の死は確認できていない。何せ鼓動すら千年に一度しか打たないのだ。

 生死は定かでないグリオールだが、その邪念は近くに住む人々に染みわたり、その人生を操る。少なくとも、そう考える人は多い。実際、グリオールの周囲では様々な事件が起きる。それは竜の邪念によるものなのか、それとも人の邪悪さゆえなのか。

 荒々しい中南米を舞台に、邪悪で巨大な竜グリオールが関わる事件を描く、恐怖と幻想のファンタジイ作品集。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 日本独自の編集。2020年1月2日初版第一刷発行。文庫で本文約303頁に加え、著者による「作品に関する覚え書き」5頁+池澤春奈の解説6頁。8.5ポイント41字×17行×303頁=約211,191字、400字詰め原稿用紙で約528枚。文庫本としては普通の厚さ。

 文章はこなれている。ただ、単位系がヤード・ポンド法なので、慣れない人は少し戸惑うかも。ちなみに1フィートは約30cm。SFというよりファンタジイなので、理科が苦手でも大丈夫。大事なのは竜のイメージだろう。最近のファンタジイにありがちな軟弱なシロモノではない。ひたすら巨大で強力で邪悪な上に狡猾な存在だ。また、現地の言葉はスペイン語である由を心に留めておこう。

【タボリンの鱗】

 ジョージ・タボリンは40歳で趣味は古銭収集。春に三週間ほどグリオールの麓にあるテオシンテ市に出かけ、娼婦と古銭を買い漁って休暇を過ごす。その年は、古い鱗のようなものを見つけた。大きさは親指の爪の三倍ほど、汚れていて黒っぽい。グリオールの鱗にしては小さすぎる。鱗を欲しがる娼婦が居たので、二週間の「仕事」の報酬として渡すことで話がまとまった。鱗の汚れを落とそうと磨いていたところ…

 原題は The Taborin Scale。時系列的には、「竜のグリオールに絵を描いた男」事件のすぐ後ぐらい。グリオールを観光資源としてちゃっかり商売しちゃってるテオシンテ市の逞しさに思わずニンマリしてしまうが、生死の確認ができないってなんやねんw なぜソレを最初から考えないw

 先に出た「竜のグリオールに絵を描いた男」は、グリオールが周囲の者に及ぼす影響が話の中心だった。本書では、これに加えもう一つの重要な軸が加わる。合衆国と中南米の関係だ。とは言っても、政府高官や大企業が関わる大げさなものじゃない。合衆国から訪れた観光客と、現地の人々の関係だ。

 今はともかく、円高だった頃に東南アジアを旅したことがある人は、身に覚えがあるだろう。日本にいるより、はるかに金持ちになった気分が味わえるのだ。これは為替や物価の関係で、物価が1/10ぐらいになったように感じてしまう。別の言い方をすると、自分がいきなり金持ちになったような気分が味わえる。

 比較的に外交が弱い、というか外務省が頼りにならない日本ですら、そうなのだ。米国の市民権を持つ者は、更に政治的な強みもある。本作品の主人公、ジョージ・タボリンが、テオシンテで休暇を過ごすのも、そんな強みを利用するためだ。彼と娼婦シルヴィアは、まさしくそういう関係で始まる。

 とかの生臭い政治色はあるが、同時にグリオールの意外な面が見えるのも本作品のお楽しみ。なんと、若きグリオールが大怪獣ラドンよろしく暴れまわるのだ。さすがに全長1.6kmとまではいかないが、7~8mはある。しかもブンブン飛びまわるからタチが悪い。おまけに竜らしく邪悪な知恵まで備えてる。まさしく覇者の風格と言えよう。

 いろいろあって映画化は難しいが、シェパード作品には珍しくヴィジュアル的なインパクトが大きな作品だ。

【スカル】

 2002年から20088年まで、ジョージ・クレイグ・スノウはテラマグアで過ごした。仕事もしている。いかさま慈善団体で嘘の手紙を書き、米国の篤志家たちから金をだまし取る。ガールフレンドに宿から叩き出されたジョージは、不思議な少女ヤーラと出会う。ヤーラはジャングルの奥で、新興宗教らしき集団の中で、巫女のような役割を果たしていた。しかも、彼女が住んでいるのは…

 原題は The Scull。先の「タボリンの鱗」の更に後の時代。「作品に関する覚え書き」で、テラマグアはグアテマラがモデルだとハッキリ示している。

 そのグアテマラ、コーヒーが好きな人には独特の風味で有名だが、「コーヒーの歴史」を読む限り社会はかなりアレだったり。当然、米国の資本も入ってるワケで、たぶんCIAも暗躍してるんだろうなあ。本作品にそういう話は出てこないけど。

 そんな社会だけに、貧富の差は激しく、人びとの米国人に対する感情も複雑だ。米人の持つ金には興味があるし、下手に手を出して政府を刺激したくはないい。が、地元のルールをわきまえない米人の振る舞いは鼻持ちならないと感じてもいる。

「おめえは自分がどこにいるかわかってねえ。おめえらクソどもはみんなそうだ。ふらふら歩きまわって、自分ならみじめで哀れなテマラグア人よりもすぐれてるから、どんな問題でも解決できると思い込んでやがる。だがおめえらがやることはおれたちの問題を増やすだけなんだ」
  ――スカル

 もちろん、自国の政府に対する不満も溜まっている。どうすりゃいいのかはともかく、今が最悪なのはわかる。そんな気分は、改革を叫ぶ過激な政治集団を台頭させてしまう。

またもや昔ながらの政治的主張――どんなリスクがあろうと、変化は良いものである。
  ――スカル

 と書くと他人事みたいだが、「日本維新の会」の躍進とかを見ると、対岸の火事とばかりは言ってられないんだよなあ。

 など、理不尽かつ突発的な暴力の予兆と、Skull=頭蓋骨が示す不気味な怖ろしさをブレンドして、主人公たちの刹那的で退廃的な行動をトッピングし、低緯度地方の蒸し暑い空気で仕上げた、エロチックでおぞましい物語だ。

【おわりに】

 前にも書いたが、最近は「小説家になろう」にハマってしまい、あまし記事が書けない。しばらく書かないと、書き方を忘れちゃって、よけいに記事が書けなくなったり。いや読みたい本はたくさんあるんだけどね。

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